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自殺の道徳性と合理性 [翻訳]

  別のブログにおいて、何回かに分けて、スタンフォード大学の「哲学百科事典」(Stanford encyclopedia of philosophy)の‘suicide’の項目(執筆者はMichael Cholbi)の第三部を訳したのだが、それらを一つにまとめておきたいと思ったので、このサイトに置くことにする。まとめるに当たって、語句の手直しをした部分がある。

 明確な結論が出ているわけではないので、明快な結論を求める人には歯切れが悪いと映るだろうが、自殺は許容できるか否か、自殺は理性的行為と言えるか否かという問いについてどういう見解があるかの全体像を知るにはふさわしい論述になっていると思う。



 
 ちなみに初出時のURLを掲げておこう。


 「3.1 道徳的に許されるか?」 & 「3.2 生命の尊厳からの義務論的論証」 http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-01-26

 「3.3 宗教的な論証 」             http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-02-01

 「3.4  リバタリアンの論証と自殺する権利」  http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-02-08

 「3.5 社会的・功利主義・役割ベースの論証」  http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-02-19

 「3.6 道徳的義務としての自殺は存在するか?」  http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-03-13
 
 「3.7 自律性、合理性、責任」          http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2013-04-01






Suicide  By Michael Cholbi

First published Tue May 18, 2004; substantive revision Tue Nov 20, 2012

http://plato.stanford.edu/entries/suicide/#DeoArgSanLif





  3. 自殺の道徳性と合理性






  3.1 道徳的に許されるか?




  自殺に関する大きな道徳上の問題は、

 1.自殺が道徳的に正当化される条件はあるのか、もしあるとすれば、それはどのような条件なのか?

というものであった。 


 この問いは他の3つの問いから区別されるべきである:

 
 1.他人は自殺を防ぐように試みるべきか?

 2. 国家は自殺を法で処罰したりそれを防ぐように試みるべきか? 

 3.自殺ははたして理性的であったり賢明であったりするのか?


 これらの4つの問いのいずれかに対する答えは、他の3つの問いにどう答えるべきかに影響を与えることは明らかだ。例えば、もしある状況下で自殺が道徳的に許されるならば、他の人や国家が(同じ状況下での)自殺行動に干渉すべきでないと想定できるだろう。しかし、もしそうした自殺行動をとる人が理性的でないならば、そうした結論は出てこないだろうし、そうした人が自殺するのを防ぐために干渉が必要となるだろう。そういう人は、もっと完全に理性的であれば、自殺という結果を後悔するだろうからである。さらに、理性的な自律性を強調する道徳理論にとっては、個人が理性的に自殺することを選択したかどうかが、(上にあげた)4つの問いを解決することになるだろう。いずれにしても、自殺が道徳的に許されるかどうかという点と、自殺が理性的かどうかという点と、他者や社会全体の義務という点は相互に複雑にからみ合っているので、われわれは、これらの4つの問いのいずれかに対する答えが他の3つの問いを決定的な形で解決すると仮定しないように用心すべきである。




  3.2 生命の尊厳からの義務論的論証



 自殺についての最も単純な道徳的見方は、人間の生命は神聖だから、自殺は必然的に間違っていると主張するものである。この立場は宗教的思想家(とくにカトリックの思想家)にしばしば結びつけられるが、ロナルド・ドウォーキンが指摘したように(1993)、無神論者もこの主張に訴えることができるのである。この「生命の尊厳」説によれば、人間の生命は内在的に価値があり貴重なものであって、他人からの尊敬と自己自身に対する畏敬の念を要求する。ゆえに、自殺は、人間の生命の内在的価値―― その生命が他者や当人にどれほどの価値があるかに関わりなく ――を尊重するという道徳上の義務に違反しているために、間違っていることになる。生命の尊厳説は、こうして、自殺に関する義務論的な立場となる。


 生命の尊厳説の大きなメリットは、それが一般の道徳感情を反映していること、すなわち、殺すことはそれ自体間違っているという道徳感情を反映している点にある。(それに対して)生命の尊厳説の大きな困難を以下に示そう。


 第一に、その説の支持者は自分の立場を首尾一貫して適用しようとしなければならない。つまり、死刑や戦争中の殺人などの議論の余地のある殺人の形態も道徳的に禁じられることになるだろう。しかしその立場は、自己防衛のための殺人のような直感的に妥当と思える殺人の形態も禁じることになるだろう。生命の尊厳に基づく論証を受け入れるには、徹底した平和主義を支持することが求められそうだ。


 第二に、生命の尊厳説は、生命そのものが――その生命がどれほど幸福であるかどうかとはまったく無関係に―――価値があると主張する。(しかし)多くの哲学者は、生命が内在的に価値があるという考え方を拒絶する。なぜなら、そうした考え方をとれば、死ぬまで植物状態にいる人を―――その人が生物学的に生きているというただそれだけの理由のために――生かし続けておくことにも価値があることになってしまうからだ。(それに対して)ピーター・シンガー(1994)等は、生命の尊厳説に反対の主張を展開したのだが、その際の根拠は、生命の価値は内在的ではなく外在的である、つまり、個人のこれから起こりうる生命の質に基づいて判断されなければならないものだ、という点にあった。ある人の生命の継続の価値がその起こりうる質によって測られるのであれば、その質が低くなれば自殺は許されるものとなるだろう(セクション3.5を参照)。(こう言ったからといって、生命の質の評価が簡単だとか異論の余地のないものだと示唆したいわけでない。議論のためにはHayry1991を参照されたい)。



 最後に、人間の生命の尊厳に対して十分な敬意を払うならば、生命を終わらせる――それが、自殺によるものであれ他の手段によるものであれ――ことは禁じられるということは明白ではない。将来がとてつもなく希望の持てないものになりそうなときに自殺行動に走る人は、必ずしも生命の尊厳に対して不十分な敬意しか払っていないわけではない
(Dworkin 1993、238)。自然に終わる前に自分の生命を終わせることは、必ずしも生命の価値に対する侮辱ではない。実は、医療上の条件や心理的な条件のおかげで、かつては充分に能力をもっていた人が見る影もないような状態に追い込まれた状況においては、自殺は生命を肯定する行為であるかもしれないと主張して良いかもしれないのである(Cholbi 2002)。




  3.3 宗教的な論証

 

 自殺は道徳的に許されないとする論証の一般的カテゴリーは二つあって、そのいずれもがキリスト教の宗教的伝統から出てきたものだ。そのうちの最初のものは以前紹介したトマス・アクィナスの自然法の立場であり、ヒュームによって批判された立場である(セクション2.3を参照されたし)。この伝統によると、自殺は神が自然界と人間の存在を支配するために創造した自然法を侵すものである。この自然法は、(a)自然の因果的法則という観点から考えられることができるし(自殺はこの因果的秩序を侵しているというように)、(b)すべての自然の存在は自分自身を保存しようと努めるものだとする目的論的観点からも考えることができるし、または(c)人間の自然(=人間の本性)を支配する法則(そこから、自殺は「不自然的」ということが帰結する)という観点から考えることもできる(Pabst Battin 1996、41-48)。こうした自然法の論証はヒュームなどによる激しい批判を受けたので(ただし、Gay-Williams1996を参照されたい)、もはや哲学的議論の主な焦点になることはない。こうした批判には、次のものがある。(1)自然法の論証はきわめて思弁的な有神論的形而上学から切り離すことはできないという批判。(2)自然法の主張は、人間の本性を観察することによって反駁されるという批判(例えば、自己破壊的な人間の行動の存在は、われわれが「本性的に」自己自身を保存するものだという主張に疑いを投げかけるものである)。(3)神が非難しているとは考えられていないその他の行為(例えば、宗教的殉教)も、これらの自然法を侵しているので、自殺の禁止を恣意的なものに思わせてしまうという批判。


 宗教的な論証の二番目の一般的カテゴリは、神と人類の関係に関する比喩に基づいている。これらの論証のほとんどは、死という出来事を決定する厳密で道徳的な権威を持っているのは神であって、個々の人間ではないということを確立しようとする。歴史的に名高い一つの比喩によると(アクィナスとロックが提起したものだが)、われわれは神の所有物であって、だから自殺は、窃盗や財産の破壊にも似た神に対する犯罪であるというものである。この比喩はいくつかの点で弱いように思われる。第一に、もしわれわれが神の所有物であるとしても、神はわれわれに自由意志を授け、その自由意志のおかげでわれわれは神の願いや意図にそぐわないような振る舞いができるのだから、われわれは神の奇妙な所有物ということになる。自由意志をもつ自律的な存在が、他の種類の所有物が従う支配にどうして従いうるのかを理解するのは難しい。第二に、この論証は、神は自分の所有物が破壊されることを望まないという前提に立っているように見える。しかし、伝統的な有神論的神概念にしたがって神はいかなる点でも欠けることのない者だとすると、神が所有しているもの(人間の生命)が破壊されたとしても、それがどうして神や神の利益に対する害になりうるというのだろうか(Holly1989、105)?  第三に、この論証と、神は万人を愛する存在だという主張を調停させることは困難である。もしある人の人生が十分悪いものであるとすれば、万人を愛する神は自分の所有物が自殺によって破壊されることも許すだろうからだ。最後に、所有物の破壊は自分自身に対する重大な害を防ぐためには道徳的に正当化できると主張することによって、神の所有によっての内に課される義務がどの程度なのかを疑問視する人々もいる。時限爆弾から自分自身を守る唯一の手段が、爆風を弱めるために手近の車のトランクにそれを放り込むことであり、その手近の車が隣人のものだとすると、その隣人の所有物を破壊することは、自分自身に対する深刻な害を防ぐために道徳的に正当化できるだろう。同様に、自殺することによってしか私自身に対するこれから起こりうる深刻な害を避けられないならば、たとえそれが神の所有物であるとしても、私は私の生命を破壊しても正当だと思われるのである。
 

 もう一つのよくある比喩によれば、神はわれわれに生命を贈り物として授けてくれたのであり、もしわれわれが自分の命を奪うことによってその贈り物を拒否するとしたら、それは恩知らずや怠慢の現われとなるだろう、と主張するものである。この「贈り物の比喩」の明らかな弱点は、真心から与えられた贈り物は、この比喩が主張するような条件付きのものではない、ということである。つまり、贈り物とは、一度与えられたら、その受け手の所有物になるのであって、贈り手は受け手がその贈り物をどうしようがもう何も文句を言う筋合いにはない。特別に価値のある贈り物を無駄にするのは無分別なことかもしれないが、無駄にしても贈り手に対して不正を犯したことにはならないように思われる。Kluge (1975, 124)が言うように、「われわれが拒絶できない贈り物は贈り物ではない」のである。こうした論証の一つのヴァリエーションによると、われわれは神に自分の生命に対する感謝という借りがあるので、自殺することは神に対して無礼であり侮辱ですらあるだろうし(Ramsey1978,146)、この贈り物の無責任な使用ということになるだろう。しかし、このヴァリエーションも最初のバージョンに向けられた批判を回避しているわけではない。たとえ、われわれが神に感謝という借りがあるとしても、自分の生命を処分することは、一度でも生命を得たことに対する感謝の念を表明することと矛盾するわけではないように思われる((Beauchamp 1992)。さらに、ある人の人生が悲惨と不幸に満ちている場合、その人が、生命というこの明らかに不適切な「贈り物」に対する多くの感謝という借りが神にあるということはまったく明らかではない。したがって、贈り物という比喩の擁護者は、生命とは、ただひたすら愛情にみちた神によって与えられたという理由だけで、神の慈悲深い本性の発現であり、それゆえ必ずやわれわれに対する恩恵であるという主張を擁護しなくてはならないのである (Holley 1989, 113–114)。



 おまけに言うと、あまり認識されていないが、自殺に有利に働く宗教思想の底流がある。例えば、自殺は、故人となった愛する人と再会させてくれたり、罪を赦された人々が間違いなく天国に入ることを可能にしてくれたり、身体の束縛から魂を解放したりする。キリスト教であれアジア的であれ、いずれの宗教的伝統でも、自殺は、神的なものを垣間見たり合一化するための有望な手段なのである(Pabst Battin 1996, 53–64)。





  3.4  リバタリアンの論証と自殺する権利



  リバタリアンにとって、自殺が道徳的に許されるのは、個人が自殺する権利をもっているためである。(だからといって、自殺が必然的に理性的であるとか賢明であるということになるわけでは勿論ない)。リバタリアニズムの歴史上の先例はストア派やショーショーペンハウアーだが、それはまた前世紀の後半にあった「反-精神医学」の運動に強く結びついている。その運動によれば、自殺の行動に国家や医療の専門家が干渉しようとする試みは、道徳的に許容されるべき個人の自由の行使を病的なものと見なす本質的に抑圧的な試みなのである(Szasz 2002)。


 リバタリアニズムの典型的な主張によれば、自殺する権利は非干渉の権利(right of noninterference)である、つまり、他者が自殺行動に干渉することは道徳的に禁じられていることになる。もっと強力な主張をする人もいて、その主張によると、自殺する権利は自由権(liberty right)、つまり個人は自殺してはならないという義務を何らもっていないような権利であるか(つまり、自殺はいかなる道徳的な義務にも違反していない)、あるいは自殺する権利は請求権(claim right)であって、それによれば、他の個人はある人の自殺行動に干渉しない義務をもっているだけでなく、その行動を支援する義務をもつという。(この点については「権利(rights)」の項目を参照されたいhttp://plato.stanford.edu/entries/rights/)。が自殺する権利をもっているならば、当然ながら、は非干渉の権利と自由の権利をもっていることになるが、しかしこの点は、医師による自殺幇助の困難の核心である (Pabst Battin 1996, 163–164)。が自殺する自由権をもっているかどうかは、その権利が他の道徳的義務(他者に対する義務も含む)を侵害しているかどうかに関わる問題なので、私はこの問題の議論をセクション3.5にゆずり、ここでは非干渉の権利があるかどうかに焦点を絞りたいのである。(自殺を考えている人間が他者の援助に対する請求権をもつかどうかという問題はセクション3.8で扱われる)。



 自殺する権利の人気のある拠り所は、われわれが自分の身体を所有していること、したがって、われわれは自分の身体を思い通りに処分しても道徳的に許されるのだという考え方である。(セクション3.3の議論を思い起こしていただきたいのだが、自殺は認められないとする宗教的な論証の中には、の身体の所有権は神にあるという点に求めるものもあった)。この見解に立つと、われわれの身体に対する関係は、われわれがその財産権をもっている他の物品に対する関係と同じなのだ。腕時計に対する権利をがもっていれば、われわれはそれを好きなように使用したり、改良したり処分することができるのと同じように、われわれが身体に対する権利をもっていれば、われわれは身体を適当に処分できるというわけである。したがって、所有権は排他的なのだから(つまり、ある物に対する所有権をわれわれがもっていれば、他者がそれに干渉することは禁じられる)、他者は、われわれが自分の生命を終わらせる努力に干渉してはならないことになる。しかしながら、この論証に含まれている自己所有権(self-ownership)の概念は、とてもあいまいなものだ。われわれが普通の物品を所有することを可能にしているのは、そうした物品がわれわれとは形而上学的な身分が違っていることにある(Cholbi 2011、84‐86)。われわれが腕時計を所有できるのは、腕時計がわれわれとは違ったものであるからに他ならない。唯物論的哲学者ならば、われわれはわれわれの身体と同じだと主張するわけだから、われわれの身体はわれわれ自身と違っていることを否定するだろうし、(自己と身体を区別する)人間本性の最も二元論的な見解であっても、われわれの自己は身体に十分依存しているので、自己による身体の所有権という発想はおよそ有りそうもない考え方になるのだ。実は、普通の所有物のある種の扱い方は、身体の扱い方としては利用できないのだが(われわれは、どんな意味でも自分の身体を譲渡したり売却はできない)、このことは、自己所有権なるものは、より深いところにある道徳的関係を捉えるためのメタファーにすぎないことを示唆しているのである(Kluge 1975, 119)。それに加えて、自分の所有物の使用(その破壊も含めて)が他者に対して危害を加えることがある。だから、自殺が他者に危害を与えるかもしれない場合、われわれは自殺を思いとどまるように道徳的に求められることになるかもしれない。(他者に対する義務にかかわる論証についてはセクション3.5を参照)。


  非干渉の権利のためのもう一つの根拠は、自分の幸福にとても密接につながっている事柄(自分の生がどれほど長く続くべきか、死の状況はどうであるべきかという点も含む)について、われわれは自分で決定する全般的な権利をもつという主張である。この見解に立つと、自殺する権利は、よりいっそう深いところにある自己決定の権利、つまり、他者を害したり危険に陥れることがない限り自分の生の状況を自分で決定する権利から導き出さることになる(Cholbi 2011、88‐89)。「尊厳のある死(death with dignity)」の運動で言われているように、自殺の権利は、生命の権利の当然の帰結である。つまり、個人は他人に殺されない権利をもっているのだから、どういう状況で死ぬかを決定する道徳的権利をもっている唯一の人はその人自身なのであって、ゆえに、他者が、その人の自殺の試みを防ごうとすることは禁じられるのである。


 この立場は、少なくとも二つの反論に開かれている。まず最初に、生命の権利をもっているからといって、人は死の権利をもつ、つまり、自分の生命を奪う権利をもつということにはならないように思えるのである。私を殺すことを他の人々が道徳的に禁じられているからといって、私自身を含めた他の誰かかが、私を殺すことは許されるということにはならない。この結論は、生命に対する権利が譲渡できないものであるならば、もっと強力なものにできる。なぜなら、私が自分自身を殺すためには、私がまず私の譲渡しえない生命の権利を放棄しなければならないが、その放棄を私はなしえないからである(Feinberg 1978)。少なくとも、誰一人として人の死の状況がどうあるべきかを決定する権利をもっていないということも考えられるのである! さらに、所有権に基づく論証と同様、自己決定の権利も、他者に対する危害の可能性によって制限されるはずなのである。





   3.5 社会的・功利主義・役割ベースの論証



 自殺は許されるかという問いに対する第4のアプローチは、自殺行動に他者は干渉していいかどうかという点を問うのではなく、われわれは自殺する自由権(liberty right)をもつかどうか、つまり、自殺は他人に対する何らかの道徳的義務を侵害するかどうかを問う。自殺は他者に対するわれわれの義務を侵害することがあると主張する人々は、自殺は特定の他者(家族、友人など)に危害を及ぼしているか、社会全体に対する危害となっているという一般論を主張していることになるのである。


 確かに、家族の誰かや恋人が自殺するならば、多くの有害な心理的・経済的効果が生み出されるだろう。死につきものの悲しみに加え、近親者に自殺された「生き残りの人」は複雑な感情が入り混じる経験に直面する。自分は自殺した人の苦しみに一役買ってしまったのだという信念(a)、その人の苦しみを認識できなかったこと(b)、自殺行為そのものを防げなかったこと(c)などに由来する様々な罪悪感がよく見られる。さらに、自殺は、取り残された人々のうちに怒りや孤独や脆弱性の意識を生み出す。実は、自殺に対してよく見られる考え方の多くで支配的なのは、自殺は本質的に利己的な行為であるという感覚である(Fedden 1938, 209)。しかし、こうした反応が起こるのは、自殺が(世間的に)不名誉や恥に結びついているからだろうが、その場合、こうした反応は論証には使えない。もし論証に使うならば、自殺はこうした心理的な反応を生み出すから間違っているという論理的な循環論証を犯すことになるからだ(Pabst Battin 1996, 68–69)。さらに自殺は、自殺者が経済的に自立できない扶養家族をとり残す場合のように、経済的・物質的に明白な危害を生み出すことがある。自殺は、したがって、配偶者・両親・介護者・恋人に対して適用できる「役割義務(role obligations)」の違反として理解することができる。しかし、自殺が家族や恋人に対して有害だとしても、それで自殺に対する例外のない禁止が擁護できるわけではない。なぜなら、「生き残る人」を置きざりにしない自殺者もいるし、置きざりにする自殺者の中でも、危害の程度がまちまちでありうる――関係が親密であればあるほど、自殺は有害なものとなり、道徳的に間違ったものになりうる――からである。さらに、功利主義的観点から見ると、こうした危害は、辛かったり苦痛にみちた毎日を送ることによって自殺しようと思っている人々に対する危害も含めて、考量されなければならないだろう。(そうした点を考え合わせると)、自殺が家族や恋人に対する危害になるという論証からは、自殺は時として間違っているということしか立証されないのである(Cholbi 2011、62-64)。


 社会的論証のなかには、自殺が社会や国家に対する危害となると主張する点で、アリストテレスを引きつぐタイプのものもある。こうした論証の一般的な形態は、社会はその成員の経済的・社会的生産性に依存しているのだから、その成員は自分の社会に貢献する義務をもっているが、この義務は自殺によって明らかに侵害されてしまう、というものである(Pabst Battin 1996, 70–78, Cholbi 2011, 58-60)。例えば、自殺によって、その成員によって提供されるはずの労働が社会に与えられなくなるし、それが医療や芸術や政治的リーダーシップのような取りかえのきかない才能の場合は、そうした才能が提供できるはずの重要なサービスが社会に与えられないことになる。別の種類の論証には、個人が社会に対して(慈善、善行、道徳的な手本を示すなどによって)道徳的に貢献できるあらゆることを自殺は社会から奪ってしまう、と述べるものもある。しかし、社会が、その成員の労働や才能や美徳を求め、社会の繁栄に貢献することを強いるような道徳的権利をもっているという点を示すのは困難である。結局のところ、個々人は、労働や特別な才能という点でできる限りの貢献をしなくても、道徳的に非難されないこともしばしばあるのだ。したがって、自分自身に対する害を度外視して、自分にできるどんな方法であっても社会に貢献することを個人が道徳的に求められているとは思えないのである。やはり、こうした論証がせいぜい示しているのは、自殺は時として間違っているということだけである。死ぬことによってその個人が得る利益(将来こうむらないで済む害という観点での利益)が、死ぬことによって個人が社会に与えないことになる利益よりも小さい時、自殺は間違っていることになるのである。



 この論証の修正版には、自殺は個人が社会に対してもつ互恵的な義務を侵害するのだと主張するものもある(Cholbi 2011, 60-62)。この見解に立つと、個人とその個人が暮らす社会とは互恵的な関係にあって、社会が個人に提供する財貨と引き換えに、個人は、その関係が求める財貨を社会に提供するために生き続けなければならない、とするのである。だが、社会と個人の関係を本質的に契約に準ずるものと見なすという点で、この互恵性の論証は、大きな欠陥を露呈するのである。この「契約」の条件は満たされないこともあるし、また、一度充たされたとしても、さらなる義務を当事者に課すものではないからである。ドルバック男爵が指摘するように(Baron d'Holbach 1970, 136-137)、個人と社会の契約は条件付きの契約であって、「契約当事者間の相互の利益」を前提にしたものである。それゆえ、社会が契約にある義務を履行しないのであれば、つまり、個人にまともな生活の質のために必要な財貨を提供しないのであれば、個人は、社会が守らなかった取り決めのお返しをするために生きる必要は道徳的にはないことになる。また、ひとたび個人がこの社会との契約のもとで自分の義務を果たしてしまったならば、その個人は生き続ける義務をもう負わないことになるのである。だから、高齢者や、社会の繁栄に多大な貢献をしてきた人々は、この論証のもとでは、自殺をすることが道徳的に許されることになるのである。





  3.6 道徳的義務としての自殺は存在するか?


 いままで、われわれが問題にしてきたのは、自殺行動をすることを許すような道徳的理由が存在するかどうかに関わる論証だったし、実際、自殺についての倫理的議論を支配してきたのはこの問いであった。しかし、自殺に反対する社会的な論証は基本的に結果主義的であるのだが、ある種の行為-功利主義者はそれと対照的な可能性を論じてきた。つまり、自殺の好ましい結果は自殺の悪しき結果を凌駕するので自殺は望ましいし、それどころか道徳的に義務ですらあると論ずる功利主義者がいるのである(Cosculluela 1995, 76–81)。実際、自殺が立派であるような場合もある。明らかに利他的で、他者の生命や幸福を守ることを目指したり、政治的プロテストを目指す自殺が、このカテゴリーに入るかもしれない(Kupfer 1990, 73–74)。この手の例としては、(仲間の兵士を救うために)自己を犠牲にする兵士や、重要な軍事機密の暴露につながる拷問にかけられないように自らの命を絶つスパイなどが挙げられるだろう。功利主義者は終末期の安楽死の問題に特別の関心を払い、少なくとも、苦痛に満ちた末期の病いに侵された人は、自発的な意思に基づく安楽死(voluntary euthanasia)に対する権利をもつと主張してきた(Glover 1990, chs. 14–15, Singer 1993, ch. 7)。功利主義的な見解によれば、われわれは幸福を最大化する道徳的義務をもつが、そこから、自殺行為が生き続けるよりも多くの幸福を生み出すならば、自殺は道徳的に許されるだけでなく、道徳的に必要でもあるということになるのである。



 しかしながら、「死ぬ義務」が存在するというテーゼは、結果主義的であったり功利主義的であることが明らかな論証に訴えることで擁護される必要はない。哲学者のジョン・ハードウィック(1996、1997)は、生命倫理に対する「家族中心的」と彼が呼ぶアプローチにおいて次のように主張した。つまり、ある人が生き続けることによって、他人、とくに家族や愛する人に対してかける負担は時にとても大きなものになるので、そうした負担を減らすために、その人は死ぬ義務があるのだと。ハードウィックの論証は、ある人が生きるか死ぬかに由来するコストと利益の全体的なバランスにではなく、ある人が生き続けることによって他人にかける負担の公平性に軸足を置くものだ。



 自殺が倫理的かどうかの議論において他者に対する義務が無視されてきたというハードウィックの主張をだいたい認めながらも、自殺は道徳的に必要だという見解に批判的な人々は、ハードウィックの問題提起に対して多くの異論を提起している。(Hardwig et al. 2000, Humber & Almeder 2000)。ハードウィックは善行への義務に訴えているが、生き続けることが他者にとって重荷となるとき、その善行への義務が自分自身の命を絶ってもよいという許可以上の強力なもの(つまり、自殺の義務という強い考え方)を正当化するという考え方を疑う者もいる(Cholbi 2010B)。また、自殺が道徳的に必要なものだということになると、個人が自分の意に反して自殺せざるをえなくなる不吉で全体主義的な見方が高まるのではないかと心配する人もいる(Moreland & Geisler 1990, 94, Pabst Battin 1996, 94–95)。このような心配を抱く人は、生命は神聖であるという見解を暗黙のうちに受け入れている人かもしれないし(セクション3.2を参照)、個人の自律性にたいする侵害に懸念を抱いている人なのかもしれない(セクション3.6を参照)。死ぬ義務が存在しているとしても、その義務は、自分の命を絶つ義務をもつ人を強制してもよいとする義務として理解されるべきではない、と主張する批判者もいる(Menzel 2000, Narveson 2000)。社会正義と平等についての問いかけ(たとえば、女性や貧困層のような弱者のほうがそうした義務に基づいて行動する可能性が高いのではないかという問いかけ)もなされている。こうした異論に対する一つの功利主義的な答えは、ルール功利主義的根拠に基づいて死ぬ義務を拒絶することである。つまり、自殺が道徳的に禁止されるのは、自殺を禁止するルールに誰もが従うならば、自殺を許可するルールに誰もが従う場合よりも、全体としてより良い結果が生み出されるからだ、とルール功利主義は答えるのである(Brandt 1975, Pabst Battin 1996, 96–98)。



  3.7 自律性、合理性、責任


  われわれは自殺に関しては非干渉の権利を有するという主張のもっと制限されたバージョンによると、自殺が理性的に選択されている限り――他者に対する義務の問題は脇にどけておくと――自殺は許されるとされる。同じようにカント主義者ならば、自殺の選択は、その選択が自律的であるならば、尊重されなければならない、つまり、もしある個人が自分の置かれた状況にとって相応しいと認める理由に基づいて自分の生命を絶つことを選択するならば、その選択は尊重されなければならない、と主張するだろう。こうした立場は、理性的な根拠に基づいて(または、個人が自分の状況にとって相応しいと認める理性的な根拠に基づいて)なされるときに限り自殺を許容し、理性的な根拠に基づいてなされない場合に限り、他者が干渉するのを許容するという点で、リバタリアンの見解よりも狭いものだ。


 理性的な自殺の可能性にとっての最初の難問は、自殺というものは、自分の生命を絶つ選択なのだから、それは必然的に非理性的だという考え方である。ここで考えられていることは、自殺が理性的だと矛盾なく判断するには、生きている(あるいは、生き続けている)状態と死んでいる状態を比較することが求められる、ということである。しかし、死んでいる状態については誰も十分な知識をもっていないのであるし(Devine 1978)、自殺する以上、自殺者は楽しみに期待する未来を何らもっていないわけであるから(Cowley 2006)、自分の生命を断つことが理性的であるという判断は、矛盾しているか見当はずれな判断だということになる。


 近年、この「二状態」の必要条件(死が理性的か非理性的かを判断できるのは、生きている状態を死んでいる状態と比較することが可能である場合に限られるという要求)は、多くの人々によって拒絶されてきた。とくに、自分の生を絶つという決定が理性的であることは、生きている価値と死んでいる価値によって解釈される必要はない、とされた(Luper 2009, 82-88)。自分の生を断とうと考えている人々が考慮していることは、自分の生の長短であって、リチャード・ブラント(Richard Brandt)はそのことを次のように述べている。


 自殺を考えている人は、これから起こるであろう世界の諸々のあり方のどれが良いかを選択しているのである。たとえば、いまから一時間後の、自分の死亡を含む世界のあり方と、もっと後の時点で自分が死亡することになるいくつかの可能的な世界のあり方を選択しているのである……。どの世界のあり方が自分にとって最良か、どれが自分が選択するのに理性的かを決めるために人が答えなければならない根本的な問いは、情報が最大限に使用でき、自分の望みのすべてが考慮されるという条件下でならば、自分はどの世界のあり方を選択するだろうか、という問いなのである(Brandt 1975)。



 ゆえに、この見解に立てば、自分自身の死についての理性的判断が求めるのは、現在の世界のあり方のもとで自分の生が続いた場合、その生が全体的にどれほど良いものとなるかという点と、現在の世界のあり方以前に自分の生が終わっているならば、その生が全体的にどれほど良かったかという点を比較することなのである。この見解は、人が死のうと決断することがどの条件でならば理性的になるかという点を確定しようと努めた哲学的な論文を大量に生み出した。こうした文献のほとんどは、理性的な自殺の条件を二つに分けるのだが、その二つとは、自分の置かれた状況に対する個人の評価が理性的で充分な情報を与えられた上でのものであると確約する認知的な条件(cognitive conditions)と、自殺が個人の熟慮された利害に合致していると確約する利害条件(interest conditions)である。

 
 このアプローチを取った一人にはグレン・グレイバー(Glenn Graber)がいる。 グレイバーは、自殺が理性的に正当なのは、「その人が置かれた状況を理性的に評価すれば、その人は死んだ方が良いことが明らかである場合である、と述べている(Graber 1981, 65)。グレイバーによると、評価が理性的であるのは、自殺が、ある人の現在およびこれからありうる価値観と選好を含む全体的な利害を促進するのかそれとも妨げるのかについての明瞭な検討に由来している場合である。マーガレット・バッティン(Margaret Battin)は、理性的な自殺には三つの認知的な条件が必要であるとし(因果的および推論的論証の能力、現実的な世界観の所有、決定に関連する情報が十分あること)、さらに、利害条件も二つ必要だとした(死ぬことで、将来の害が避けられることと、死ぬことがその人のもっとも根本的な利害や態度に合致していること)(Pabst Battin 1996, 115)。


 自殺者のほとんどは、全体的に理性的でないという徴候は示さないものだし、ましてや法的に定義可能な狂気の徴候は示したすることはせず(Radden 1982)、自発的に自殺行為に取りかかる。しかし、こうした事実は、自殺行為に取りかかる選択が理性的でないことと矛盾はしていないのであって、自死の実際の例において理性的自殺の条件が充たされるのはどれほどあるのかという点について重大な疑問を投げかけることができるのである。実は、理性的自殺が可能であるならば、自殺する個人の理性的自律性についてある種の前提が成り立っていることが必要だが、それは多くの場合において成り立っていないかもしれないのである。自殺行為をしようとするある人の選択はその人の熟慮された利害を反映したものではないこともありうるし、その人が自らに与えた死が、もっと落ち着いて頭脳が明晰である時には尻込みしてしまうような行為であるかもしれない。言い換えれば、かりに自殺する権利が存在しそれが理性の自律性に根ざしているとしても、そのことが自殺する権利を含意するのは、人が死ぬ決断を最低限の理性的な根拠に基づいて下すときに限られるのだが、人の理性的自律性を危うくするような要因は数多くあるのであって、だから、自殺行為に取りかかろうとする決断はその人の熟慮された価値観や目標を反映したものではない場合もある。これらの要因のなかには、自殺をすべきかどうかについての検討を認知的に歪めてしまうものもある。多くの自殺者は、自分の死のために延々と時間をかけて計画するが、自分の生を終わらせる最後の決定はしばしば衝動的であり、自殺者が内心に抱えている激しい心の傷や、気分の変動や動揺に傾斜した瞬間を反映することもある(Cholbi 2002, Joiner 2010, 70-84)。自殺者はまた自分の死が最終的なものだということをすっかり認めることに困難を感じる場合もあり、(死後の世界は存在しないと思いながら)自分は死んだ後でも意識的経験の主体であり続けると信じているのである。


 
 とくに厄介なのは、自殺念慮とウツ病などの精神疾患との間にある明白な関連性である。この関連性がどれほど強いものであるかについては意見の相違は今でもあるが (Pabst Battin 1996, 5) 、ウツの症状やその他の気分障害の存在が自殺行動の可能性を大きく増大させることについてはほとんど疑いは存在しない。ある自殺の研究によれば、自殺者の90%以上が死亡する前にウツの症状を示したとされるが、別の研究の推計では、一般人口に比べて通院を必要とするようなウツの症状を抱える人々の間には、自殺の発生は少なくとも20倍も高いとされる。ウツ症状と関連があるとされた自殺の場合では、個々人の死に対する態度は、その人の人生の状況(キャリアの見通し、人間関係等)についての強烈なまでに否定的で、しばしば歪んでもいる信念によって色づけられている。ブラントが述べたように(1975)、ウツの症状は「その人の知的なプロセスを低次元なものにし」、これから起こりうることについての粗雑な評価を生み出し、今後起こりうる良好な事態よりも現在の苦しみにのみ不合理なまでに目が向くように仕向けるのである。自殺したくなるほどのウツ状態にいる人々は、自分の死が及ぼしうる結果についてロマンティックで壮大な信念を示すこともある(殉教や復讐などの妄想)。さらに、自殺者は行為に踏み切ることにためらい、他者が介入することを望み、他者に対して介入するようなシグナルを送るものである(Shneidman 1985)。最後に、同じ個人が自殺の試みを繰り返すことはよくあることだが、自殺行動への衝動はしばしば一時的であり、自然と消えていくものである(Blauner 2003)。以上考察したことをまとめると、十分な情報をもち理性的な判断の末に自己評価をしたと純粋に言えるような自殺行動は稀であるかもしれし、自殺が理性的であったり道徳的に許容できるのはほんの時折のことにすぎないのである。さらに、自殺は、個々人が自分自身の幸福について理性的に評価したことの表現ではないことがしばしばあるならば、そのことは、他者が自殺行動に干渉してよいとする明白な理由をもつことになることを示唆しているので、自殺行動には干渉してはならないという一般的な権利は存在しない(there is no general right to noninterference)ことになるのである。




」(おわり)










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