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記憶とポイエーシス [最近の論文]

記憶とポイエーシス


Ⅰ. 人生という虚構
Ⅱ. 記憶とポイエーシス
Ⅲ. 記憶と思考

 

 記憶が過去についての貯蔵された情報の断片を取り出して過去を忠実に再現するという行為からかけ離れたものであることは、様々なレベルで論証や実証の対象となってきた。要するに、記憶は不確かなのである。このことは肯定的にも否定的にも言える。おそらく否定的に言う方が容易であろう。特に哲学的な観点をとらずとも、記憶が現実に起こったことを断片化し選別し、時には歪曲や隠蔽、時には創作するものですらあることは、誰もがつねに経験していることであるのだから。
 今日、たとえばガザニガのような脳科学に傾斜した科学者が述べていることは、要するに、そうした日常的に確認できる記憶のあやふやさ加減を脳科学の実証的なレベルで再確認しているにすぎないように見える。ただし、その主張は時に、極度に観念的な方向に走る傾向がある。結局、単純化して言えば、記憶(を含め一切合財)が、現実の裏打ちに乏しい脳の勝手な振る舞いの所産だという主張に帰着するからだ。結局、記憶は一種のフィクションだと言いたいのだ。そして、記憶の膨大な蓄積にもとづく「自我」の存在も結局はフィクションなのだと言いたいのだろう。    
こうした、脳科学という新たな意匠のもとで立ち現れた現代のヒューム主義とでもいうべき立場に対して、それが「虚構(fiction)」という語を連発するとき、それはいかなる「現実」を念頭に置いたうえで使っているのか、いかなる「現実-虚構」という対立関係を根底に置いているのかとマーク・フリーマンが問いかけたのは的確であった。おそらく通常理解されている「記憶」や「自我」を「現実」からかけ離れた「虚構」の方に追いやるとき、ガザニガは「現実」から意味ある内容のほとんどすべてをはぎっているのであり、それによって「現実-虚構」という対立枠がほぼ無意味なものとなってしまっているのだと。
「虚構」も「現実」もともに等しく無意味になってしまうような理論に対して、両者にそれに相応しい意味を与え返すこと、これが最近のフリーマンがナラティヴ論に見出した課題だった。 

「虚構の概念を考えなおすことによって、現実を取り戻す可能性が開けるばかりでなく――そのことで私が言いたいのは、現実というものにより十全でより包括的な広がりをもつ意味を回復させることなのだが――、人間の領域において真理が何を意味するかについてのより適切な解釈を設定する可能性がひらけてくるのである」(1)。

この課題は、記憶やナラティヴを考え直すということのみならず、哲学的に言えば、ある種の「真理論」のヴァリエーションを試みることに結びつくものだ。虚構から真理へと向かう方向性は、詩と真理の関連を考え続けたハイデガーの晩年を思わせるものがあるし、実際、フリーマンの試みは、いずれ示されるように、最終的にはハイデガー的な真理概念を記憶やナラティヴの領域に適用しようとしたことにあると要約できるかもしれない。記憶がいわゆる「現実」から離れ虚構という形式を帯びるのは、実は、「現実」を別の形式で捉えなおし所有しなおすためなのではないだろうか。いわゆる「虚構」とは現実から遊離しそれとは独立にある存在のあり方なのではなく、再び見出された限りでの現実なのではないだろうか、というわけである。しかし、こうした問題設定はひどく射程が広すぎるし、また曖昧でもある。本稿ではもう少し範囲を限定して、ガザニガ的な(極端ではあるが、常識的でもある)見解を踏まえたうえで記憶やナラティヴの「虚構性」の次元をフリーマンがいかに掘り下げたのかを見ることにする。フリーマンは、時に個人的な次元にあえて話を逸脱させながら、実証的レベルから哲学へと越境する地点を行ったり来たりする。そんな彼のスタイルも尊重しながら、過去を振り返るという誰もがする平凡な行為のうちにどれほどの奥行きがあるのかを考えてみたいのである。


Ⅰ.人生という虚構


「私たちは、私たちの人生の虚構(the fiction of our lives)については実際知っているし、知りたいと思うべきなのだ」と、マイケル・J・ガザニガ(Michael S. Gazzaniga)は『精神の過去(The Mind's Past)』の冒頭で述べている(2)。
ガザニガが考えているのは、私たちが人生の中で生じたり遭遇する様々なお話や出鱈目や嘘や偽りなどを一括した「虚構」なのだろうか。しかし、‘fiction’という語が単数定冠詞つきで用いられているということは、それが複数性を含意する意味で用いられているというよりも、私たちの「人生」が、その複数性や多様性にもかかわらず一様に共有している「虚構性」という意味で用いられているのだろう。そもそも「人生」という語は、私たちが生まれてから死ぬまでの期間に意味のある統一性が支配しているという錯覚を与えるものだが、ガザニガは、そのような意味での「人生」という「虚構」のことを念頭に置いているのかもしれない。もっとも、こうした超絶的な一般化が実証的な研究にもとづいて成立するとはとても思えないのだが、とりあえずそれを受け入れるふりをしよう。ガザニガの主張にはそれなりの実証的裏づけがもちろんあるのだが、そこに立ち入る前に抽象的な議論に文学的な彩りを添えるために、彼が「虚構」という語を使うときに念頭に置いている文学者の言葉を先立てておこう。ジョン・アップダイクの“Self-Consciousness”という作品にある言葉である。これはガザニガ自身も前掲書で引用しているので、間違いなく自分の洞察に合致すると彼には思えたのだろう。少し長いが紹介してみよう。
「「意識は病気だ」とウナムーノは言っている。宗教をもっていればその病状も緩和されるだろう。もちろん、宗教といっても広い意味で考えられた宗教のことで、世界中の野蛮で残忍でもある正統性のある教団という形をとった宗教だけではなく、私的なシステムという形をとった宗教のことである。それがエルビス・プレスリーに対する熱狂であれ核兵器に対する憎悪であれ、政治や大衆文化を盲目的に信奉することであっても、私たち個々人の嫌になるほどちっぽけな諸事実を超越的な関心事の中に浸してくれる私的なシステムなら何であれ宗教と言えるだろう。宗教的な想像力はなんとひどく豊かなのだろう、(人生の)意義に対する渇望(the appetite for significance)はなんと熱烈なのだろう。それは、どんな柴や岩にも神を措定する。私たちが食料品店のレジのところで買うタブロイド週刊誌には、占星術や、UFOや、死からの復活や、スプーン曲げや、幽霊や、ブードゥー教などの話題が満載だ。恋に落ちること――恋人の神話化や、恋人に関わるどんなものもでっち上げの宗教だし、われわれ人間は原因のない広大な地球上の有為変転の中で偶然生じたものだというコペルニクス以降の、ダーウィン以降のありとあらゆる証拠に反して、われわれの人生は、パターンとモラルと不可避な運命を備えた一つの物語だ――エマーソンが言ったように、「あらゆる事柄には一本の糸が通っている、あらゆる人々は、ビーズのように、その糸によって結びつけられている。人々も、出来事も、人生も、それらが私たちのもとにやって来るのは、まさしくその糸のおかげなのだ」と私たちが依然として感じるのも宗教的なのだ。言い換えれば、私たちの主観性が、秘密の通路を通して、外部の現実を支配していて、宇宙は人格的構造をもっていると依然として私たちが感じるのも宗教的なのだ」(3)。
ここで述べられていることは、その主観的なトーンをあえて無視すれば、きわめて真っ当なものである。かつて宗教史家のマルチン・ニルソンは宗教を「出来事が無意味であることに対する人間の抗議(Man’s Protest against the Meaninglessness of Events)」と定義したが(4)、宗教学の碩学の晩年の思想を思いきり通俗化した形でアップダイクは述べているのだ。ただし少しアップダイクは陳腐な方向に妥協した書き方をしているのかもしれない。私たちがコペルニクスやダーウィン以降の時代に生きているなどということは、たぶん世の中の99%以上の人間にとってはどうでもいいことだ。太陽は東から「上り」西に「沈む」。人間は万物の尺度である。聖書によれば、猿以下の生き物は人間が孤独を紛らわすために神が造り給うたものだ。あるいは、キルケゴールとともに、神が退屈しのぎに作ったものかもしれないし、あるいは、そうしたお話全体が人間の無聊の慰めなのかもしれない。ただ肝心なことは、アップダイクの上の省察も、聖書やキルケゴールの想定と並ぶ「お話」の範疇に属していることは間違いないことだ。私は、たぶん少し冷笑的にアップダイクが引用しているエマーソンの言葉は、それほどあっさり冷笑して葬り去れるほど底の浅いものだとは思えないのである。それに文学者を自称する人間がコペルニクスやダーウィンを錦の御旗のように引き合いに出すことにも違和感を覚えるのだ。
それはともかく、アップダイクが「宗教」と言っていることをガザニガは「虚構」や「妄想」と言い換えているのだが、フロイト以降の伝統に従って、宗教とは集団的に共有された妄想であり、妄想とは個人的なレベルでの宗教であるということが正しいのであれば、そう言い換えても構わないだろうし、そう言い換えるべきなのである。さて、こうした「宗教」、「虚構」、「妄想」を生み出すものは何か。ガザニガの説を聞こう。
エマーソンが言うところのあの「糸」を紡いでいるのは何物か。この問いに対してガザニガは「インタープリター」というテクニカル・タームをもちだす。
「脳、とくに左脳は、脳がすでに加工したデータを解釈するために作られている。左脳には特別なデバイスがあり、それを私はインタープリター(interpreter)と呼ぶのだが、それは莫大な数の自動的に生ずる脳のプロセスが完了するやさらにもう一つの活動を実行するのだ。脳の情報連鎖の最後をなすデバイスとしてのインタープリターは、脳内の出来事を再構成して、そうしながら、知覚や記憶や判断から明白な誤りを作り上げる。我々がいかに作られているかという問いに対する手がかりは、知覚や記憶や判断といった諸機能を成し遂げる驚くべきほど堅固な能力にあるのみならず、再構成の際にしばしば作り上げられる誤りにもあるのである」(5)。

脳内の様々な部位で処理された部分的な情報を最終的にまとめ上げるという任務を負うのが、左脳に位置している「インタープリター」である。この言葉は普通は「通訳」という意味であるわけだが、脳の部分的情報処理の結果を人間の精神に伝える媒介者という意味で「通訳」という語をガザニガは用いているのだろう。ただしこの「通訳」はときに不実なことをする。正確な翻訳はこの通訳にとって至上命題ではないし最優先の課題でもない。必要とあらば、正確性はあっさり犠牲にされるのである。この点を説明するときにガザニガが引き合いに出すのが、彼の専門である分離脳の事例である。
かつては、てんかんの症状を抑えるために右脳と左脳をつなぐ脳漿を切断するという治療が良く行われたし、いまでも実施されているようだ。ガザニガは、そうした患者に対して、左右それぞれの脳半球の働きを調べるために、情報を分離脳患者の片方の脳半球だけに提示するという実験をおこなった。そうすることによって、両半球が協働しあっているときには得られないデータが得られ、片方の脳半球の働きがよく判ったのである。上に述べられた左脳の特別なデバイスである「インタープリター」の存在と働きも、そうした実験の結果判明したのだが、とりわけ次のような実験が明瞭な結果をもたらしてくれた。
まず、雪に覆われた家の写真を分離脳患者の右脳に、鶏の足爪の写真を左脳に提示する。その時、それぞれの脳半球は反対の半球が何を見ているのかが判らないのが、この実験の面白い点である。次に、いま見た写真に最もふさわしい絵を、左右それぞれの手で一つずつ選びなさいという指示を患者に出す。すると、患者の右手(おもに左脳によってコントロールされている)は、左脳が見た足爪にふさわしい雄鶏の絵を、患者の左手(おもに右脳によってコントロールされている)は、右脳が見た雪景色にふさわしい雪かきシャベルを選んだ。このとき患者は、それぞれの手が違う絵を選んだという現実に直面するわけだ。が、「なぜそんな絵を選んだのか」と問われて、言語の機能を担っている左脳のインタープリターは、雪景色を見た覚えがない一方で雄鶏と雪かきシャベルの絵を手にしている事実を結びつける即興の説明を作り上げたのだ。「鶏の足爪は鶏に合うし、シャベルは鶏小屋の掃除をするために必要だからさ」。
なぜシャベルを手にしているのかわからないと正直に言うかわりに、インタープリターは、関連性のない諸事実に当意即妙の関連性をつけようとする。これは、事実をその事実のままに認めて表現するという以上のことをインタープリターがする傾向をもつということを示している。これはいかに目の前の事実を解釈するかという問題だが、これが過去の事柄の再現という問題となると、左脳は正確性を犠牲にしても諸事実の統一性や関連性を優先する傾向がさらに顕著になる。こうした点を捉えて、ガザニガは次のように言う。

「真実を言うことが常にベストというわけではないのだろうか? 実は、私たちのほとんどは卑劣な嘘つきなのだ。…インタープリターは、私たちの個人的な物語りがバラバラにならないように努めているのだ。そうするために、私たちは自分自身に対して嘘をつくようにならなければならないのだ。…自分自身の物語りが真実であることを誰かほかの人に判ってもらうために、私たちは自分自身を説得しなければならない。私たちは、自分の経験した実際の諸事実を現在進行形のナラティヴに拡大するようなものを必要としているが、それは、私たちが長年にわたって自分の心の中に組み込んできたセルフ・イメージなのである」(6)。

このインタープリターの働きを比喩的にガザニガは“spin doctor”とも言い表している。「スピン・ドクター」とは「情報を操作して人心を操る専門家」という意味らしい。それと同時に「スピン」とは「糸を紡ぐ」という意味でも使われるので、あのエマーソンの比喩にも適合しているのでこの表現をガザニガは選んだのかもしれない。いずれにせよこのスピン・ドクターが様々な糸を紡いで関連性のない諸事実に関連性をもたせ、そうして作り上げた小さなナラティヴ(「自己」というナラティヴ、「他者」というナラティヴ、感情の流れを作るナラティヴ、行動の脈絡を作るナラティヴ等々)のそれぞれをたぐり寄せて一つの大きなナラティヴ、人生というナラティヴを創作するという訳である。

「インタープリターは、たえず、わたしたちの行動、感情、思考、夢などについて途切れることのないナラティヴを設定している。それは、私たちのストーリーを統一化する接着剤のようなもので、私たちが全体的で理性的な主体であるという感覚を創り出している。それは、個体の本能が詰まったバックに、自分は実際とは違う存在なのだという幻想を持ち込むのである」(7)。

 このような一連の発言から注意すべき点を二点だけ取り上げてみたい。第一点は、こうした見解を哲学的に見た場合に指摘できる陥穽について。第二点は、特に記憶や回想に限定したときにこうした見解が持ちうる歪曲的な効果について、である。

1) ここには、デカルトの「悪い霊の仮説」に近似したラディカリズムがあるように見える。「そこで私は、真理の源泉である最善の神がではなく、ある悪い霊が、しかも、このうえなく有能で狡猾な霊が、あらゆる策をこらして、私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう」と『省察』は語る。しかし、後になって『省察』は最善の神が存在すること、したがって悪い霊が存在しないことの「証明」に乗り出した。ただし、この証明にはのりこえ難い循環が潜んでいたので、証明の有効性は一般的に認められていない。したがって、悪い霊が私を誤らせようとしているという可能性は排除されないし、人間は最終的な真理に到達できないという可能性はつねに開かれたままである。だがその場合であっても、ヘンリー・モーアに宛てたデカルトの書簡が語るように「なるほど、われわれの精神は、物や真理の尺度ではない。しかし、われわれが肯定したり否定したりする物の尺度であることは確かであろう」という洞察に基づいて、悪い霊の仮説にうまく対処することができる。悪い霊の視点から見れば、人間の営みは「誤り」という烙印を押されるかもしれないが、「われわれ」の肯定や否定といった活動の内部に視点を限定するならば、そこに「われわれ」にとっての真理や虚偽を適用することは可能である。
それとほぼ同じことがガザニガの主張に対して当てはまるかもしれない。つまり、脳の営みを外的な眼差しから見るならば、それに対して「虚偽」や「妄想」という烙印を押されなければならないような作為に満ちているかもしれない。しかし、それを共有する「われわれ」の内部においては、そのような意味での「虚偽」や「妄想」は存在しない。もちろん、その内部には、共有された基準に適合しないという意味での虚偽は存在するし、まったく誰にも共有されることのない信念という意味での「妄想」も存在する。もちろんそれと相関的な「真理」も存在する。しかし、それらはガザニガのいう意味での――つまり、超越的な視点から見た場合に視野に入ってくる意味での――「虚偽」や「妄想」や「真理」ではないのである。
言い換えれば、ガザニガは二種類の真偽の概念を、意図的か否かは問わないとしても、絶えず混同しているのである。ガザニガは、一方でアップダイクが主張したような世界を覆い尽くす「宗教性」=「虚構性」=「虚偽性」というラディカリズムに基づいて、真偽の概念を使用している。インタープリターの息のかかるものはすべて虚偽だというアプリオリな断定はおよそ経験的な内容をもつものではない。他方で、分離脳患者の即興的な解釈は、日常的に適用できる意味での「虚偽」を含んでいる。この虚偽はあり得ないことを実際起こったかのように扱うという点で誤っているのだ。そこには経験的に確証できる意味での真偽の概念しか存在しない。そして、それは人間のすべての知的活動に一般化できるような広がりはもたないのである。こうした二つのレベルが、ガザニガの論証には区別されないまま登場しているように思われる。
以上のことを踏まえて考え直すならば、ガザニガの見解のラディカリズムは単なる見かけだけなのかもしれない。それは、もっと身近なレベルで確認できる常識的な現象、たとえば「記憶」の領域でシャクターが述べたように「人間の記憶のアウトプットはインプットとはしばしば――時にはかなり著しく――異なっている」(8)という日常的に散見できる現象と同じ脈絡を形成するものとして受け取られるべきものかもしれない。そしてそれは、そうした経験的なレベルにおける主張の(おそらくは不当な)一般化なのかもしれないのである。

2) ガザニガやシャクターの見解をもっぱら経験的な次元で捉えようとしても、それでもまだそれに対して疑義を呈する点が残る。つまり、かりに判りやすく「記憶」に限定すれとして、彼らにおいて記憶は正確性という基準からのみ測られているのだが、それは、そうしなければならない性質のものなのだろうか、つまり記憶とは過去の再現という機能で尽くされるもので、その再現の正確性の度合いだけが問題とされるべきなのかという根本的な疑問は残る。この点でガザニガが選んだ「インタープリター」という術語は、始めから答えを先取りしたようなところがあった。その‘interpretation’の作業――「翻訳」とも「解釈」とも訳すことができるが――は、脳の各部位から送信される部分的なインプットから、人間が観念的に共有できるアウトプットへと変換する作業である。この変換作業は、「解釈」であり「再構成」であり「意味づけ」であり、そのいずれをとっても単なる忠実な再現など問題にならないような作業である。そこから、ガザニガの――インタープリターに関わることすべてが虚偽だという――あの(不当な)一般化が生じてくるわけだが、こうした一般化の背後には忠実な再現こそ真理に他ならないという非常に素朴すぎる考え方が前提されていることは言うまでもない。しかし人間の多様な営みを考慮に入れるならば、こうした単一で素朴な真理観だけを基準にして、それに合致しない現象を「虚偽」と断定するのは、どう控えめに見ても偏見としか言いようがないだろう。フリーマンのガザニガ批判は主にこの観点からなされたのである。そしてフリーマンは「記憶」に関して彼らとは根本的に違った見解を打ち出す必要があった。以下でそれを見ていくことにしよう。


 Ⅱ.記憶とポイエーシス
 
 
 フリーマンが「記憶」の問題を捉え直すにあたって導きの糸とした先行する見解が二つあった。一つはガブリエル・マルセルの「記憶」=「再構成」とする見解であり、もう一つはイアン・ハッキングの「過去の不確定性」に関する見解である。そのそれぞれについて見た後で、フリーマン自身の「記憶」に対するアプローチの特徴を見ていくことにする。

1. フリーマンが何度も引用していることから判断して、いわば彼の「枕頭の言葉」だったに違いないマルセルの発言を引用してみたい。
 記憶に過ぎ去った時を再現する機能だけしか認めないという通常の見解を反駁し、記憶は一種の再構成であることをマルセルが説得する文脈である。マルセルによれば、記憶の際に私たちに与えられるのは過去の「四方に放射する断片」にすぎず、その周りで精神は「再構築の仕事にとりかからねばならない。…この再構築は、実は新しいひとつの構成」なのである。このことを具体的に示すためにマルセルは、次のような例を挙げるのだ。

「そのことを理解するためには、われわれが、自分のおこなった簡単な旅行について、友人に物語るときのことを反省してみれば十分である。この旅行は、最初から終わりまで経験した人物によって語られるわけであるが、旅行中の経験は、その人のその後の経験――旅行中の最初の印象によって形成された観念に対して、反作用を起こしかねない経験――によって色づけられる。しかし実は、最初の経験そのものは、これから起こることへの不安な期待によって染められていたのである」(9)
 
 ここには、二つの視線が交錯している。「これから起こることへの不安な期待」をもって前方を眺めるまなざしと、それを終わりの方から眺めるまなざしである。マルセルにとっては後者の視線こそ、私たちが回想するときの視線なのである。なぜなら、いま引用している箇所全体が、「私の生は、私の反省に対して、物語りとして語られうる本質をもったものとして提示される」(10)というマルセルの主張を支える一つの論拠となっているからである。記憶や回想は再現のみならず、再構築であり新たな構成であり、物語ることの端緒なのである。そしてそういった行為が「私の生」の本質を形成するというのだ。
 しかしガザニガならば、それこそ「インタープリター」による「虚偽」、「個人的な物語りがバラバラにならないように」する「スピン・ドクトリング」の作為の所産しか見ないことだろう。それは決定的に過ぎ去った過去の歪曲に満ちた再現であって、マルセルが「色づけ」という言葉を使ったときにも同種の考え方が脳裏に浮かばなかった訳ではないかもしれない。だが、おそらく、そういうことではないのだ。「まなざし」の方向が逆転しているがゆえに再現の忠実性は問題ではないし、したがって当然「色づけ」と呼ばれうるような現象は生ずるにせよ、それが「色づけ」とは言えても「歪曲」でも「虚偽」でもないような、過去との関わり方が存在するのだ。それに、実は、私たちの過去は私たちが考えているほど確定したものとは言えないかもしれないのだ。このことを見るために、イアン・ハッキングの見解に触れておかなければならない。

2. イアン・ハッキングは『記憶を書き換える』の第17章で「過去の不確定性」を主題化している。彼の主張のエッセンスは次の一節によく表されていると考えていいだろう。
 
 「私が主張しているのは、意図的な人間の行為の記憶についての非常に難解な見解である。我々にとって重要なことは、当時は、いまほどは、明確なものになっていなかったのかもしれない。我々が自分の行ったことや、他の人々が行ったことを思い出すとき、われわれは過去を考え直し、記述し直し、感じ直すのかもしれない。これらの再記述は、過去について完璧に当てはまるのかもしれない。そして、そうした再記述こそ、われわれが、今、断定的に主張している真実なのである。だが、逆説的ではあるが、それは過去においては真実ではなかった。言い換えれば、その行為が行われた時点で意味を持っていたような、意図的な行為に関する真実ではなかったのかもしれない。だから、私は、過去自体が、過去にさかのぼって改訂されていると述べたのである。私が言いたいのは、行われたことに対してわれわれの意見が変わるということだけでなく、ある種の論理的な意味合いにおいて、行われたこと自体が修正されるということなのだ。われわれが、自らの理解と感受性を変えるにつれて、過去は、ある意味において、それが実際に行われたときには存在しなかった意図的な行為というもので満たされていくのである」(11)。

 この引用文でキー概念として用いられている「記述」という術語は説明を要する。アンスコムが提唱した概念だが、意図的な行為はすべて「ある記述の下(under a description)」でなされる行為である。たとえば、ある男がレバーを上下に動かしていた。彼は手動ポンプで、その家のタンクに水を送り込んでいた。彼はその田舎の大邸宅に毒を入れた水を送り込んでいたのだが、その家には、世界戦争をたくらむ悪人たちが集まっていた。確かに、そこにあるのは、レバーを動かし、水を送り、男たちを毒殺するという、はっきり区別できない一連の動作である。しかし、一方では水を送り、他方では男たちを毒殺するという、区別可能な多数の行為が存在したなどと言えるだろうか? アンスコムは、そこにあるのは、さまざまな記述の下での、ただ一つの行為があるにすぎないと主張した。
 この例を少し変えて、水道システムが不通になったために、ある家に手動で井戸水をレバーで送り込んでいる男がいたとする。しかし、その男にはあずかり知らぬことだったが、その井戸水には猛毒が含まれていた。この場合、その男は、結果的に、その家に井戸水を送るという行為と、その家に猛毒の水を送るという二つの行為を行っていたことになる。行為は一つだったが、それは少なくとも二つの観点で記述できる。二つの記述はともにその行為に当てはまるとはいえ、その男の意図を考えた場合、「その家に飲料用の井戸水を送る」という記述(=D₁)は彼の意図には当てはまるが、「その家に猛毒の水を送る」という記述(=D₂)は当てはまらない。一般に、行為者の意図には一つに記述しか当てはまらない場合であっても、
ある行為には多くの記述(=D₁,D₂,D₃…,Dn)が当てはまりうる。行為者の意図とまったく関わりのない記述や、およそ行為者が知りえない記述がある行為に事後的に帰されることもあるだろう。これは、歴史的な事象を評価する際にしばしば問題となる事柄である。ハッキングが引き合いに出している一つの例を紹介しよう。
 第一次世界大戦中に、交戦中の脱走、抗名、前線に出ることへの拒否などの理由で軍法会議にかけられて銃殺された307名のイギリスとカナダの兵士の名誉回復を求める議員立法法案が英国議会に提出されたことがあった。その軍法会議の記録が1990年に公表されたのを受けた法案提出だった。現在、軍法会議を指揮した士官たちに共感を覚える人はほとんどいないだろう。この議員立法法案の起案者は、軍法会議にかけられた兵士たちは、今日であれば、心的外傷後ストレス障害(PTSD)である診断され、処刑ではなく、精神医学の援助が必要であるとの判決が下されただろう、と述べている。おそらく、当時の軍隊的規範において脱走、抗名、前線に出ることの拒否等の行為は、兵士として、というより国民としての義務を怠った第一級の犯罪として、最大級の非難や断罪の対象だった。当時‘PTSD’という概念は存在してはいなかったし、その他処刑された兵士たちを正当化するような概念も欠落していた。しかし、今日では、心的なプレッシャーの下で、たとえば脱走という過激な行動に走った兵士に対して不名誉に思ったり非難したりするのではなく賞賛の言葉を投げかける人も少なからずいることだろう。これは、断罪的な記述(=D₁)の下に捉えられたある行為が、賞賛的な別の記述(=D₂)の下に捉え直された例の一つだが、D₁が正しいとされたときにD₂という記述の下に兵士たちの行為を見る観点は存在しなかった。したがって、当時としては兵士たちの脱走行為をD₂的な記述の下で評価することは正しいことではなかった。しかし、今日ではD₂的な記述の下での脱走行為は容認できるのみならず、むしろ人間的にも組織論的にも正しい行為として賞賛されるかもしれない(12)。
 これは、要するに‘PTSD’という当時は欠落していた新たな概念を含む新たな記述の下で第一次世界大戦化の軍法会議の判断を「再記述」するとどうなるか、という問題である。そのほかにも、過去の親子の間のある種の行為を今日的な「幼児虐待」や「セクハラ」といった新しい言葉を含む新しい記述のもとで記述し直すときどうなるかという問題や、過去の私的な体験を「トラウマ」という記述の下で記述し直すという問題もまったく同じように展開できる。いずれの場合でも、古い出来事や行為が新しい記述の下で把握し直されるとき、その新たな記述は、過去においては正しいとは見なされなかったのに、今日では正しいと見なされる訳であるが、これは、ただ単に時間が移り変わる間に人々の考え方が変わったということを意味するだけではなく、「過去自体が、過去にさかのぼって改訂される」ことを意味するとハッキングは言う。過去の出来事に関して、そこに存在しなかった記述の下でそれを把握し直そうとするとき、過去がその記述に関しては不確定である(indeterminate)ことが明瞭となる。例の脱走兵を裁く軍法会議のとき、‘PTSD’という概念自体が当時は存在しなかった。つまり、その兵士が‘PTSD’だったかどうかという問いが存在しなかったし、その問いの真偽は、当時は、不確定だった。それが確定的になるには時間が必要だった。こうした可能性は無数にあるだろう。新たな記述の下に過去を問い直すたびごとに、過去は、その都度、不確定な姿において現れるのだ。しかし、これは、先ほど引用したマルセルの「記憶」についての発言と重なり合うものだ。個人的な記憶であるにせよ、歴史的な再記述であるにせよ、その規模の如何にかかわりなく、その両者は、過去の再構成という点で合致するのである。いずれの場合でも、過去は、一見隙の一切ない姿をしているように見えながら、新たな観点をもって振り返るときに、至る所に空白や間隙をもったものとして現れるのである。

3. フリーマンが「記憶」の問題を扱うときよく引き合いに出す個人的なエピソードがある。記憶とは個人的なものだから、自分個人の事柄を話題にすることは危険をはらむとはいえ、こうした私事をモチーフとして引き合いに出すのは、ある程度やむを得ないことなのかもしれない。以下は、フリーマンにとって「モニュメント」となった体験の一つである。
 
 「青年時代の数年間、私の父と私は良好ではあるがどこかぎこちない関係にあった。父は、時には厳格で少し我慢しきれないような素振りを見せることもあり、私は、基本的には、髪の毛を伸ばし放題で、権威なんて糞食らえという気ままなヒッピーだったので、時としてそれほど好ましい取り合わせにはならなかった。私の兄たちは年が離れていてしかも非常に成功を収めていたので、彼らとの比較で言えば私が理想からかけ離れているように見えたことは確かである。ともかく、大学の2年の終りに(その頃までに、私は自分の学業と世界について前よりいく分かは真剣になり始めていた)、父は夏休みのために私が荷づくりするのを手伝ってくれて、私を車で家まで送ってくれた。実に、実に久しぶりに――ひょっとしたら、生涯で初めて――私たちは語り合った。多くの、様々なことについて。楽しい時間だった。私は、その時のことを触れ合いと償いの時であるように考えるようになった。それは、信じがたい出来事だったわけではない。抱擁するとか、過去の罪を詫びるとかそんなことをしたわけではないが、父は、父なりの熟慮した仕方で私の存在を基本的に認めたのであり、私に対してO.K.だよと言ってくれたのだ。私も同じことをした。家についたら、私は外出して、友人たちに会いに行ったと思う。
 一ヶ月後、家から数時間離れたキャンプ場で仕事をするために家を離れたときが、私が父を見た最後の時だった。彼は55歳だった。
 私の父があの運命的な夏以降も生き続けていたならば、あの二人で帰宅したドライブは、一つの出来事として脳裏に刻み込まれることがあったかもしれないが、そうでないこともありえたかもしれない。ドライブで帰宅する機会は別に何度もあっただろうし、別に接触する機会もあっただろうし、すれ違った機会もあっただろうし、おそらくもっとずっとあっただろう。それゆえ、そうなれば、あのドライブは単なる「一つの素敵なドライブ」にすぎなかっただろう。しかし、実際は、それは極めて意義深い出来事だったし--私が遭遇したいかなる出来事よりはるかに意義深い出来事だった。実は、あのドライブは、私の過去における記念碑的な出来事(momument)のようなものになったのだ」(13)。
 ここで「モニュメント」として語られた出来事は、数年後この文書を書物に収めたとき、フリーマンがさらに「一種の神話的な時」、「礎(いしずえ)となるような時(founding moment)」と呼び換えている(14)ことから察して、このエピソードに彼が込めた思いが伝わってくるが、しかしこの時の経験は、いったい何の礎となるような経験だったというのか? 父について考えるための礎? あるいは自分について考えるための礎? それとも、父と自分の関係について考えるための礎なのか? しかし、そもそも、実際に起こったことは父と息子が一緒にドライブをしたという何の変哲もないことにすぎなかったのではないか? 父が自分に対して「O.K.だ」と言ってくれたように見えたという捉え方は錯覚だったのではないか? そこには、上二人の優秀な兄と比べて見どころのなかった当時の自分に関する罪悪感や恥辱を和らげるための創作だったのではないだろうか? 自分にも何かを成し遂げることができるポテンシャルがあることをついに父が目にすることなく逝ってしまったと認めることがあまりに辛く悲しいことなので、のちの何かを成し遂げた自分をあの時のドライブに投影することで、父が末っ子に対して誇りを持てるような場面を作り上げたのではないだろうか? 「伝記はフィクションである。自伝は絶望的なまでに創作的である」(15)と書いたガザニガならばここに自説を補強する打ってつけの例を見ることだろう。
 フリーマンはこの回想に対してそのような疑念が向けられうることを否定しない。何よりもそれは自分の回想に対して自分自身が感じる疑惑であった。しかし、ガザニガ・シャクター的な「虚偽」、つまり、正確性を期しながら不正確で歪んだ仕方でしか過去を再現できないという事態をここに見ている訳ではない。不正確といえば不正確だろう。記憶における父子はフロントシートに並んでいる。つまり、それを後部座席から眺めているような光景を記憶は提供するのだが、これはあり得ない光景である。いったい、それは誰の視点だというのか? だから記憶は、過去の一時点にさかのぼって、多少なりとも忠実にそれを再現しようとすることに興味をもっている訳ではない。
 「実は、私はあの帰省のドライブから本当はあまり慰めを得てはいないのだ。あのドライブが起きたことは確かにうれしく思っているし、そういう意味では「幸運だった」と感じている。しかし、あの出来事は…、他の何事にもまして、当時欠けていたし、今でも欠けているもの(what was , and is, missing)」に関わっているのである。それは、私たちの関係に欠けていたもの関わっている。多くのことが起こりえたのだが――ある意味で、私たちはそのことをあの車の中で証明したのだが――、それでも十分ではなかった。あの時、私たち二人に欠けていたものが身近にあることを私は今でも感じることがある。それは、今でも欠けているものに関わるものだ。あの帰省のドライブからだいぶ経ったし、あの時以降私が成し遂げた多くのこと、とりわけ私が父と共有できたかもしれないものや父を鼻高々にさせたり幸せにさせたりしたかもしれないことの中に、父は、欠けているままに、居合わせているのである。厳密に言えば、身近に居合わせてくれる存在という意味で、私にあの父が欠けている訳ではなかった。むしろ私は、彼がいないということが身近にあるように(the presence of his absence)感じられるのだ。このことは、記憶が実際に起こったこと、かつて起こったが、今は過ぎ去ってしまった出来事にのみ関わるものだという考え方を正すのに役立つかもしれない。記憶はまた、起こらなかったこと、起こりえないこと、これからも決して起こらないことにも関わりをもつのである」(16)。  

 思春期に突入してからぎくしゃくするようになったが、また良い方向に向けて開始されるかもしれないと思った瞬間に断ち切れてしまった関係。これは、時間をかけて熟成しなければならないはずのものだったに違いない。大学さらに上への進学、研究者としての独り立ち、結婚、出産等々。こうしたエピソードの一つ一つに、父は不在のまま居合わせていた。フリーマンは、その都度あの帰省のドライの場面に立ち戻り、父との会話を思い出したことだろう。現実的な意味では父との関係は終わってしまったが、記憶のなかでその関係は続いていた。フリーマン自身の経験の深化とともに、その関係は深化し続けた。その度に、あの帰省のドライブでの会話は、ハッキングが言ったように、「改訂」されていったのだろう。あのドライブがなぜ「モニュメント」であり「神話」であり「礎となるような時」であるのか、実は、フリーマンははっきり述べていない。それは、あの出来事が彼にとって何を意味するのか、彼にもはっきり判っていなかったからというだけなく、あの出来事の意味が変化してやまないものだったからなのだろう。その意味で、またしても、「過去は不確定」なものだ、と言うべきなのかもしれない。
 父と二人っきりで車で家に帰ることがフリーマンにとってどういう意味をもつのか、ドライブの最中のフリーマンには捉えられなかったし、彼に視野には入ってこなかったし、その限りで彼にとって欠落していたのだ。あの過去の出来事はある種の「不在」によって特徴づけられる。しかし、このことは、「過去」の特性なのではない。あらゆる時間がそのような相貌をもっているのだ。このことを思い切り一般化してみると、次のように言えるだろう。

 「現在(present)は、それが身近にある(presence)にもかかわらず、一種の不在(absence)によって特徴づけられる…。いま、私の直接的な経験には、欠落している何かがある。その何かとは、いずれやって来て、そこで起きたと思われることを私に見せてくれる未来なのである」(17)。

 現在が何重もの不在を抱え込んでいることは、現在が何度となく見直されうる、ということの言いかえにすぎない。現在において起こっていることに何か意味があるとしても、その意味は、見るものとの相関関係においてしか決まらない。そしてそれを見るものの位置は無際限に変わりうる。それに応じて「現在起こっている」ことは、無際限にその相貌を変えるのだ。だからフリーマンが直接的な経験において「欠落している(missing)」
ものがあると言うとき、それは物理的に何かが欠け落ちているということとは根本的に異なる意味に解されなければならない。欠落しているものは、そこに不在という形で存在しているのだ。それが目に見えるようになるには、それに相応しい位置に立たなければならない。そのための努力のあり方の一つが記憶なのである。「記憶とは不在のものを身近なものにしようとすることである(a making - present of what is absent)」(18)。また、それは「ポイエーシス」とも言い換えられるのだが、それは
 
 「しばしば言われることだが、詩とは、私たちが日常的に世界と遭遇する中で不在であるものを身近なものにしようと試みるものだからである。あるいは、もっと哲学的に言い換えるならば、詩は、世界をその不在のあり方のまま身近なものにすることだからである。それは、日常的な経験にとっての一種の「サプリメント」を提供し、詩によらなければ見過ごされていた世界の特徴を引き出すのに役立つものと見なされているからである」(19)。


Ⅲ. 記憶と思考


 記憶が一種の思考の作用であり、思考活動と詩作との類縁性はハイデガーが力説したことでもあるので、記憶を一種のポイエーシスとして捉えることは特に目新しいことではない。だから、この方向においてフリーマンの試みを評価しようとするのは、彼の真意を希薄化することになりかねないし、彼の近著“Hindsight”(2010)を読んでもそれが彼の洞察の最深部分であるという書き方にはなっていない。フリーマンのまとめ方では、記憶には認識的な次元と、倫理的な次元がある(20)。回想され、物語られる人生は吟味された人生なのだというソクラテスのナラティヴ的なヴァージョンを提供しようとフリーマンは提供しようとするのだ。だが、私には「倫理的」という言い方は不要に思われるし、私は別の仕方で彼の意図を明らかにすることにしよう。

 先ほど引用した個所を、もう一度取り上げてみよう。
 「現在は、それが身近にあるにもかかわらず、一種の不在によって特徴づけられる…。いま、私の直接的な経験には、欠落している何かがある。その何かとは、いずれやって来て、そこで起きたと思われることを私に見せてくれる未来なのである」。
 
 言うまでもなく、この「未来」は自動的にやって来るわけではない。それに、必ずしも、それは自分の回想という形をとらなければならない、というわけでもない。たとえば、“Hindsight”がまるまる一つの章を割いているプリーモ・レーヴィのアウシュビッツの回想録においては自分自身の回想は問題ではなかった。むしろ、他者の唐突な侵入が現在における「欠落」を際立たせるのである。現在の「欠落」を「私」が見ることを可能にするのは、おそらく、むしろ「他者」の視線であるのだろう。あるいは、(時間の経過とともに)一個の「他者」となりえた「私」の視線なのだろう。このことを以下でフリーマンとともにたどることにしよう。いま掲げた引用文は、実は、レーヴィの著作の「恥辱」と題された章のエピソードに関わるコメントの一部なのである。だから、レーヴィの回想録に少し脱線してみよう。
 レーヴィは1944年8月のアウシュビッツでの体験を語っている。囚人の誰もが喉の渇きに苦しんでいた。飢えは何とか紛らわすことができたが、渇きは何をするにも執拗につきまとい囚人たちを何よりも苦しめていた。そういう状況の中で瓦礫の片づけを命じられたレーヴィは工事現場の片隅に水道管を見つけた。蛇口は固く閉じていたが、石でたたくと水がしたたり落ちた。口をつけて飲むととても美味かった。管は親指二本分程度で、せいぜい1リットル程度の水しかそこにはないらしいと推測できた。自分一人で飲むこともできたが、友人のアルベルトを目で呼び寄せ彼と交互に蛇口に口をあてがって飲み干した。そのことは誰にも明かさなかった。だが、彼らの姿を見ている者がいたのだ。

 「しかし収容所に帰る行進の時に、私のわきにダニエーレが来た。彼はセメントのほこりで全身灰色になり、唇はひび割れていて、目はうるんでいた。私は罪の意識を感じた。私はアルベルトにまばたきだけで合図して、即座に了解しあったのだった。誰も私たちを見ていないことを願っていた。しかし、ダニエーレはしっくい片の間で、壁に沿って仰向けになっている、奇妙な姿の私たちを見ていた。彼は疑いを抱き、そして真相を察した。彼は何か月もたって、解放後に、白ロシアで、そのことを厳しい口調で指摘した。なぜ君たち二人だけで、僕はだめだったのか」(21)。

この問いかけには答えがない。それに対しては凍りつくような身振りしか可能ではない、そのような問いかけである。この問いかけこそ43年後にレーヴィ彼が自殺するときまでのレーヴィの脳裏を離れず、彼の存在をつねに「恥辱」に染め上げていた問いかけだったのだろう。
 だが、おそらくそれ以外にどうしようもなかったのだ。灼熱の風、煮詰まった血、喉の渇き、神経の攪乱、よどんだ空気。そこに、誰も見ていない所に見つけた水道管である。そもそもレーヴィがダニエーレに見つからなかったら、語るべき物語りはまったくなかっただろう。水の一件は、それが起きたときは、まだエピソードという形になっていないエピソード(a not-yet-episode)だった。われわれは、真空の中で暮らしているのでない限り、このような潜在的に進行中の無際限の数のエピソードの中にいる。そのような潜在的なエピソードの数々がどこにわれわれを導くかを、われわれは知らない。先に言及された「欠落」はこの「まだエピソードという形をとっていないエピソード」として理解できる。そしてその悲劇的な一例をレーヴィの水の一件は提供するのだ。激しい渇きの中で、目の前に水道管が見える。もはや水道管しか見えない。水を飲み干す。その本能的な動作が他者への配慮を脇に追いやってしまった。ダニエーレの侵入によって、彼の行為は急激な意味転換を来たし、一種の略奪行為へと転落する。同胞の存在を配慮せず彼の喉の渇きを癒す水をかすめとるという「恥辱」のエピソードに転落したのである。
レーヴィにとって収容所生活からの解放は決して解放とはなりえなかった。もはや文化的な生活に戻れないほどの非道行為の数々を見聞し、自らもそれに加担してしまったからだ。しかしレーヴィの書き方から察するに、最大の恥辱は盗みといった個々の犯罪行為ではなく、そうした行為を可能にした自分自身の視野狭窄だったのだろう。レーヴィには何よりもそれが許せなかった。喉の渇きを絶えず意識しなければならなかったこと、そこに水道管が見えたこと、それに視線が釘付けになったこと…。だが、こうした視野狭窄は、何も強制収容所という特殊な場所だったから起こったという訳ではあるまい。それどころか、行為のレベルでは絶えず起こっていることであろう。行為するとはある特定の目的を視野に入れて、それに向かうことである。その場合その目的を「図」とすれば(ゲシュタルト心理学の言葉を使うならば)、その他の一切は「地」に没する。「図」が見えることは、「地」が背景に埋没することによってのみ可能なのであるから、可視性の前提には不可視性があり、可視性と不可視性は相関的なものである。レーヴィの目が水道管を捉えたこととそれをダニエーレが見ていたことは、その相関性の少しだけ劇的な一例にすぎない。

 フリーマンは父親とのあの帰省のドライブに関連して何度も「欠落(missing)」について語った。欠落という表現は、実現しえたかもしれない父との関係、実現しえたかもしれないエピソード、という意味で使われていたのだろう。だがそれは、形式的に言えば、「図」としての可視的な光景がそこで浮かび上がってくる「地」のようなもので、潜在的に無際限なものとしてわれわれの行為を取り巻いている。しかも、レーヴィの例のように、われわれの行為が無限定の他者との関連において成り立っているのであれば、網の目のように織りなされる無際限な人間関係を含めた意味での、行為を取り巻く潜在的で「地」的なストーリーやエピソードなのであろう。それら潜在的なものを見るには、ある程度の時間が必要だ。潜在的なものを顕在化するために必要な時間がなければならない。あるいは、他者のまなざしが必要だ。あるいは私のまなざしがその他者のまなざしに重なり合うのに必要な時間がなければならない。行為に没頭しその行為が要求する視野狭窄から身をもぎ離すには、自分自身が変容しなければならないのだ。トルストイの『イワン・イリイチの死』に即しながらフリーマンは次のように語る。
 
 「私が、おもに瞬間的でイワン・イリイチ的なスタイルで生きているとき、私は自分の人生の全体的なパターンを容易に見きわめることは出来ない。私が即座の対応を迫る事物に捉えられている限り、そのパターンは経験の背景に退いてしまう。このことは、その都度の瞬間は有意味であることは出来ないと言うことではない。われわれが幸運であれば、生涯で素晴らしい、印象的な多くの瞬間をもつことになるだろう。しかし今考えられているのは、こうした諸瞬間から、われわれの人生の長期的な期間から――一つの全体として考えられた、われわれの人生から――距離を取ることが、かつてそれが生じたときにわれわれには見ることができなかった、少なくともはっきりとは見ることができなかった物事を見る機会をわれわれに与えてくれる、ということである。このことを言い換えるならば、その都度の瞬間瞬間に存在するような「可視性」は、比喩的に言えば、しばしば不可視性と相関的だ。その都度の瞬間に没入しているため、それが放つ光輝と明度のために、私は「全体像(big picture)」に対して盲目になってしまうことがありうる。私の人生が可視的になるというプロセスは、私がそうした瞬間から抜け出して過去の風景に私のまなざしを向けられるかどうかにかかっているのだ」(22)。

 ここで繰り返されている「瞬間(moment)」という言葉は、人生をその都度その都度満たしているエピソードの数々を指し示している。そして『イワン・イリイチの死』の主人公にとっては、そうしたエピソードの堆積によって自分の人生は尽くされてしまう、それらを取り去ると何も残っていないと感じてしまう、そのようなエピソードの堆積である。勉学に励み、人と同じような学生生活を適当に送り、職務に励み、出世の階段を上り、結婚し子供を設け、趣味の良い家に暮らし、望みうるものはすべて手に入れたように思えた。イリイチは、そうした個々のエピソードにその都度埋没するように人生を送ってきたのだが、それらのエピソードが見える可視性の条件としての「全体像」をあえて見ようとはしてこなかった。そこで死が間近に迫ってくるのを機に個々のエピソードを超えた自分の人生という全体像を初めて見ようとしたのだが、そこに彼が見いだせるものは何もなかった。自分の人生がまったく空虚であることに死ぬ間際になって初めて直面したのだ。
 イリイチに欠けていたのは、上の引用にもあったように、「諸瞬間から距離を取ること」である。進行する世界の諸々の事象から一時的に身を引き離すことであり、その諸事象が自分にとって何を意味するのかと問いかけることであり、これはハンナ・アレントとともに単純化して言えば「思考」である。イリイチに欠けていたのは「思考」である。また「思考」が世界をその不在において対象とするものであり、その中には過ぎ去った事象も当然含まれているのだから、イリイチに欠けていたのは「記憶」、過ぎ去る事象とともに自らの歩みを止めて過去を振り返るという単純な行為だった。振り返りながら自らに問いかけるという行為だった。答えは得られなくとも、問いかけて答えを待つという行為だった。
 ここで詳しく書くことはもはや出来ないが、ハンナ・アレントが『精神の生活』で述べていたように、いわゆる「倫理」というものは存在しない。善人・悪人がいるというよりは、自らに対して語りかけるという不断の行為をしている人がいるかどうかだけなのだ。そのように見るならば、『イワン・イリイチの死』は、フリーマンが捉えるように「善の問題」という観点から捉えられるべきではなく、時間が過ぎゆくままに任せて「思考」によってその流れを断ち切ることもその流れから距離を取ることもなく人生の終わりを迎えた人間が、いわば死の圧力に屈してやむを得ず「思考」の時間を見出すにいたった経緯を作品化したもの、と評することができるのではないだろうか。
 それにあえて付け加えるならば、ここでテーマの一環ともなっている「死」の近接は、おそらくイリイチの自己との対話を開始させる機縁を提供するものという意味において語られているにすぎないのだ。死は生を語るための一機縁、その最も有力な機縁であるだろうが、まさにそのために生そのものの一契機以上にはならないのだ。 

 「イワン・イリイチが差し迫る死を待って初めて自分の人生を見渡す気持ちに駆られるようになったということは意義深い。なぜなら、それが示唆しているのは、彼が人生を無意識的、無反省的に生きてきたということであり、彼の明々白々な前提が死は関心を寄せるべきことでは全くなく、それは本質的にどうでも良いことだということだからである。言い換えれば、イワン・イリイチは、終わりを念頭に置くことなく、自分の人生を送ってきたのである。終わりに対する意識がなければ、いかなる物語もありえないだろうし、一連の出来事や経験や瞬間があるだけだろう。…だから、彼の人生は、物語的な完結性(narrative integrity)と呼びうるものを欠いていたのである」(23)。

こうした物語りの完結、「全体像(big picture)」を見ようと回想をしてみても、回想は、今となってはどれもこれも無意味にしか思えないエピソードの数々を提供するだけだった。

「幼年時代からは遠く、現在に近くなるに従って、喜びはますますとるに足らぬ、疑わしいものになっていった。… 結婚…いかにも思いがけなく、そして幻滅、妻の口臭、肉欲、虚飾! それからこの死んだような勤務、金の苦労、こうして一年、二年、十年、――どこまで行っても何もかも同じだ。先へ行けば行くほど、生気がなくなる。自分は山をのぼっているものと思いながら、じつは、規則ただしく山を下っていたようなものである。…では、これはいったいなんなんだろう? なんのためだろう? こんなはずはない? 人生がこんなに無意味でけがらわしいはずはないではないか?」(24)。

 これまで無意識・無反省な生き方をしてきたイワン・イリイチが、急に意識的で反省的なモードに立ち返ってみたところで、それが何かを与えてくれるわけではないのだろう。付け焼刃の回想は付け焼刃のエピソードしか与えてくれない。無目的で破壊的な自問自答の中の彷徨しか与えてくれないのだ。しかしイリイチが最後の最後に自己のこれまでの人生が無意味だったと認めた瞬間に、何かが変わったのだ。それは取るに足らないような変化だった。これまで彼の記憶の前景を占めていた虚飾の幻影が消え去り、「地」の中に没していたものが視野に現れてきたのである。つまり、「物語的な完結」や「全体像」を見ようとしたからといって、その見返りとして全体的な鳥瞰図や壮大なパノラマが与えられるとは限らない。むしろ、これまでのイリイチの視線に終始一貫して欠けてきたとても身近なものが彼の視覚と触覚を打ったのである。
 
 「それは一昨日の終わりで、死ぬ二時間前のことであった。ちょうどその時、小さい中学生がそっと父の部屋へ忍び込んで、彼のベッドのそばへ歩み寄った。品詞の人はたえずやけな叫び声をあげたり、両手を投げ出したりしていた。彼の片手が中学生の頭に落ちた。中学生はそれをつかんで、唇へおしつけて、泣きだした。ちょうどこの瞬間に、イワン・イリイチは穴に落ちこんで、光をみとめたのである、そしてその時、彼には、自分の生活はほんとうではなかった、しかしそれはまだ訂正できる――こういうことが啓示されたのだった。彼は自分にたずねてみた――『ほんとう』とはいったい何か? そして、耳をすましてしずまりかえったのであった。そこで彼は、だれかが自分の手に接吻しているのを感じた。彼は目をあけて、ちらと息子を見やった。彼には息子がかわいそうになってきた。妻がそばへ来た。彼は、彼女をもちらと見やった。彼女は口をあけ、鼻や頬につたわる涙をぬぐおうともしないで、絶望的な表情で彼を見ていた。彼には、彼女もかわいそうになってきた」(24)。

 ここで目を引くのは、「耳をすましてしずまりかえったのであった」という表現である。思うに生まれて初めてイリイチは世界からとき離れて「思考」の態勢に入ったのだ。家族は、彼にとって社会人として責務の一環であり、虚飾であり気晴らしでしかなかった。世界の標準を充たすための道具でしかなかった。しかし考えてみれば、彼の仕事も彼自身の自我もそうした道具の一環でしかなかった。すべてが彼のナルシスティックな想像力が生み出す亡霊のような存在にすぎなかった。しかし今やそうした世界に対する配慮の一切から解き放たれたときに、それらの亡霊たちは初めて人間の姿をとって彼に現れたのである。そしてイリイチ自身も人間の姿をとることができた。そして彼らの間に共感という感情が初めて流れるのである。フリーマンは、トルストイのこの小品の最後を次のように読み、それを回想の「倫理的」な作用のおかげであるとしているのだが、おそらくここには「思考」の浄化的作用があるだけであるように私には思われる。しかしその点の論述はまた別稿に譲るしかない。

 「彼が自分の人生をあるがままの姿として突き止めることができて初めて、これらの亡霊たちは人間の姿をとることができたのだし、人間の姿をとることによって――生き、呼吸をし、苦しむ存在として現れることによって――初めて、彼は、彼を善に導くことのできるような共感に満ちた結びつきを感じることができたのである」(25)。




1. Mark Freeman:Rethinking the fictive,Reclaiming the Real:Autobiography, Narrative Time,and the Burden of Truth, in Gary D.Fireman,Ted E.Mcvay,JR and Owen J.Flanagan(ed), Narrative and Conscioussness,p.115-116.
2. Michael S.Gazzaniga : The Mind’s Past,1998, p.1
3. ガザニガの前掲書のp.23-24に引用されている箇所を訳した。
4. Martin P. Nilsson: “Religion as Man’s Protest against the Meaninglessness of Events”, Opuscula Selecta Ⅲ(Lund,1960),P.391-464.
5. The Mind’s Past, p.1-2.
6. The Mind’s Past, p.25-26.
7. The Mind’s Past, p.174.
8. Daniel.L. Schachter : Memory distortion, in D.L.Schachter(ed.), Memory distortion: How minds,brains and societies reconstruct the past,1995, p.1. 
9. 『存在の神秘』-マルセル著作集5、松浪信三郎、掛下栄一郎訳、p.162-163.
10. 同書、p.161.
11. イアン・ハッキング:記憶を書き換える―多重人格と心のメカニズム― 、北沢格訳、1998年、p.309 .
12. 同書、p.298-299.
13. Mark Freeman:Rethinking the fictive…, p.124-125.
14. Mark Freeman: Hindsight—the Promise and Peril of Looking Backward, Oxford,2010,p.51.
15. The Mind’s Past, p.2.
16. Hindsight, p.53-54.
17. Hindsight, p.84-85.
18. Hindsight, p.63.
19. Hindsight, p.54.
20. Hindsight, p.177.
21. プリーモ・レーヴィ:溺れるものと救われるもの、朝日新聞社、2000年、竹山博英訳、p.88-89.
22. Hindsight, p.207-208.
23. Hindsight, p.201-202.
24. トルストイ: イワン・イリイチの死、『トルストイ全集6 後期作品集上』(河出書房新社)、中村白葉訳、p.151.
25. イワン・イリイチの死、p.157.
26. Hindsight, p.200.

 作品としての妄想あるいは作品としての生 [最近の論文]

  作品としての妄想あるいは作品としての生
                 

1.“I was meant to be”

 自らの死期が近いことを悟ったイギリスの詩人オーデンは、1971年、死滅しつつある肉体に向かって、そこから離脱していく魂が語りかけるという体裁の詩を書き上げた。「自分自身に語りかける(Talking to Myself)」と題されたその詩の一節を引用する。


予測もつかないことであったが、君は、何十年も前に、自然の胎内から
わき出る滝のように際限もなく生まれては消えていく生物たちの間にやって来た。
ランダムな出来事だ、と科学は言う。私の根底がランダムだと言うのだ! しかし、私に言わせれば、これこそ、まぎれもない奇跡なのだ。
なぜなら、自分が存在する定めにあったと確信しない者など一人としていないからである。

“Unpredictably, decades ago, You arrived
Among that unending cascade of creatures spewed
From Nature’s maw. A random event, says Science.
Random my bottom! A true miracle, say I.
For who is not certain that he was meant to be?”
」(1)。

 この「自分が存在する定めにあったと確信しない者など一人としていない」というオーデンの主張にどれほどの人が同調できるかは定かではない。自分がこの世に生まれたという事実は、誰にとっても取り返しがつかない過去に属しており、そこには自分が関与する余地のないランダムな事実の堆積があるばかりであると考える人にとって、この詩は単なるナンセンスとしか映らないことだろう。さらに言えば、単なる妄想としか映らないことだろう。
しかし、ナンセンスであると評するにせよ妄想であると評するにせよ、私にとって私が存在するという事実がある意味で必然的であるということは論理的に確かなことである。これは簡単に証明できる。私が「私は存在する」というとき、その言明は必然的に真なのであるから。このことは、私が「私は存在しない」と言うとき、それが必然的に偽であることを考えれば納得できることである。
もちろんこうした空虚な論理的思弁をオーデンが考えていたということはありそうもない。しかし自己の一生を一個の(詩)作品という形で語ろうとする者にとって、自己自身は存在しなければならないし、その自己がこの世に到来するという出来事も存在しなければならなかった。誕生という出来事は、一個の物理的事象として見ればランダムな出来事にすぎないが、作品において自らの生を語ろうとする者にとっては、その作品が有意味であるための絶対的な前提条件である。その作品が(おそらく有意義な形で)終焉を迎えようとしている今、オーデンはそれがかつて始まらなければならなかったと断言することで、自らの生が無意味に始まり無意味に閉じようとするから救い出そうとしたのだろうか? 自らの生を作品として救おうとしたのだろうか? いずれにせよ次のことだけは言える。偶然性を否認することは思考の本姓に根ざした行為である、と。そして、こうした思考のあり方が、この詩の上掲の一節に端的に言い表されている、と。なぜなら、思考とは事実の背後に意味を求めようとするものだからである。あるいは、事実の背後に意味を作り上げようとするものだからである。偶然や無意味ほど、思考が忌み嫌うものはないからである。

さて、以下では、オーデンが直観的に掴み取ったことを思考・妄想・ナラティヴといった概念に関連づけることによって、一種の哲学的ナラティヴ論の端緒を素描することにしたいのである。まずは「思考」を俎上にのせることから始めてみよう。

思考について上に述べたような捉え方は、おそらく少なからぬ人々が表明してきたのではないかと思われる。私にとっては、ある時期以降の(「詩作」として「思索」を捉えようとした)ハイデガーやそれに倣った晩年のハンナ・アレントなどがそうした見解にコミットしていたことが何よりも重要である(そもそも上のオーデンの詩も、アレントの『精神の生活』で引用されていることから、初めて私の注意をひいたのだった(2))。アレントはこの詩の一節を「真実(事実)と意味の区別」を際立たせるために挿話的にしか使っていないし注釈めいたことも記していないが、肝心なことには触れていた。つまり、「この「存在する定めにあった(meant to be)」ということは真実(a truth)ではない。しかしこれはきわめて意味のある(meaningful)命題なのだ」と言っていたのである。
事実の地平で確証できたり反駁できるような問題を真実(a truth)あるいは事実(a fact)に関わる問題だとすると、そうした問題を解決する任務は科学に帰されなければならない。しかし科学が扱うべき問題群(真実や事実の総体を「世界」と呼ぶならば、世界に関わる問題群とも言える)で人間の理性が提起する問題が汲み尽くされてしまうわけではない。このことは既にカントが「悟性(科学的な意味での知性)」と「理性」の区別で示したとおりである。魂の不死性や神の存在については、科学が解決できないからといってその問題の有意義性が否定されるわけではないし、それが「意味」のある問題であることを止めるわけでもない。それと同様に、私が存在する定めにあったという言明は科学的に言えば偽の言明にすぎないが、偽と判定されるからといってその言明が(少なくともオーデン自身にとって)意味をもつことを止めることになるわけではない。私が誕生し今に至るまで存在してきたことは一個の事実にすぎないが、その事実の意味を求めたりそれにどのような意味を与えようかと苦慮することは科学者が真理を求めるのとは別個の活動である。アレントはこの科学とは別個の活動を、ハイデガーに倣って「思考」と呼び、その活動の本質を(真実・事実の総体としての)「世界」からの「引きこもり(withdrawal from the world)」と定義した。もちろん、思考が世界から引きこもるのは、世界の意味を求めるためなのである。
アレントがこの区別によって狙っていることはカントの「悟性(知性)」と「理性」の区別をより一般化することであり、それによって哲学的思考には科学的活動とは別の存在理由があることを積極的に示すことだったのだろうが、この小論の関心はそうした大状況の方向に向かうのではなく、もっと卑近な範囲で確認できることに照準を絞っている。「世界からの引きこもり」という表現は、何か「世界没落体験」に見舞われた人が自分の部屋に引きこもって一歩も外に出られなくなるというようなイメージを喚起するかもしれない。確かにそれも「引きこもり」の一例だろうが、アレントはもう少しありきたりで、日常誰にでも起こっている現象としての「引きこもり」を念頭においている。少し長いが、アレントによる「思考」の捉え方がはっきりする箇所を引用してみよう。

「哲学がその特別なテーマとして見なした形而上学的問いはすべて、日常的で常識的な経験から生ずる。「理性の欲求」――そのような問いを人々が発するように促す意味の追求――は、自分が目撃した出来事についての物語りを語ったり、その出来事についての詩を書こうとする欲求と異なったものでは全くない。およそそのような反省的な活動をするとき、人々は現象の世界の外側に移行し、抽象的な語に満ちた言葉を使うのだが、そうした言葉も、哲学の特殊な通貨となる前は日常の言葉遣いの一部であったのだ。・・・哲学にとってではないにせよ、思考にとって唯一の本質的な前提条件は現象の世界から引きこもることなのである。私たちが誰かのことを考えるためには、その誰かは私たちの目の前から離れているのでなければならない。その人が私たちと一緒にいる限り、私たちはその人のことを考えることも、その人について考えることもしない。思考活動には常に想起すること(remembrance)が含まれている。思考(thought)はすべて、厳密に言えば、「後からの思考(after-thought:後知恵)」なのである。もちろん私たちは、今でも自分の目の前にいる誰かあるいは何物かについて思考し始めることはあるかもしれないが、その場合私たちは、自分自身を周囲の状況からこっそり切り離してしまい、あたかも自分がもうそこにはいないかのように振舞っているのである」(3)。

少し補っておくと、「理性の欲求」とはカントに由来する表現で、科学によって解決されない問いかけを発せざるを得ない人間理性の止みがたい欲求のことであり、「想起」への言及があるのは、プラトンのイデア論(それは「想起説」として開始された)以降の哲学の伝統として、思考は常に多少なりとも想起との関連で捉えられていたという哲学史的な背景があるからである。
しかし、もちろんそうしたこととは別個に、ここで「思考」として考えられていることが日常的に誰でも経験しているものであることに異論の余地はないだろう。だが、そのように「思考」しているとき、私たちは何をしているのだろうか? アレントによれば、私たちは「意味の追求(the quest for the meaning)」に従事しているということになる。だが、これだけではまだ抽象的すぎる。なぜなら、悪名高いことに「意味」というものほど捉え難いものはないからである。意味とは何かという問いは刺激的であるとともにこの上なく不毛でもあった。その問いが刺激的であったために、あれほど多くの人々(いわゆる「言語哲学」の周辺にいた人々)がその問題に引き寄せられたのだが、20世紀後半の哲学者の多くを悩ませながらついに明確な答えに誰も至らしめることがなかった(と、私には思われる)がゆえに、この上なく不毛でもあった。おそらく、その問いかけは、問いの在り方として成熟の度合いがまだ足りなかったのかもしれない。
つまり「意味」という曖昧なものをより具体的に見なければならないのである。それを見ようとするとき、肌理の粗さや分節化の度合いがまちまちであったり、不整合や矛盾をあちこちに含んでいたりしながら、違った観点から眺められたりより広い文脈に包含されたりすることを待っている断片の数々が脳裏に広がる様が見えてくるだろう。そうした断片の間に関連をつけたり一つのまとまりとして把握し表現しようとすることが「意味を追求する」ことの不可欠なプロセスの一つであるならば、それらについて思考することは、アレントが述べたように、それらについての「物語りを語ったり・・・詩を書こうとする」ことと異なったものではないことになる。思考とは、具体的に言えば、自己の体験を想起しつつ、事後的に物語ろうとする一種のナレーションの試みであるとアレントは示唆しているように思われる(この考え方の背後には、思索を詩作として捉えようとしたハイデガーの試みがあるわけだが)。しかし、アレントに先立ちドイツ系の哲学者とは独立して、ガブリエル・マルセルも同じような見解を述べていたことはあまり知られていないが、興味深いことである。

「私の生は、私の反省に対して、物語りとして語られうる本質をもったものとして提示される。…このことは、まったく真実なので、物語るという行為にかかわるものをすべてそこから除いても、「私の人生」という言葉が、まだ正確な意味を保つかどうかを問うてみることは許されよう」(4)。

おそらく「記憶」、「過去」、「私の人生」といったものについては、いまだに「実体的」な捉え方が一般的だろう。つまり、誕生から今に至るまでの一生の歩みは脳のしかるべき場所に保存されていて、記憶は単にそれを(きわめて不完全な仕方で)再現するプロセスにすぎない、という捉え方がいまだに支配的であろう。そして、こうしたとらえ方の根底には実体的な意味での「人格の同一性(personal identity)」に対する抜きがたい信念がある。しかし冷静に考えてみればすぐ判ることだが、過去は――ましてや「自我」や「人格」はなおさらのことだが――再現されるべくそこに待ち構えているようなものではないし、記憶も想起する者のその時その時の立ち位置次第で変化して止まないものである。記憶や想起の際に私たちに与えられるのは過去の「四方に放射する断片」にすぎず、その周りで精神は「再構築の仕事にとりかからねばならない。…この再構築は、実は新しいひとつの構成」なのである。このことを納得させるためにマルセルは、次のような例を挙げている。

「そのことを理解するためには、われわれが、自分のおこなった簡単な旅行について、友人に物語るときのことを反省してみれば十分である。この旅行は、最初から終わりまで経験した人物によって語られるわけであるが、旅行中の経験は、その人のその後の経験――旅行中の最初の印象によって形成された観念に対して、反作用を起こしかねない経験――によって色づけられる。しかし実は、最初の経験そのものは、これから起こることへの不安な期待によって染められていたのである」(5)。

あることを思考することはそのあることの意味を追求することである。しかしそのためには想起することが必要である。想起することは、新たに構成することであり、物語として新たに再構成することでもある。こうした(再)構成への努力があって、その都度の経験に対して初めて十全な意味が与えられるようになるのだとすれば、以上述べたことは、私の経験そのものは生(き)のままでは断片的な意味しかもたず事後的な構成によって初めて統一された意味を獲得するに至るということを含意している。新たな構成によって形作られるものは、総じて「作品」と呼ぶことができよう。マルセルとしては、(私の経験の総体としての)「私の生」と「作品」を端的に等値したいのである。そこで、彼は「私の生とは、私がそれについて語ることができるかぎり、私の作品ではないのか? いま立てられている問いに対して、「私は私の作品である」と答えてはいけないのか? 」(6)と自問するのである。
 だが、もちろん、この問いに対して直ちに肯定的な答えをもって応えるのは単純すぎるだろう。マルセルの思考の流れに沿ったとしても、新たな構成としての想起の例(旅行について友人に物語る例)から「作品としての生」へと無媒介的に移行することはできないはずである。なぜなら、旅行を想起して物語る場合ならば、それらの行為の対象は旅行という期間がはっきり限定された出来事であるのに対して、「私の生」を想起し物語ろうとするとき、そこには、はっきり限定された対象は見いだし難いように思われるからである。少なくとも、旅に関して可能だった「最初から終わりまで経験」するという可能性が、「私の生」に対しては原理的に拒まれている以上、言い換えれば、想起や物語るという行為の向かう対象の全体が私にとって見渡しうるものではない以上、「私の生」に確定的な意味を付与しそれに物語としての完結性を与えることは、少なくとも私にとっては原理的に不可能である、ということになる。
「死ぬ前には、だれも幸福であると言うことはできない」という古代ギリシア人に由来する格言には、すでにそういう洞察が秘められていた。アレントはこの格言を、生という「物語りの完全な意味はそれが終わったときに初めて明らかになりうる」という形で一般化していた(7)。幸・不幸であるにせよ善・悪であるにせよ、まだ進行中である「生」に対して確定的な意味で善や悪、幸・不幸といった述語を与えることはできない。したがって、厳密に考えるならば、生が作品としてあるいは物語りとして与えられうるとしても、その可能性はその生の内部には存在しないし、より重大なことにその生に意味を付与するのは、その生を生きている当人以外の者だ、ということになる。

しかしながらこのことは、もちろん、生を生きる当人がその生の流れを決定的な仕方で遮断し、それを一個の他者として対象化できるようになる(その限りで、それを物語るようになる)という可能性を排除しはしない。そうした「遮断」や「他者としての対象化」がいかに欺瞞的で虚偽であろうと、この可能性自体は認めておかなくてはならない。ちょうどそれは、「思考」なるものが、文字通りこの世界との縁を切ることではありえないにしても、やはり一種の「世界からの引きこもり」であるのと同じである。自己の生についての振り返ってみるとき、自己の生の連綿たる流れの中にいることには変わりがないにせよ、「あたかも自分はもうそこにはいないかのように」振る舞っているのと同じことである。すでに述べたように、私たちはこうしたパラドクシカルで両義的である行為を、日常的に絶えず行っている。おそらくこうした行為は、日常生活を送る上で絶えず必要な平衡を保持しようとするバランシングの行為なのだ。ほんのつかの間、思考に没頭するというちょっとした行為の断片においてでさえも、日常生活の四方八方に散逸してゆく流れの中で自己の生が四散せぬようにその生を支えようとする行為なのだ。まして、膨大な過去を含む自己の生は、絶えず再構成し作品という形で数々の断片を拾い集め一個の完結したまとまりのうちに統合しようとする営みを欠いたままであると、すぐに風化し始め空洞化していくものなのだ。
マルセルの言うようにそのような作品化としての想起が私たちの生に意味を与えるものであるとしても、それは何も際立った特別の行為ではない。私たちは、日常のちょっとした間隙とも言えるような行為においてでさえも、自らの生の風化を防ぎ、それに意味を与え、それに生気を送り込み、それを支えようとしているのである。つまり、生を作品化し物語りという形式で保持しようとする試みは、生に対する無償の美化や装飾なのではなく、生の実質を支えようとする生そのものに内在する試みなのである。次節では、そうした試みの際立った例を紹介することにしたい。


  2. 生の肯定としての妄想

 以下で紹介するのは、「妄想」として分類される心的現象である。「妄想」には、それを定義するという最初の手続きからして著しい困難がまとい付いているが、今はそうした問題には立ち入らない。おそらくそれは「現実検討能力」の欠如であり、「現実」と「非現実」を峻別する能力に欠陥があることに由来するのであろう。もちろん、こうした指摘に基づいて定義を形成するためには、「現実」なるものが明瞭に限定される必要があるわけだが、周知のように、その必要条件が満たされることは決してない。しかし、妄想に関しては、これまで思考について述べてきたことを繰り返すだけで当座の目的としては充分である。妄想とは「世界からの引きこもり」の一様態である。それに妄想は一種の作品化であるだろう。それが杜撰な作品で隅から隅まで安易な断言・安易な一般化によって成り立っているものであっても、それが作品であることには変わりがない。そして、妄想は、前節の最後で使った言葉を繰り返すならば「生の実質を支えようとする生そのものに内在する試み」の一例なのである。
 1980~90年代以降に学問的な観点から「妄想」に取り組む者に対して、浸透力のある影響力を及ぼした学者にブレンダン・マーハー(Brendan A. Maher)がいる。マーハーは進化論的な観点から妄想の積極的意義を見直すことを強力に推進した専門家であったが、今はマーハーの少し難解な見解を仔細に紹介する余裕はないので、マーハーの見解を非常に具体的に要約してくれたエドワード・ハンダートの論文を紹介することにしよう(8)。
 ハンダートは、自説を展開するに先立ってあるケース・スタディーを紹介している。少し長いが引用しよう。

「あるケース・スタディ:ティモシーG.
  
 私がティモシーG.と呼ぶことにする患者は、32歳、独身、白人、失業中の男性で、その精神病的症状は、ほぼ20歳のときに始まった。その頃まで、彼は成績もよく、彼の高校の通知表は、彼のことを、皆から好かれ、遊び好きな人間と記述している。しかし大学二年のとき、彼の社会生活は悪化し始め、次第に孤立しうつ状態になった。彼には顕著な不眠傾向とパラノイアがあり、地元の幾人かの女性にセクハラ行為を行ったために、最初の入院ということになった。
 
  20歳から22歳の間に、この患者は、ほとんど死んでもおかしくなかったような自殺の試みに続いて、重い鬱の治療のために何度も短期間の入院をした。この自殺の試みには、ナイフで自分の腹を突き刺す(それは肝臓に障害をもたらした)、ガソリンで焼身自殺を図る、橋から凍った川に飛び込む、手首を切る、睡眠薬の過剰摂取などがあったが、最後の過剰摂取では2日間意識が戻らなかった。最後の自殺の試みの頃に、彼は、自分が「聖霊を冒涜したことがあった」と感じ始めた。23歳の頃、ティムは、その後10年間にわたり強弱の違いはあれど常に存在し続けた妄想の体系を抱くようになった。その体系には、自分は戦争犯罪の償いをするために生まれ変わったアドルフ・ヒトラーであるという信念も含まれていた。彼の言うところによると、自分はヒトラーの墓に5年間埋められていたが、それから多くの自殺の試みや入院の苦しみを味わうために地上に戻ってきたという。比較的病状が安定しているときでも、具体的ではない形ではあるが、自分は今償いをしているのだということを主張し続けた。しかし、何らかのストレスがかかると、ヒトラーの生まれ変わりであるという彼の信念が、多くの詳細を伴って戻ってくるのであった。
事態を複雑にしていたのは、この患者が12歳のときに多発性硬化症と診断されたことであった。MRIは彼の脳のあちこちに多様な白質病斑があることを示していた。彼は、ここ10年間、発病時に見せた神経学的症状が進行していないために、多発性硬化症の典型的な特徴のすべてを持っているとはいえなかった。彼が10歳のときひどい自転車事故を起こし意識を失ったことが、脳のスキャン画像で見られる損傷の原因であり、これが多発性硬化症のような症状を引き起こしているのではないか、という仮説を立てる者もいた。
 ティムの家族の病歴としては、母方の大叔母と叔父が鬱病を何度も発症したということが目につく位であった。彼は、今更正施設にいて、パラノイアの症状や鬱が深刻になったときだけ、再入院するという暮らしをしている。彼は、約10年間、自傷の試みをしていない」(9)。

 見られるとおり、ここにあるのは古典的と言っていいパラノイア的妄想である。ここに現実と非現実の峻別の失敗があるのは言うまでもない。おそらくMRIに映った脳の異常がこうした妄想の原因であると想定するのが普通であろう。しかし、マーハーやハンダートは妄想をある種の異常の所産とは考えない。むしろ、MRIに映っていない健全な脳の部分こそが妄想を生み出したと考えるのである。
 「現実と非現実の峻別」の能力が「正常」と「異常」を分ける判別基準だとしても、その「現実」なるものがティモシーGをあの執拗で容赦のない自殺の試みに追い込んだ当のものであるとすればどうであるか? ひょっとしたら、MRIに映った白質病斑が、あるいは鬱病への遺伝的傾向性が、あるいはまったく未知の理由が、ティモシーGにとって「現実」に留まることが「死」以外の選択肢を与えなかったとしたら、「現実」を放棄することの方がむしろ理性的な判断だったと言えるのではないだろうか? 「生」を根本の大義として据える限り、死を選択するよりもまだ現実を放棄するほうが望ましいことは言うまでもない。
 言い換えれば、ティモシーGの妄想は、彼を自殺の試みから救ったのである。少なくともそのように機能したのである。いかにネガティヴな形をとって、「償いをしなければならない」という形ではあれ、その妄想はティモシーGに生き続ける理由を与えたのである。ハンダートは巧みに次のような説明を与えている。
 「しかし,彼の生に意味が与え返されたのである。この意味は彼の妄想から生じたのだが、それは、多くの精神病の患者と同様、彼の症状の全体が、彼の継続的生存を組織的に支えたからである。彼の生を終わらせることは、ナチスのホロコーストの犯人に裁きを下すという世界の希望を終わらせることであるだろう。彼の脳がこのことを理解してからというもの、彼の継続的な生存が危機に瀕するようなことはなくなったのである」(10)。

 全人類の憎悪を一身に背負って生きることは、まったくの無の中に消え去ることに比べると、なんと希望に満ちたことであったことか。自己自身の度重なる自殺の試みをヒトラーの復活に結びつけて、贖罪という形で自己の生を正当化したティモシーGの妄想は、生き続けることが脳にとっての至上命題であり理性の不可欠な前提であるならば、なんと理性的であったことか。一般的に言って、脳は人類の生存(サバイバル)を目指して進化したと考えられる。その生存(サバイバル)を阻害するような行為や肉体の形態は、進化の過程で容赦なく自然選択の篩(ふるい)に掛けられ消滅して行っただろう。しかし、妄想を生み出す脳の機能は篩に掛けられ消滅することはなかった。つまり、それは人類の生存を阻害するものではなかったのである。むしろ、いわゆる「現実」が死のオプションしか残さないような過酷な環境を人類が何度となくくぐり抜けた過程で、脳は「現実」に尽きることのないオプションを常に自らのために創造し、生存が可能になるチャンネルの幅を広げてきたのである。そういう意味で妄想は生存のために脳があみ出した戦術であったとさえ言えるのである。
 進化とは個体ではなく種全体の方向性を根底的に規定するものである。人間の脳は、その進化の過程において、社会的・集団的生存という方向に向けて大きな舵を切り、言語的な意思の疎通をとおして信念を共有することに生存の基盤を置くにいたった。この集団性・社会性は生存のための強力な戦術であったに違いないが、しかしそれは同質性・単一性という脆弱化のリスクを抱え込むことでもあった。言い換えれば、人間の進化は種内の多様性を犠牲にする方向に向かったのだが、しかし完全に多様性を犠牲するまでにいたらなかったし、一蓮托生で全滅するリスクを回避する程度の多様性を残す進化だったのである。だから、思考の多様性は集団の存立に不可欠でさえあったはずだ。ハンダートによれば「妄想を形成する脳の能力は、集団が生き延びるための戦略の一部として進化してきた。しかし、その集団としてのサバイバルは、もっと大きい適応的能力、つまり、共有された現実観にあまり依存しない世界で生きていくという能力に依存しているかもしれない」(11)。つまり進化の法則は集団単位での適応にかかわるが、それ以前に、自分の所属している集団がどうであれ、個体が生き延びる能力が一番根本にあるはずなのである。集団全体が、ある特定の現実に突っ走っていっても、その中の個人が、その現実を無視して、個人的な信念を形成する余地がなければ、逆に、集団も成り立たなくなってしまう(はるか昔にフンボルトやJ・S・ミルが力説していたことである)。すでに述べたように、個人は、その存在のほとんどを規定する社会的生活の只中においてでさえ、その生活からの「引きこもり」を間歇的に実行しており、そうした間隙において現実から離脱することがなければ、おそらくは生きるためのバランスが取れないはずだ。このことは、集団レベルにも当てはまるのだろう。集団的に統制のとれた人間の社会は、その中にそこから離反する要因をあえて存続させることによって、かえって均衡を保ってきたのである。

さて、ハンダートは妄想のこうした捉え方をマ-ハーのみならず、それよりもはるか以前のミンコフスキーの古典的著作からも学び取ったようだ。来る日も来る日も「死刑の執行が必ず明日の夜おこなわれる」と断言して止まない66歳の男性患者との共同生活を経た後に、ミンコフスキーはその繰り返される妄想を病的な想像力の産物や判断力の障害ではなく、「正常な思惟の試み」と見なすようになった。

「実際われわれも皆、ときには、つまりわれわれの人格的躍動が衰弱し、われわれの前に未来が閉ざされるような場合には、死刑囚となるのであるから。患者の態度はこの同じ躍動のもっと持続的な衰弱によって生じた、と考えることはできないだろうか。時間と生命との複雑な観念が瓦解して、われわれが皆潜在的に自分のなかにもっているより低い次元に下落したのである。このように妄想念慮は、想像力の手で一から十まで構成されるのではない。それは、われわれの生命の総合機能が衰弱し始めるとき必ず働き始める一つの生命現象の上に、接木されるのである。処刑念慮という特殊な妄想念慮は、結局、崩壊した建造物の瓦礫の間に論理的な関連をつけようとする、それ自身は正常な思惟の試みにすぎないのである」(12)。
 
 ミンコフスキーの描くところによると、この男性は没落念慮と罪責念慮が顕著であった。彼はフランスの市民権を選ばなかったといって自分を責め、税を納めなかったといって自分を責めた。その一生は罪の連続だった。その罪滅ぼしのために、彼には「死刑の執行」がつねに明日予定されているのだった。さらには街中のすべての物が彼に敵対的に思われ、街中のすべて者が廃物によって彼を苦しめるべく陰謀を画策しているのであった(彼はこれを「廃物政策」と呼んだ)。こうした死刑の観念や「廃物政策」が、その妄想的な外観にもかかわらず、「正常な」思惟の試みとしてミンコフスキーが評価するのは、それが(崩れつつある)生とその外部との関係を維持することに役立っているからであろう。死刑執行や憎悪に満ちた陰謀への加担という形ではあれ、自分をまだ待ち受けてくれる人々がいるということは何という「救い」(13)であるだろう。結局のところ、彼は自己を断罪していたのだから、「自己を断罪する者」としての彼は陰謀をめぐらす人々と連携していたのである。彼を処罰しようとする人々との連携は、生きている実感を与えてくれるとともに、不正を許さない彼の倫理的意識を維持するのに役立った。つまりそれは、彼が人間の存在としてまだ生きていることを可能にしていたのである。


  3. 作品の完結としての死

 私自身がハンダ-トやミンコフスキーの臨床例に接して初めてもった印象は、死の間際になりほとんどすべてのものを失いかけているときでもなお人間は自らの生について物語ろうとする欲求をけっして手放さないことだった。それが妄想というレッテルを貼られてしまう硬直した物語りであるということは二の次にすぎない。こうした妄想は、まるで生の全体が消え去ろうとして瓦礫ばかりになったときでも、なお(マルセルの言葉を使えば)構築の作業をし続ける精神の基底部分を直截的な形で私たちに提示しているかのように見えるのである。
 しかし、私のこの最初の印象は部分的に修正されるべきであるかもしれない。つまり、「死の間際になっても物語ろうとする欲求を手放さない」と言うよりも、「死の間際になったからこそこの物語りへの欲求が前面に現われた」と言うべきなのかもしれない。死の接近は、あらゆる人間にとって、生の全体にいまだ欠落部分があることを強く意識させる。生が本質的に語られる作品であるとしても、それがエンディングを欠いたままであるならば、それは作品として語ることはできないのだから、その欠落を何らかの仕方で埋めなければならない。ミンコフスキーのこの男性患者は、妄想を通してその欠落部分の補填を先取りすることによって、自らの生の物語りの終結を語ろうとしたのであろう。
 しかし、死は単なるエンディングではありえない。それは単に第九章に続く最終章といった空間的な隣接関係における最後という意味ではない。むしろ、それなしでは作品が完結し得ない(そして確定的意味をもち得ない)という意味で、死は作品として考えられた生を完結へともたらすものであり、生という作品を「最初から終わりまで」再構成しようとする最後の機会を提供するものなのであろう。ミンコフスキーの患者の例で言えば、その患者が至る所で見いだした「廃物政策」も、おそらくは、この患者によって妄想的に先取りされた死が彼の生を再構成した所産としてのナラティヴの断片だったに相違ないのである。

 マーク・フリーマンがトルストイの『イワン・イリイチの死』のうちに読みとったように、死の物語的な意義とは、生という作品に「物語りとしての完結性(narrative integrity)」を与えることにある(14)。死に直面して、多くの人は初めて知るのだ。生とは自らが構成しなければならない一つのナラティヴであることを。生とは、誕生と死によって区切られた時空に自らが分節を導入しなければならないものであることを。しかも多くの人は、自らの生を充たす区々たるエピソードを超えて、それらを「一つのナラティヴ」として統合し、語るに足る一つの全体として提示できないことに気づき、さらに悪いことには、そこに語るべきものが何もないことを見いだして、絶望的な思いに駆り立てられるのだ。無意味な生を引きずったまま死に突入するよりは、妄想的に自らに処罰を与える方がまだ救いがあるのである。ティモシーGの妄想は、文字通り自己の生命を救ったのであるし、ミンコフスキーの患者の妄想は、自己の一生を断罪することでまだ生を維持している自己の倫理的意識を救っていた。いずれも、死に直面した者が自己の生を一つのナラティヴとして生きることができる(語ることができる)ようにするための試みと言うことができるのではないだろうか。あるいはすでに使った言葉を繰り返すならば、その試みは一種のバランシングの行為であり、そこで使用される妄想は、生全体が無意味のまま沈んでいくのを回避するために、その対蹠物として置かれるものなのだろう。こうした妄想は、それ自体がバランシングの行為であった「思考」の究極のあり方なのである。
 最後に、『イワン・イリイチの死』に軽く触れておきたい。イリイチは、官僚として成功裡に終わりつつあった生において、一度たりとも死について意識することはなかった。死について意識しないということは、生の全体について見渡すことがなかったということである(イリイチの周囲の人間は皆そうだった)。生を語るに値するような一つの物語として考えることのないままに生きてきた、ということである。死の接近に急かされる形でイリイチは自己の生を回想してみるのだが、彼がそこに見いだしたのは、幸福だった幼年時代を除いては、「無意味でけがらわしい」(15)断片的な事実の集積だけであった。意味のない人生を送り、意味のない家庭を築き、意味のない仕事をしてきた挙句、憎悪しか抱くことのない家族に囲まれていま死を迎えようとしている。僅かな慰めは下男のゲラーシムだけというイリイチの寄る辺ない状況の描写が『イワン・イリイチの死』のほとんどを占めている。
 これは言ってみれば、トルストイの周りに張り巡らされた「廃物政策」だったのかもしれない。しかし、その延長線上に「処刑」が迫っているわけではなかった。もちろん、死が切迫していることは確実なこととしてイリイチには意識されているのだが、その死に対してトルストイは過大な意味づけを行ってはいない。むしろ、ひたすら恐ろしいものという一般的な意味づけがあるだけのように思われる。そしてそれにも増して恐ろしいのは、無意味な生を引きずったまま死に至ることだった。はたして、トルストイは、この恐るべき無意味を回避するために、(先ほど使った表現をまた使うならば)その「対蹠物」として何を置こうとしたのか。
 イワン・イリイチが死に到達するためには、一つの条件があった。それは、自分が「生き方を間違っていた」ことを認めることであり、イリイチは死の間際にその認識に到達する。「だれかが自分の手に接吻しているのを感じた」ときだった。それは息子だったのだが、「彼には息子がかわいそうになってきた」。また妻もやってきた。絶望的な表情で彼を見ていた。「彼女もかわいそうになってきた」。おそらく、もう家族という絆に縛られた関係になくなりつつあるこの2人に対して、イリイチは初めて人間的な感情を抱く。あらゆる関係の外側で、一人の人間が他の人間に対して抱く真の感情が彼の内に湧き出たのである。

「そのとき、彼には、自分の生活はほんとうではなかった、しかしそれはまだ訂正できる――こういうことが啓示されたのだった。『ほんとう』とは、いったい何か? そして、耳をすましてしずまりかえったのであった」(16)。

この瞬間はイリイチにとっては死の間際であったかもしれないが、おそらく生涯で一度きりの「思考」の、「世界からの引きこもり」の瞬間でもあったのだろう。その瞬間に、同時に二つのことが生じたようにトルストイは描いている。一つは「自分の生活はほんとうではなかった」という認識であった。しかしその認識と同時に、死に対する恐れは消え、死は希望に転化した。それは偽の人間関係から解放されたときに初めて生じる喜びの感情でもあった。死に対する恐れとは、あの無意味な生活に縛られている人々が作り出す幻影だということがイリイチには見て取れた。

「彼は、昔から慣れっこになっている死の恐怖をさがしてみたが、見つからなかった。死はどこだ? 死とはなんだ? どんな恐怖もなかった、死がなかったからである。
 死のかわりに光があった。
 「ああ、これだったのか!」不意に彼は声に出してこう言った。「何という喜びだ!」」(17)。

 このイリイチの最後の言葉の内に、パウロの有名な「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(『コリントの使徒への手紙 一』15:54~55)のヴァリエーションを見ないわけにはいかない。それはともかく、これまでの生の無意味さと死に対する恐怖が、「光」によって十二分に相殺されるという構図は、ここで「光」として捉えられたものが「自分がヒトラーの生まれ変わりであるという信念」や、明日に迫る「死刑の執行」というあの妄想のメタファーであることを理解するならば、もはや理解に困難であるはずはないだろう。
こうした理解の仕方は、パウロやトルストイにとって全く異質な基準を当てがうものでしかない。しかし、作品としての生という観点から見るならば、パウロやトルストイの死の捉え方とティモシーGやミンコフスキーの患者の妄想は、詰まるところ同じ営為に帰着すると見る他はない。つまりそれらは、生きるという営為に、そして少し補足をすれば、より良く生きるという営為に帰着するのである。


(1) W.H.Auden :Talking to myself, in Selected Poems, Vintage International(1989), p.297.
(2) Arendt,Hannah :The Life of the Mind, Harcourt, p.60~61.
(3) Ibid.,p.78.
(4)『存在の神秘』-マルセル著作集5、松浪信三郎、掛下栄一郎訳、p.161.
(5)同、p.162~163.
(6) 同、p.165.
(7) Arendt,Hannah :The Human Condition, The University of Chicago Press,p.192.
(8) Hundert, Edward M: The brain’s capacity to form delusions as an evolutionary strategy for survival. in Spitzer,Manfred et al.(ed): Phenomenology, Language & Schizophrenia, p.346~353.
(9) 同、p.347~8.
(10) 同、p.348.
(11) 同、p.352.
(12) E.ミンコフスキー:『生きられる時間-2』みすず書房 p.25.
(13) 同、p.29.
(14) Freeman,Mark: Death,Narrative Integrity and the Radical Challenge of Self-Understanding: a Reading of Tolstoy’s Death of Ivan Ilych, in Aging and Society,17,1997,p.373~398.
(15) トルストイ: イワン・イリイチの死、『トルストイ全集6 後期作品集上』(河出書房新社)、中村白葉訳、p.151.
(16) 同、p.157.
(17) 同、p.157~8.


アシェラとは何だったのか(1) [最近の論文]

アシェラとは何だったのか(1)――一神教成立によって放逐されたもの
                      


 20世紀後半の旧約聖書学は、古代のイスラエルの民の一神教的信仰形態の起源を尋ねるという形をとりながら、その元来の信仰形態がおよそ一神教的ではなかったことを証拠だてるという全く異質な方向にラディカル化していったように見える。そうした方向転換を促した最大の要因とも言えるのがアシェラにかかわると思われる考古学的発見であり、アシェラをめぐる論争であった、と言って良いと思われる。アシェラをめぐる論争は、その細部には未解決の部分を多く(あまりに多く)残しながらも、基本的な部分に関しては緩やかな合意が形成されたと言えるだろう。つまり、アシェラという(像が象徴する)女神は、『旧約聖書』の記述がそう思い込ませたように、元来一神教的であったイスラエルの宗教に外部から入り込んできた異教徒の女神なのではなく、恐らくはヤハウェの配偶神であった。ヤハウェもかつては一群の神々の集まり(エルを最高神とする神々の集団)の中の一神であったのだろう。しかし、イスラエルの民の意識においてエルとヤハウェはいつの間にか混淆(融合)し、かつてエルが占めていた座にヤハウェが就いてしまった。それに応じて、かつてはエルの配偶神だったアシェラもヤハウェの配偶神へと、いわば横滑りのように移行したのだろう。こうしたことは直接証明できることではないにせよ、クンティレト・アジュルドの碑文はそのように推測するように研究者たちを強く駆り立てたのである。
 このような旧約聖書学の動向を踏まえて、おらくはかつてのイスラエルの民の信仰生活に深く根ざしていた女神アシェラがたどった運命を少し跡づけてみたい。そして、そこからいかなる興味深い問題が浮上してくるのかを指摘することがこの論文の目的である。


1. 申命記的パースペクティヴ

 アシェラとは何か。申命記とは何か。これらについての辞書的な説明を下す代わりに、『旧約聖書』の中から典型的と思われる箇所を引き合いに出すことが、それらの事象を理解する最も簡便な方法であると思われる。まず典型的と思われる箇所を見ることにしよう。それは『出エジプト記』の34節で、主がモーセに語りかける箇所である(訳は新共同訳による。以下すべて同じ)。

 「主は言われた。「見よ、私は契約を結ぶ。わたしはあなたの民すべての前で驚くべき業を行う。それは全地のいかなる民にもいまだかつてなされたことのない業である。あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。私があなたと共にあって行うことは恐るべきものである。わたしが、今日命じることを守りなさい。見よ、私はあなたの前から、アモリ人、カナン人、ヘト人、ペリジ人、ヒビ人、エプス人を追い出す。よく注意して、あなたがこれから入って行く土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。それがあなたの間で罠とならないためである。あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる」(『出エジプト記』34:10~16)。

 まず考慮しておくべきことは、ここで語っている者がいかなるものであるかという点である。それは「主」、しかも自らを「熱情の神」と規定する「主」である。ただし注意しておきたいのは、新共同訳が「熱情」と訳している語(qna)の英訳は例外なく“jealous”となっているということである。しかも文脈的にも“jealous”という英単語が想起させる普通の意味を生かして、ここで主は自らを「嫉妬深い神」と規定していると言うべきではないだろうか。
 念のために、“qna”という語が使われている箇所をすべて見ておこう。それは、上で引用した箇所を除けば、『旧約聖書』の中でわずか5回しか登場していない。しかし使用頻度の少なさはその語の重要性を測る指標になるわけでは決してない。“qna”は『出エジプト記』の20節でかの「十戒」が語られる有名な箇所で使われているからである。それら5つの箇所を順に見ておこう。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父母の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(『出エジプト記』20:3~6)。
 
 「あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである」(『申命記』4:23~24)。

 『申命記』5:7~9。ここは『出エジプト記』の「十戒」と同じなので、引用は省略する。

 「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい」(『申命記』6:13~15)。


 以上で判るように、“qna”は「熱情の神(al qna)」という形でしか用いられていない。文脈から判断すると、以上はすべて偶像崇拝禁止の文脈であり、偶像という形の異教徒の神々(太陽神や冥界の神々)、「周辺諸国の神々」に走ろうとする者には容赦なく鉄槌を食らわそうとする神に対する属性として“qna”が用いられていることが判る。それに対する訳語として「嫉妬深い」という語が回避されたのは、思うに嫉妬というある意味で下劣な属性を事もあろうに神に対して用いることが憚られたということも考えられるし、上の引用で明らかなようにすべてを焼き尽くす「炎」という比喩に重きをおいたためでもあっただろう。しかし、あくまで「炎」は比喩にすぎず、その比喩の本体は他の神々との共存には我慢がならないというメンタリティーである。したがって、「熱情の神」という訳は、比喩と比喩されるべきものを(おそらくあえて意図的に)混同したことに由来し、「焼き尽くす火」という抽象的な意味に希薄化することによってその語に含まれる特殊な文脈を忘却させるリスクをもつことを考えるならば、やはり「嫉妬深い神」という訳語を選ぶほうが正しいように思う。したがって、以下では「嫉妬深い神」という訳語を使うことにしたい。

 「嫉妬深い神」は「わたしをおいてほかに神があってはならない」と命ずる。これは宗教的純粋性の要求であると同時に、あるいはそれ以上にイスラエル民族にとって異質なものをすべて排除し自民族固有の旗印のもとに集結させようとする自民族中心主義的な政治的イデオロギーの提唱でもあった。このようなナショナリスティックなイデオロギーは、先駆的な預言者たちによって準備されながら『列王記』、『出エジプト記』、『申命記』などに鮮明に表明されたが、それらを代表してもっとも律法的色彩の強い『申命記』の名をもってこのイデオロギーを呼ぶことが慣例になっている。たとえば、このようなイデオロギーに基づいて異民族の宗教に由来する偶像を破壊しそれに仕える人々を放逐する運動がたびたび行われたのだが、その中で徹底性において際立っていたヨシア王の改革が「申命記改革」と呼ばれているのが典型的な例である。

 「嫉妬深い神」のもとで語る宗教指導層にとって、他民族の神々やそれをシンボライズする偶像を祀るのは、「十戒」の最初の戒めに背くという意味で最も重大な罪ということになる。しかし、なぜそこまで他民族の神々に信を置くことを問題視するのかという(素朴な)疑問を抱く人も多いはずだ。そのことに対するアプリオリな理由は存在しないと思う。むしろ、「十戒」的な律法は、相次ぐ政治的混乱(それはやがて国家の消滅、バビロン捕囚、民族消滅の危機につながって行くのだが)という憂慮すべき結果が引き起こされてしまった時点から回顧的に見て、そうした事態を引き起こしてしまったのは他民族の神に走ったイスラエルの民の軽信の故だということを前提にしたうえで、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と戒めるのである。『旧約聖書』を最終的に完成させた者とっては、イスラエルの民の国家が消滅したということは所与の事実であったから、『旧約聖書』は消滅の物語りという意味合いを持っていた。したがって、それはまず最初に消滅の原因を語らなければならなかった。アダムとイヴが蛇に唆されて神の言いつけに背き木の実を食べることによって楽園から追われるという寓話から『旧約聖書』が始まるのは、聖書編纂者が国家消滅の最も遠い遠因を示唆したかったがためである。しかし同時に、国家消滅・民族四散からの解放の途も示唆されていた。聖書編纂者たちは、その途をモーセによるエジプト脱出という過去に投影したのである。もっともこの出来事は決して過去の出来事としてのみ描かれたわけではない。モーセは約束の地を前にして死ぬ。約束の地に戻るという大事業はまだ未完のままであったし、しかもその事業が果たされるには厳しい条件が課されていた。すべての国民が主との契約を厳密に守って暮らすような「祭司の王国」が成立しなければならないというのであるが(『出エジプト記』19:6)、この不可能とも見える要求こそが申命記的な理想であった。
 以上述べたような歴史観や律法上の理想が『旧約聖書』のバックボーンをなしていることは確かだが、しかしそこからそれらがイスラエル民族における唯一の考え方であったという結論が自ずと出てくるわけではないし、またそれがイスラエルの伝統の唯一正当な継承者であったということも直ちに帰結するわけではない。それは、イスラエルの変転する宗教的・政治的な諸党派の中の(確かに、有力ではあっただろうが)一派にすぎなかった。また特に、歴史に関わる記述においては、『出エジプト記』が典型的に示しているように、『旧約聖書』には「歴史の書き換え」に満ち溢れている。あるべき未来を過去に投影したり、未来の出来事から過去を解釈したりといった歴史に対する作為的な姿勢が全編に見られるために、申命記的な理念に関わる限りでの歴史叙述には特段の注意と用心が必要である。それは、自己の理想に合致しないものは容赦なく多民族のものの方に放擲しようとする。懐疑的な見方をとる研究者の中には、申命記的歴史観はかえって自民族の過去を一面的なものに歪曲してしまったという捉え方をする者もいる。おそらく「アシェラ」の運命もそのような観点から見られなければならないのである。
 「アシェラ」の方に視線を移す前に、もう一つ引用をしてみることにしよう。北イスラエル王国滅亡前後という文脈において、主の命令(申命記的理想)に対してかたくなに耳を傾けようとしない人々を弾劾するという意図が込められた箇所を見てみよう。
 
 「彼らは主の掟と、主が先祖たちと結ばれた契約と、彼らに与えられた定めを拒み、空しいものの後を追って自らも空しくなり、主が同じようにふるまってはならないと命じられたのに、その周囲の諸国の民に倣って歩んだ。彼らは自分たちの神、主の戒めをことごとく捨て、鋳像、二頭の子牛像を造り、アシェラの像を造り、天の万象にひれ伏し、バアルに仕えた。息子や娘に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、自らを売り渡して主のめに悪とされることを行い、主の怒りを招いた。主はイスラエルに対して激しく憤り、彼らを御前から退け、ただユダの部族しか残されなかった」(『列王記下』17:15~18)。

 ここでも唯一神であるヤハウェとの契約を破り、異教徒の神々に走ったことがイスラエルの破滅の原因であるという申命記的な因果論が展開されているわけだが、ひょっとしたら実際にあったのは対外的に協調的で融和的な態度で臨もうとする派と民族的純粋性を堅持しようとする派の対立があっただけなのかもしれない。そしてそのような対立は、どのような国でもそうであるように、リアル・ポリティクスにおいてその都度どちらかの方向に決まるものでしかありえない。しかしイスラエルの国内においていずれが政治的に勝利を収めたかということは重要なことではない。その双方を含むイスラエルの民族的統一そのものが、いずれは外敵によって消滅させられたのであるから。しかし政治的に消滅の憂き目にあったとしても、宗教的には申命記の思想が残ったのである。そしてその時、目立たないが未曽有のことが生じた。古代宗教においては通念とされていた地域や文化を超える横断性を意図的に断ち切る宗教思想が文書という形で残されたからである。異質な人間の交流の過程において交換され共有されるのは食べ物のような生活必需品ばかりではない。神々も交換の対象になるのだ(1)。そこには、文化や国の違いにも関わらず人間が人間として同一であることに対する信念があったはずだが、上に掲げた『出エジプト記』34節がいみじくも指摘したように、まさにそのような信念をこそ諸悪の根源として申命記的イデオロギーは捉え、その流入を阻止しようとしたのである。しかし、これはかなり非人間的な要請であったと言うのは言い過ぎになるだろうか。


 2. 再び見出された女神


 そのようなイデオロギーが撲滅の対象としたものは、先程引用した『列王記下』17節によると「鋳像、二頭の子牛像、アシェラの像、天の万象、バアル」である。その前後の文脈をみると、イスラエルの民は「主が先祖たちと結ばれた契約」を無視して、「周囲の諸国の民」に同調することによって、それらの神々に走ってしまったと読むように申命記の史家は誘導している。しかも周辺の諸国の民は「息子や娘に火の中を通らせ」るといった野蛮な行為や(幼児の供犠を指す)、「占いやまじない」といった非合理的な信仰にいまだすがっていることを嘆き悲しむのだ。
 だが、このような記述が正鵠を得ているとすれば、イスラエルの民の「先祖」が神と交わした契約にはそもそもの始めからそのような残忍な行為や不合理な信仰はなかったはずであるが、これは容易く反駁できる。「幼児を犠牲にする」という習俗を背景にしなければアブラハムとイサクのエピソードは意味をなさないだろうし、『出エジプト記』13節の「初子の奉献」の命令も全く中に浮いてしまう。『創世記』の族長やモーセは、しばしば呪術を思わせる小道具を手にしていた(蛇が巻きついている杖を手にもつモーセ)。
「仔牛像」はきわめて深刻な事態をしばしば引き起こした。イスラエル王国分裂の張本人であるヤロブアムは「金の小牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」」(『列王記上12:28』)。『出エジプト記』32節の「金の小牛」のエピソードにもほぼ同じ発言(こちらは、アロンの口から発せられたものだが)が見られる)。おそらく、『列王記下』17節には矛盾が深刻な形で露呈しているように思われる。一方で、「牛」とは太古からの宗教的儀式の中心にある存在であり、供犠とそれに続く饗宴に無くてはならないものであった。他方で、申命記の史家は古く非合理な要素を排除しようとして供犠や占いやまじないを排撃しようとする。それはマックス・ヴェーバーが読み取ろうとしたように「魔術からの解放」、あるいは「合理化」のプロセスの端緒であったかもしれないが、ここで肝心なのはそうした考え方が後発のものであるということだ。しかし、申命記の史家はこの合理化の態度を「先祖」と神との契約に由来するものとなし、伝統的な祭儀中心の宗教生活を、歴史から追放して空間的に「周辺諸国」に割り振ってしまった。だが、葛藤はイスラエルと周辺諸国の間にではなく、イスラエル国内に間違いなく存在した。そして「先祖が神と交わした契約」をごく単純な意味で歴史的に考えるならば、祭儀中心の宗教こそがそれに当たるのであり、後発の合理的な宗教観はむしろそれを革新するために遅まきながら現われたと考えなければならないのである。
 
 さて、「アシェラ」に関しても、以上のような観点から考えられなければならない。アシェラ(像)は、これまでの引用でもそうだったが、ほとんど決まってバアルとともに登場する。確かにともにウガリト神話に出てくる(女)神であるのだから、それ自体不当なこととは言えないのだが、しかしながら申命記の史家がアシェラをバアルとともに登場させたのは、それらがともに「周辺諸国」に由来することを強調することを狙ったことは明らかである。しかし、はたして「アシェラ」はイスラエル固有のものではなかったのだろうか。

 ところで、これまで「アシェラ」そのものについては何も述べてこなかった。実は、それがどのようなものであるかを『旧約聖書』はほとんど具体的に語ってはいない。むしろそれに関して「造る」(『列王記上14:15』)、「立てる」(『列王記上14:23』)などの動詞が用いられていて、「アシェラの彫像を造る」(『列王記下21:7』)などの言い回しから、それは木(ナツメヤシではないかという推測が一般的)を削って造られる細長い像であろう、という程度のことしか判明していない。アシェラ像の考古学的な発見も今のところないようである(木製ということで、発見は難しいと考えられている)。

アシェラ像に関する『旧約聖書』の記述のほとんどは申命記的な文脈でしか見出されないのだが、そこにおいてアシェラ像はもっぱら異教徒的な影響を示唆するものとしてしか語られないことは既に見た。しかし、アシェラという名前こそ見られないものの、『創世記』には祭壇を造りそこに木を植えるという行為が登場する。「アブラハムは、べエル・シェバに一本のきょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ」(『創世記』21:33)。
おそらくこの木はアシェラ像に関連があるのではないかという想定は以前からなされていた(2)。

 さらに木とアシェラとの結びつきは、ただ単にアシェラ像が木製の彫像であったということを超えた意味合いがあったのかもしれない。『エレミヤ書』17:2は、アシェラ像を「どの緑の木の下にも、高い丘、野の山の上にもある」と述べている。おそらくは、高い丘の木の下で行われた何らかの儀式が考えられていたのだろう。ホラデイによれば、この表現は『ホセア書』の4節に由来していると言う(3)。
 
「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。
 わが民は木に託宣をもとめ
 その枝に指示を受ける。
淫行の霊に惑わされ
神のもとを離れて淫行にふけり
山々の頂でいけにえをささげ
丘の上で香をたく。
樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ」。

 この箇所がアシェラ像を念頭に書かれたのかどうかについては決着がついていないし、そもそも決着がつくのかどうかも判らないが(J・デイはアシェラ像への示唆をここに見いだしているが(4)、オーリアンは全面的に否定している(5))、少なくとも非常に古いタイプの儀式が関係していることはまず間違いないことである。(おそらくは死と復活に関わる儀式であったに違いあるまい。興味深いことに、レスリー・ウィルソンは、こうしたアシェラ像に対する断片的な言及と、『創世記』(35:8)や『士師記』(4:5-6)に登場するデボラ(おそらく一種の女神のような存在だったに違いない。それは「なつめやしの木の下に座を定め」ていた)をつなぎ合わせ、そこに関係する雑多な要素(「ぶどう酒」、「泣き叫ぶ」、「木」)から補助線を引き、それらの補助線が交わる一点にディオニューソスの姿を見ている。少なくともディオニューソスのクレタ島における古形である蛇をかかげる女神をウィルソンは見ている。この想定には心をそそる何かがある。だが勘違いしないでいただきたい。ここから「アシェラ=ディオニューソス」という等式を引き出さそうなどと単純に考えてはならない。むしろ固有名という形で凝固したものの背後にどれほどの広がりをもつ意味的連関を指摘出来るかが真の問題なのである)。

 さて、以上のことは文献の枠内にとどまる限り推測の域を出るはずのない議論にしかならないわけだが、ある考古学的発見がそのような事態を一変させてしまった。クンティレット・アジュルド遺跡から発掘されたピトスという土器の壺に描かれた描画がそれであるが、その中でも特に「サマリアのヤハウェとそのアシェラにより私はあなたを祝福する」という文字が書き込まれた“pithos A”と呼ばれる描画が1970年代から多くの学者の解釈の対象となった。“pithos A”には大別して二つのシーンに分けられるが、“pithos A”及び[Scene.1]と [Scene.2]の拡大図を下に示しておこう([Scene.1]の上のボックスは書き込まれた文字を拡大したもの)(6)。

 
“pithos A”

pithosA.jpg




[Scene.1]


pithosA2.jpg



[Scene.2]


pithosA1.jpg




 この“pithos A”(とくにその[Scene.1])については、ⅰ)書き込まれた文字の解釈、ⅱ)描画の解釈、ⅲ)文字と描画の関係のそれぞれが問題となったが、ⅰ)については、若干の問題点がないではないにせよ、「サマリアのヤハウェとそのアシェラにより私はあなたを祝福する」と解して大過ないと思われる。そしてⅲ)についても、無関係と考える研究者もいないわけではないが、やはり何らかの関係を想定しようとする見解が多数派を占めていると考えて間違いないだろう。やはり、大きな問題となるのはⅱ)の描画の解釈なのである。
 本格的な解釈はギルラの論文あたりから始まったのだろう(7)。彼は、ここで言及されている「アシェラ」とは「聖域」ではなく(クンティレット・アジュルド遺跡の発掘者メッシェルは当初そのように想定した)女神またはそのシンボルであり、ヤハウェの配偶女神であると想定した上で、この描画の前景に描かれている二つの像はヤハウェとアシェラであると主張する。左側の像は牛のような特徴を備えているので、北イスラエル王国の伝統に従ってここでヤハウェは牛という形態で描かれていると推測する。
 次に現われた特筆すべき研究は、ベック女史の美術史的なアプローチである。彼女は、ギルラの想定に対して、前景に描かれた二つの像が「エジプトの小人の神々の一群に対する集合名詞であるベス神を表わしていることには疑いの余地は全くない」と述べた(8)。ベス神がここで描かれているというこの想定は説得力ある論拠とともに提示されたため、その後の解釈においてほぼ定説化したと言って良いだろう。ただし「ベス神」といっても、それは特定の神であるわけではなく、短足で歌と踊りが好きな魔除けの神という一般的特徴以外は多種多様である。だからベックの主張はギルラの解釈を決定的に排除するものではなかったと思われる。
 ディーヴァーは新たな観点からこの描画を解釈し、背景にいてリラを奏でている者こそこの描画を解釈するための鍵を握っているのであり、それは玉座についた女神であり、アシェラそのものであると主張した。文字においてアシェラが言及されていて、画像にもアシェラが現れていることは、「アシェラが、古代イスラエルのある集団でヤハウェの配偶女神として崇拝されていたことを強く示唆」するものだ、と彼は述べるのである(9)。
いるのかという疑問が残るし、聖書で言及されるアシェラ(像)に音楽的な要素が付きまとっていないことも、ディーヴァーの解釈を受け入れるのを躊躇させる一因となっている。
 おそらく同じような疑問が、ギルラの見解に沿った解釈に対しても提起できるだろう。つまり、前景の二つの像がそれぞれヤハウェとアシェラならば、一体リラを奏でているのは誰なのかという疑問が自ずと出てくるし、ヤハウェとアシェラがなぜベス神として描かれるのか説明されなければならない。もし描画の焦点がベス神であるならば、それが刻印された文字で言及されないのは不可解である。このような疑問を呈しながら、オーリアンは、描画と文字とはおそらく「たまたま隣り合っただけの関係しか持っていない」のではないかと推測した(10)。
 だが全く同じ論拠から、全く違うことを引き出すこともできるだろう。「ヤハウェとアシェラがなぜベス神として描かれるのか」という問いを立てるとき、オーリアンの念頭には、ある独立した神格としての「ベス神」というイメージが浮かんでいたに違いない。だがここで念頭に浮かべるべきはそれと違ったイメージでなければならない。エジプトの文化圏から神がカナーンの地にやって来たとき、その神を奉ずる人々とそれを迎い入れる人々の間に、後のイスラエルのように排他的空気が存在していなかったならば、つまり、ブルケルトの言葉を用いるならば(註(1)参照)「最も重要な神々は最終的には同一でなければならない」という信念が共有されていたならば、一方のベス神と他方のヤハウェ(とアシェラ)が同一のものとして描かれたとしても不思議ではないし、そのことに対して「なぜ」と問うこと自体がむしろ可笑しなことである、とも言える。ゼーヴィットがベス神に関して次のように言っているのは非常に的確なことだと思われる。

 「エジプトで、ベスの像は、ベス、アハ、ハイエト、ソプドゥ、テテテヌを含む多くの異なった神々を表象するのに用いられたし、様々な時代で、アモンやホルスと、ときにはバアルやレシェフとも結びつけられた。この可塑性は、エジプトにおけるベスの像がベス神を表わす偶像として自動的に考えられることはできなかったということを示している。・・・ベスの像がエジプトの北の隣接部族から借用されたとき、それは神性を表わす偶像として知覚されたことは明らかだが、その偶像にはほとんどわずかしか負荷されたものはなく、その土地その土地の伝統にしたがって意味を満たし扱うことができるような偶像だった」(11)。

 つまり、あの描画に描かれたものがかりにベス神であったとしても、ベス神そのものには定まった意味が付与されていたわけではなく、その土地の伝統に従って意味づけられたのである。したがって、あの描画に描かれているのは「歌と踊りが好きなベス神」(たぶん対になっている)とリラ奏者であろう。しかしそれと同時に、その対をなす神は、迎い入れる側にとっては、ヤハウェとそのアシェラであるということも可能であるし、むしろそうした柔軟な相互解釈の方が常態であったはずなのだ。後の「金の小牛」をめぐる大殺戮からは全く信じられないことであるが、この描画におけるヤハウェは歌と踊りに包まれていた。もっとも、下に示すように、その痕跡が『旧約聖書』に全く見出されないというわけではないのだが。
 
 「新しい歌を主に向かって歌え。・・・
  琴に合わせてほめ歌え
  琴に合わせて、楽の音に合わせて」(『詩篇』98:1,5)。


 さて、[Scene.2]であるが、この中央を占める木製の彫像(?)はアシェラであろうと想定する研究者は多い。この描画には、ライオン、雌ライオン、二頭のノヤギ(木にかじりついているような姿で描かれている)、馬、イノシシなどの動物が描かれている。これは、やはりある種のヴァージョンのベス神の意味が投影されていると考えるべきだろう。ゼーヴィットによれば、ベス神はキプロスに入り込むと「動物の支配者」と見なされるようになったという(12)。
 動物を従える女神というモチーフはおそらく旧石器時代にまで遡るものだが(よく知られたものとして「地母神(グレートマザー)」もこの範疇に入る)、それはバッハオーフェン/ユングが想定したこととは違い、女性原理とはおそらく無関係である。むしろそれは共同体の原理とでも言うべきもので、男性を表わす動物の犠牲の上に築きあげられ存続させられる共同体の大義を女性によって象徴したものである。そのような象徴は戦闘がありうるところには必ず見出されるものであり、カナーン地方もご多分にもれず動物を踏みつけにする残忍な女神像には事欠かなかった。一つだけ掲げておこう(13)。

F1000002.JPG



 この画像の中央の女神は右手に植物(たぶんハスかエジプト・スイレン)、左手に蛇をもち、それぞれエジプトの神であるミンとレシェプに差し出しているかのようである(14)。この画像は、クンティレット・アジュルドの描画よりも数百年古いものなので、まだエジプトの様式をそのまま引きずっているところがあるが、この女神の両脇にいる二柱の神が従順な動物へと変化し、女神そのものが更にカナーンの地で独特の様式化を遂げるとき、[Scene.2]の中央に示された彫像に変貌したのだと想定することは可能なのではないかと思われる。おそらく先程のベス神と同じように、女神そのものには内在的な意味はないのかもしれない。しかし、女神が持っていたものもそれ自体意味のないものだったと想定するわけにはいかない。おそらく、ハスも蛇も死後の再生ないしは不死性の象徴だった。それを所有しているが故に女神は尊いのであり、その不死性を願ってこそ動物(に見立てられた男たち)は自らの命を捧げるのである(イシスとオシリスの関係が明瞭に示しているように)。
 
 [Scene.2]の中央に描かれているのは、ハスまたはスイレンと蛇が融合し様式化されたものではなかったのか。エジプトからカナーンの地に流入したものは神々だけではなかったし、イスラエルの内面にもっと深く関わるものでエジプト起源のものは少なからずある。おそらくモーセと彼が駆使したと思われる魔術もエジプト起源であったと思われるが、ここにもやはり蛇が登場するのである。「炎の蛇」による被害者が続出した折にモーセが主に祈りを捧げた場面である。

 「主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれたものがそれを見上げれば、命を得る」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(『民数記』21:8-9)。
 
 レスリー・ウィルソンは、この『民数記』のこの記述はアシェラを指し示していると結論づけたが(15)、そのような結論にどのような道筋に沿って到達したのかを次に跡づけてみることにしたい。(つづく)


 註
(1)ブルケルトが『古代秘儀』で指摘したように、古代の秘儀宗教は、その言葉が示唆することとは正反対に、きわめてオープンな人と人との交流を前提にしていた。古代では、神々が多くの異名(神名)をもつことは当たり前なことであったが、その理由をブルケルトは次のように説明した。「こうしたすべてのことを神学的に正当化するものは、神々は嫉妬から自由である―有名なプラトンの命題が伝えているように「なぜなら神々の合唱隊には妬みというものがないのだから」(『パイドロス』247a)―という確信の内に与えられているのみならず、最も重要な神々は最終的には同一でなければならない、という想定のうちにも与えられている」(Walter Burkert:Antike Mysterien,p.21)。
(2)W.L.Reed:The Asherah in the Old Testament,1949.
(3)W.Holladay:On Every High Hill and Under Every Green Tree.Vetus Testamentum11(1961),p.170-76.
(4)J.Day: A Case of Inner Scriptural Interpretation, in Journal of Theological Studies 31(1980),p309-19.
(5) S.M.Olyan: Asherah and the Cult of Yahweh in Israel, p.19.
(6) Z.Zvit:The Religions of Ancient Israel,p.382.
(7) M.Gilula:To Yahweh Shomron and to his Asherah,Shnaton,3(1978/1979)129-37.
(8) P.Beck:The Drawings from Horvat Teiman(Kuntillet Ajrud),Tel Aviv 9(1982),p.29.
(9) W.Dever:Asherah,Consort of Yahweh? New Evidence from Kuntillet Ajrud, Bulletin of the American Schools of Oriental Research 255(1984),p.30.
(10) Olyan,op.cit.,p.30.
(11) Z.Zvit,op.cit.,,p.388.
(12) Ibid.
(13) I.Cornelius: The Many Faces of the Goddess,Plates5.4.
(14) Cornelius,op.cit.,p.49.
(15) L.Wilson:The Serpent Symbol in the Ancient Near East,p.215.

カノンとしての共通感覚 [最近の論文]

カノンとしての共通感覚 ― カントの共通感覚論について

 「カノン」という語は元来「長さを測る棒」、「ものさし」を意味していた。それが、やがて抽象的な「尺度」という意味で用いられるようになり、エピクテートスやエピクロスにおいて、事の真偽や善悪さらには美醜を判断する際の「基準」や「規範」を意味する語として定着したようである。
 ストア派において、哲学は、こうした「基準」や「規範」を探求する学問と見なされた。エピクロスは、その体系的な著作の導入部を、‘Canonics’と呼んだ(「基準学」とでも訳すべきだろうか)。‘Canonics’は、あらゆる分野で遵守されるべき根本的な原理を扱うものであった。こうした意味での「カノン」、あるいは‘Canonics’という概念は、ストア派からフランシス・ベーコンへ、ベーコンからカントにまで受け継がれていったのだが、その系譜をここで詳しくたどることは出来ない。そのかわりに、カントを少しだけ詳しく取り上げることにしたい。

1.カントの‘Canonics’ 

 カントにおいて、「カノン」とは「認識能力を正しく使用するためのアプリオリな原則(a priori principle)の総体」である(*1)。「アプリオリな原則」とは、「普遍妥当性を持った原則」であると、ここでは簡単に考えておこう。カントのとってのもっとも根本的な問いは、「アプリオリな認識はいかにして可能となるのか」という問いであった。それは、ある意味で、「カノン」なるものはいかにして可能となるのか、とも言いかえることができるだろう。
 カントは、「アプリオリな認識はいかにして可能か」という問いかけを、(科学的な)真理の領域、道徳の領域、美学の領域において、追求した。その成果が、『純粋理性批判』(1781)、『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)である。これら三つの「批判」書全体を、ここでは、カントの‘Canonics’と呼ぶことにする。
 さて、カントの‘Canonics’の特徴は何か。なによりも重要なのは、「近代科学」の存在である。近代科学の「法則性」、「普遍妥当性」こそが、カントにとっての「アプリオリな認識」の、あるいは「カノン」の典型なのである。『純粋理性批判』が、「いかにしてアプリオリな認識は可能なのか」と問うとき、その問いは「科学的な認識はいかにして可能なのか」と同義なのである。
 カントは、同じ問題設定を、道徳の領域にも適用する。『実践理性批判』の基調をなすのは、「法則への尊敬の感情」である。カントによれば、われわれの行為が、たんなる主観的なポリシー(「格率」と呼ばれる)に従ってなされるかぎり、道徳的とは呼ばれ得ない。その主観的なポリシーが誰に対しても妥当するように望むべし。自分の主観的ポリシーが普遍的な法則となるように行為すべし。これが有名な「定言命法(categorical imperative)」であり、そこにカントは道徳の唯一の原則を求めた。「われわれの行為の格率が普遍的自然法則となることを意志することができるのでなければならない、ということが、行為の道徳的判定一般の基準である」(*2)。
 そして意外なことに、カントは、こうした法則性、普遍妥当性への要求を、美学の領域にも求めた。カントによれば、美に関する判断、つまり「趣味判断」は、普遍的妥当性を持つとされるのであり、その可能性の条件を探ることが『判断力批判』の課題の一つであった。カントは「アプリオリな認識はいかにして可能か」という問いを、美学の領域でも、手放してはいない(『判断力批判』§36)。
 
2.カントの‘Canonics’における『判断力批判』の特異性

 三つの批判書の問題設定を極度に単純化して、つぎのように特徴づけてみよう(*4)。
 ・『純粋理性批判』は、「いかにしてアプリオリな認識は可能か」という問いかけをなし   て、それを「悟性の立法(法則定立の能力)」に基づかしめた。
 ・『実践理性批判』は、「いかにしてアプリオリな道徳原理は可能か」という問いかけをなして、それを「理性の立法(法則定立の能力)」に基づかしめた。
 ・『判断力批判』は、「いかにしてアプリオリな美的判断は可能か」という問いかけをなして、それを最終的に「共通感覚(sensus communis)」に基づかしめた。
 見られる通り、三つの批判書の間には、平衡性が成り立っている。カントの‘Canonics’は、単一の原則、単一の方針によって支配されているように見える(*3)。
 だが、『判断力批判』には、その方針の単一性を撹乱する異質な要因が潜んでいる、ということは以前から度々指摘されてきた。一言で言えば、『判断力批判』は、明らかにカントの‘Canonics’の中で異質なのである。この点は今でも非常にしばしば議論の的になっている。しかし、何がそれほど問題とされるのか。
 しかしその点を考えるためにも、『判断力批判』の内容に少し立ち入らなければならない。素朴な疑問を並べてみよう。まず、美に関する判断が普遍性を持つという前提が、非常に理解しづらい。それには目をつぶるとして、その普遍性を保証するものが「共通感覚」であるとされるのも、違和感を引き起こす。そもそも「共通感覚」とは何か。それはいわゆる常識(common sense)と同じものであるのか。もしそうならば、それは、「悟性」や「理性」の能力に比べて、いささか怪しげな能力ではないのか。それは、何がしかの普遍性を保証するに足る能力だろうか…等々。これらの疑問をまず解消してみたい。
 
3.趣味判断の普遍的妥当性

 美に関する判断、それは、『判断力批判』では、「趣味判断」と呼ばれる。カントによれば、「趣味判断」は普遍妥当的でなければならない。この点を説明しよう。
 「趣味判断」は、ある意味で、私の好み、私の快・不快の感情がなければ、成り立たない。何かを快いと感じる(何かが気に入る)経験が先行していなければ、何かを美しいと感じることはない。だから、私にとっての快・不快の感情が、「私にとっての美」を決定するのだと言う人がいるかもしれないが、カントはそう考えない。というより、そもそも「私にとっての美」というものを認めないのである。
 「…もし自分の趣味を自慢している誰かが、この対象(われわれが見ている建物、ある人が着ている衣服、われわれが聞いている協奏曲、批評を求めて提出された詩)が私にとって美しいと言うことで、自分の正当性を示そうと思うならば、これは笑うべきことであろう。なぜなら、あるものがたんに彼の気に入る場合、かれはそのものを美しいと呼んではならないからである」(*4)
「あるものは私の気に入る」は、たんに私の好み、私の私的な感情の表明であるのに対して、「あるものは美しい」という判断を下すとき、私は、その判断が私以外のすべての人にも妥当することを求めている。「美」という言葉の使用には、こうした「普遍的同意」への要求が含まれている(*5)。この意味で、「私にとっての美」なるものはありえない。美にかんする判断、趣味判断は、普遍的妥当性をもたなければならない。
 ただし、カントが言っていることと言っていないを区別しなければならない。カントは、「趣味判断」の普遍妥当性が、客観的に、つまり一つの事実として成り立っている、ということを主張しているわけではない。美に普遍性があるとしても、それは「主観的普遍性」であるにすぎない。私が「美しい」という語を使用して判断を下すとき、私は、自分の判断に他の誰もが賛同してくれることを期待するだけである。しかし、誰もが賛同するということは、当然ながら、「一つの理念にすぎない」のである。
  他方で、カントはこの理念を、経験的な事実によって裏付けようと試みている。理念とは、あくまで、事実から引き出されうる理念であるからである。わかりやすい個所を引用してみよう。
 「…美しいものは、社会においてのみ、われわれの関心をひく。…未開の島に置き去りにされた人間は、自分だけのために、自分の小屋や自分自身を飾ったりはしないであろうし、自分を飾り立てるために花を探したり、ましてや花を栽培したりはしないであろう。たんに人間であるだけではなく、自分の流儀にしたがって一個の洗練された人間でありたいということは、社会のうちでのみ人間に思いつくことである。なぜなら、そのような洗練された人間として判定されるのは、自分の快を他の人々に伝達するすることを好み、それに巧みであり、ある対象に対する適意(=好み)を他の人々と共通に感じることが出来ない場合には、その対象がその人を満足させないといった、そうした人間だからである。人間は誰でも、普遍的な伝達可能性(universal communicability)に対する顧慮を、あたかも人間性そのものによって定められている根源的な契約から生じたものであるかのように、あらゆる人に期待し、要求する」(*6)。       
4.美の公共性と共通感覚 

 カントが強調したいことは、美に関する判断、つまり「趣味判断」は公共的性格を有する、ということである。「趣味判断」は、たしかに、私的な(private)意味での、快・不快の感情がなくては可能ではないだろう。しかし、その私的な感情は、他のあらゆる人に伝達され、あらゆる人と共有されうると判断されないかぎり、価値があるとは見なされない。「普遍的な伝達可能性に対する配慮」とは、そういうことである。
 カントは趣味判断を「伝達」という観点から捉えているが、そこには、「趣味は説明できない」という古くからある考え方に反対したいという意向が込められている。「趣味は説明できない」という諺の原型は、‘de gustibus non disputandum est’、つまり「趣味について議論することはできない」である。だが、趣味が誰に対しても伝達でき、誰とも共有しうることを私が期待するかぎり、趣味についての議論はありうるし、また、なければならない。
 ところで趣味についての議論が可能であるためには、私は自分の趣味を他者に伝達できるのでなければならない。自分の私的な感情が他者に受け入れてもらえるように配慮しなければならない。その前に他者の存在を顧慮しなければならない。私的な感情を他者と共有して、公的なものにしていこうとする配慮、それは「人間性そのものによって定められている根源的な契約」のようなものである。それによって初めて人間が人間となる、つまり社会的存在となるこうした「根源的契約」の在り処を、カントは「共通感覚(sensus communis)」に求める。それは、一般に「常識」と呼ばれているものとは違う。それは、「自分の判断を、他の人々の、現実的なというよりはむしろたんに可能的な判断と照らし合わせ、われわれ自身の判定にたまたま付きまとうさまざまな制限を捨象することにより、他のあらゆる人の立場に自分を置き移す」能力のことなのである(*7)。
  趣味判断がなんらかの普遍性を有するのは、このような「共通感覚」がわれわれの人間性に属しているからである。それがカントの主張の骨子である。

5.カノンをどこに求めるべきか ――― 共通感覚論の哲学的意義

 カントの共通感覚論は、今日でも色褪せてはいない。それどころではない。カントの共通感覚論は、感情なるものを「伝達可能性」という観点から捉えようとする試みである、と言うことができる。最近になってようやく、心理学者は、感情の社会的性格に注目し始めるようになった。James Averillによれば、感情とは社会的に構成されたものであり、Brian Parkinsonによれば、感情とは一種のコミュニケイションとして捉えるべきであるとされる。かれらは、こうした考え方をまったく新しい理論として提唱しているのだが、それはすこし時代錯誤的なものにわたしには映る。だが、この点に深入りすることはせずに、カントの‘Canonics’の話題に戻ろう。
 すでに示唆したように、カントの『判断力批判』は、カントの‘Canonics’全体の中では明らかに異質なものと見なされている。なにがそれほど異質なのか。それは、実に単純なことである。つまり、この『判断力批判』では、他者の存在が前提されており、突出した意味での「自己」が登場しない、ということである。むしろ「伝達可能性」が第一次的なのである。ハンナ・アレントの言葉を借りれば、「他者と世界を共有すること(sharing-the-world-with-others)」が第一次的なのである(*8)。
 しかし、それは、カントの‘Canonics’全体において、むしろ異質な光景なのである。あの「定言命法」を取り上げてみよう。それは、「汝の行為の格率が普遍的法則となるように行為せよ」と命ずる。ここには、非人称的な法則と、それに対する「私の」理性的な尊敬があるだけである。ここに伝達があるとしても、それは私と私自身の間に交わされる無言の伝達でしかない。カントのいう「カノン」、「アプリオリな原則」とは、この無言の伝達が法則へと昇華されたものであろう。それは、先ほどの引用文で言及された「未開の島に置き去りにされた人間」の独白でしかないだろう。そこに法則はあるかもしれないが、道徳は存在しないのではないだろうか。しかしそれが、カントの‘Canonics’の原風景なのである。
 だがこのことがどれほどの意味を持つというのか、と疑念を持つ人もいるだろう。ここで最終的に問題となるのは、「カノン」なるものの根拠をどこに求めるか、という点に関わっているのである。
 先ほどの引用文(*6)に戻ろう。「美しいもの」に対する関心は、社会においてのみ存在する、とカントは考えた。だが、それは「美しいもの」に限ったことではないだろう。科学的な真理といえども、科学者の共同体内部でのみ成り立つ規範の一種にすぎないということを、20世紀の科学哲学は教えた。言いかえれば、真理とは「普遍的伝達可能性」の一形式だ、ということである。同じことは、道徳原則にも当てはまるはずである。
 したがって、カントの問題設定を引き継ぎながら、「真理のカノン」、「道徳のカノン」を今日書くとしたら、そのとき手引きとすべきなのは、『純粋理性批判』でも『実践理性批判』でもなく、むしろ『判断力批判』の「共通感覚論」であろう。それが、ハンナ・アレントやリチャード・ローティーの見解である。「普遍的伝達可能性にたえず顧慮し、その根底にあるあの「根源的契約」が普遍的法則になるように行為せよ」、それが新たな「定言命法」だとアレントは言った(*9)。理性ではなく「対話しか存在しないのだ」とローティーは言った(*10)。カント自身(そしてカント学者の大半)は断乎としてこうした見解を拒絶するだろう.。カントの‘Canonics’が根底から書き換えられなければならなくなるからである。しかし、私としては、書き換えを迫るこうした読み方の方に、健全なものを感じるのである。


1. カント:『純粋理性批判』(B824)。
Kant, Critique of Pure Reason (trans.by Norman Kemp Smith .p.630. “ I understand by a canon the sum-total of the a priori principles of the correct employment of certain faculties of knowledge“).
2.『人倫の形而上学の基礎づけ』第2章。
Kant, Groundwork of the Metaphysics of Morals (trans.H.J.Paton,p.91, “We must be able to will that a maxim of our action should become a universal law ―― this is the general canon for all moral judgement of action”).
3.『判断力批判』Ⅲ。
Kant, Critique of Judgement (trans. J. C. Meredith “Concepts of nature contain the ground of all theoretical cognition a priori and rest, as we saw, upon the legislative authority of understanding. The concept of freedom contains the ground of all sensuously unconditioned practical precepts a priori, and rests upon that of reason…. But there is still further in the family of our higher cognitive faculties a middle term between understanding and reason. This is judgement, of which we may reasonably presume by analogy that it may likewise contain, if not a special authority to prescribe laws, still a principle peculiar to itself upon which laws are sought…”).
4 同書 §7。
(“It would, on the contrary, be ridiculous if any one who plumed himself on his taste
were to think of justifying himself by saying: "This object (the building we see, the dress that person has on, the concert we hear, the poem submitted to our criticism) is beautiful for me." For if it merely pleases him, he must not call it beautiful”).
5. 同書 §25。
(“…the claim of the judgement is none the less one to universal agreement; the judgements: "that man is beautiful" and "He is tall", do not  purport to speak only for the judging subject, but, like theoretical judgements, they demand the assent of everyone”).
6. 同書 §41.
(“The empirical interest in the beautiful exists only in society…. With no one to take into account but himself, a man abandoned on a desert island would not adorn either himself or his hut, nor would he look for flowers, and still less plant them, with the object of providing himself with personal adornments. Only in society does it occur to him to be not merely a man, but a man refined after the manner of his kind (the beginning of civilization)-for that is the estimate formed of one who has the bent and turn for communicating his pleasure to others, and who is not quite satisfied with an object unless his feeling of delight in it can be shared in communion with others. Further, a regard to universal communicability is a thing which every one expects and requires from every one else, just as if it were part of an original compact dictated by humanity itself”).
7. 同書 §40
(“…by the name sensus communis is to be understood the idea of a public sense, i.e., a critical faculty which in its reflective act takes account (a priori) of the mode of representation of everyone else, in order, as it were, to weigh its judgement with the collective reason of mankind, and thereby avoid the illusion arising from subjective and personal conditions which could readily be taken for objective, an illusion that would exert a prejudicial influence upon its judgement. This is accomplished by weighing the judgement, not so much with actual, as rather with the merely possible, judgements of
others, and by putting ourselves in the position of everyone else, as the result of a mere abstraction from the limitations which contingently affect our own estimate.”)
8. Hannah Arendt, Between Past and Present, p.221.
9. Hannah Arendt, Lectures on Kant’s Political Philosophy, p.75.
10. Richard Rorty, Objectivity, Relativism, and Truth, p.32.

『技術への問い』における「危機について [最近の論文]

『技術への問い』における「危機」について

[1] 以下では、ハイデガーの『技術への問い』を考察する。この作品は、短編ながら、暗示的な語り方が目立ち、論証の飛躍も目立つ。そもそも論証というものがあるのかも不明なほどである。したがって短いスペースで、この作品の全体像を伝えることは不可能であるし、その概略を述べることすら困難である。むしろ以下ではあえて主題を一点に絞ることにする。『技術への問い』の主題は、「技術とは何か」である。しかし『技術への問い』は、そのような問いが読み手に期待させる回答を一切与えない。そのかわりにハイデガーは、“Gestell”という語を創り出し、ついで「危機」という、それ自体「技術」とは何の関連もない語を、「(現代)技術の本質」を表わすものとして持ち出してくる。これでは、およそまともな論証の道筋とは映らないだろうし、この作品はそもそも何を「問いかけ」ているのか、それすら捉えがたいものとなる。この素朴な疑問が、以下の論述の出発点であり、一体この作品が語る「危機」とはいかなる実質と奥行きを持つものか、それに答えることが以下の課題である。

[2] たとえば「現代技術」がはらむ「危機」といった言い回しは、20世紀になって頻繁に使われてきたし、これからも際限もなく繰り返されるであろう。しかしそのような常識化した意味内容を、『技術への問い』が語る「危機」はほとんど持っていないように思われる。人間にとっての脅威は、「致命的な作用を及ぼしうる機械や装置類」からやって来るわけではない(1)。では何が脅威だというのか。『技術への問い』が語る「危機」とは、ある意味で非常に古色蒼然としたものに映るし、より悪いことに、まるで見当はずれのものにさえ見えるだろう。「危機」という言葉が『技術への問い』において初めて登場するとき、それは次のような文脈においてだった(2)。つまり、あらゆるものが原因‐結果の関連で現われるところでは、神でさえもその聖なるものをすべて失いうる。それは巨大な「製作者」、つまり「創造主」として現れるだろう。「神は、因果性の光のもとで、一つの原因に、始動因に成りさがることもある。そして神学内部では、哲学者の神、つまり、あらわなるものと隠されているものを作為の因果性(Kausalitat des Machens)にしたがって規定する者にさえなるだろう…」。同様に、自然が計算可能な諸力の作用連関として把握する自然観は、たしかに「正しい(richtig)事実認定」を可能にするが、しかしそれは、真なるもの(das Wahre)がかえって退いてしまうという危機(Gefahr)を放置する。「より根源的で」「より始原的な真理」を経験することが人間に拒まれていること、これは数あるうちの一つの危機なのではなく、まさに「危機そのもの(die Gefahr)」だと言うのである。
さて、この個所は幾つかの疑問をただちに誘発する。
1) ここには事実のレヴェルで成り立つ「正しさ(Richtigkeit)」と、「真理(Wahrheit)」との区別についてのハイデガーなりの見解が前提されていることはもちろんだが、『技術への問い』においては真理概念についての主題化はほとんどなされていないのだから、この作品に視野を限定する限り、この「危機」についての言明はほとんど理解しがたいように思われる。『技術への問い』は、あくまで技術を主題にしているのだから、肝心な個所に差しかかって、なぜ論述が「真理」概念へと屈折してゆくのか。これは論点のすり替えではないか。
2) (近世以前の)神学的体系においても、(近世以降の)自然科学の体系においても、いずれも「真理」を欠落しているという意味での「危機」はあった。その当否はともかく、そのことと、「技術」への「問い」という文脈において登場する「危機」が一体何の関係があるのか。これまた論点のすり替えではないか。
3) 神学の体系と自然科学の体系を、「同様に」という接続詞でいとも簡単に並列・同等視するような扱いはナンセンスではないか。いかなる歴史観によってそれを正当化できようか。
4) そもそも「(現代)技術の本質」を求めるはずだった論述が、「危機」という語に行き着くのは、これまた論点のすり替え、あるいは理不尽な飛躍と言うべきものではないか。
おそらく疑問点はまだいくらでも列挙できるだろうが、これだけでもすでにこの試論の範囲を超え出ている。4)の疑問点が、『技術への問い』の道筋全体に関連しているので、この点を明確にすることを先決問題とする。1)はもっとも重要であろうが、この試論で扱いきれる論点ではないので、以下では主題的に立ち入ることはできない。しかし最終的にはこの論点に帰着すべきであるのだから、最後に立ち戻ることになるであろう。以下の論述は、1)の論点に至るための道筋を提示するものという意味で受けとめていただきたい。

[3] さて、4)の疑問点に答えるためには、『技術への問い』において「技術(の本質)」がいかに規定されているか、まずその点に立ち入らなければならない。なるべく簡潔に整理してみたい。
α) 『技術への問い』は、まず、技術の本質が、古代ギリシャにおいて、道具的なものにあるのでもなく、因果論的な関連にあるのでもないこと、むしろプラトンの「ポイエーシス」の規定が示唆しているように(あるものが「存在しないものから存在するものに移行する原因をなすもの」)、蔽われ・隠されているものを明るみにもたらすこととして考えられていた、ということを議論の大前提として確認する(3)。「技術」とは元来、「明るみにもたらすこと(ポイエーシス)」の一様態である。アリストテレス的に言えば、その「明るみにもたらす」原理を自己自身のうちに持っているものが「自然(ピュシス)」であり、自己自身のうちに持たずその外側に持っているものが「技術(テクネー)」である。したがって「自然(ピュシス)」そのものも「ポイエーシス」であり、それどころか「最高の意味でのポイエーシス」である、と言われる。
β) ハイデガーはまた、「テクネー」という語が幅広い文脈において用いられていた事実に注意を喚起している。それは、手仕事のみならず、今日でいう「芸術(ポイエーシス)」に対する名称でもあった。そればかりかプラトンの時代において「最も広い意味での認識(エピステーメー)を表わす名前」でもあった(4)。「テクネー(技術)」、「ポイエーシス(芸術)」、「エピステーメー(認識)」、これら今日では各々異なった領域を表わすために用いられている言葉が、未分化のまま、ある種の行為連関を共に名指していた時期があった。つまり、「テクネー」という語は、今日的に言えば、「芸術」と「学問的認識」という二つの側面を包含しており、その限りで二義的であった。しかしそう言いうるのは、あくまで今日的な立場に立ってのことであって、元来そのような領域区分はなかった(少なくとも境界線は流動的であった)。それら三者を共通して貫いている核心的特徴は、すでに触れたように、「存在しないものを存在へともたらすこと(Hervorbringen=産出すること)」であり、「(あるものを)蔽われている状態から明るみにもたらすこと」である。ハイデガーは後者に対して、”Entbergen”という語を当てている。「蔽われている状態(Verborgenheit)を引き剥がして(Ent)、あるものを明るみのもとにもたらすこと」という意味合いを強調するために、ハイデガーがひねり出した造語である(きわめて訳すことが難しく、しかも肝心なのは訳語ではなく、その意味であるのだから、「エントベルゲン」と音訳する)。それは、欠性的αをもつギリシャ語の「アレーテイア(真理)」の内実を動詞的に表現するときに用いられるのであるが、その点については既知のこととして話を進めることにする。ハイデガーは「技術」の元来の意味合いを次のように単純化する。「技術とは、「エントベルゲン」の一つのあり方である。それは…アレーテイアが、真理が生起する領域において、存続するのである」(5)。
γ) このような「技術」の元来の意味を顧慮した規定に対して、次のような(当然予想される)反論が加えられる。
「技術の本質領域のこのような規定に対して、次のような反論をする人がいるだろう。それはたしかにギリシャ的思考には当てはまるだろうし、せいぜい良くて手工業的技術には適合するだろうが、現代の動力機械技術には当てはまらない。そしてまさに後者の技術だけが、われわれを不安にさせるものであり、われわれを駆り立てて「技術」へと問いかけるようにさせるものである。現代の技術は、近代の精密な自然科学に基づいているがゆえに、それ以前のあらゆる技術とは比較にならぬほど異なったものである、と人は言うだろう」(6)。
この反論を境にして、『技術への問い』は「現代の技術」に目を転じていく。現代の技術も、やはり「真理が生起する領域で存続する」のであり、その限りで「エントベルゲン」の一つのあり方ではある。しかしそれは、もはやその元来の意味、「ポイエーシス」としての産出という意味を持たない。現代の技術において支配的な「エントベルゲン」、つまり真理を開示するあり方は、自然に対してエネルギーを提供せよという要求を突きつける。それは、自然を、そこに潜む自然力を利用するという目的のために定立する(stellen)。この定立的なあり方は、自然のみならず、人間を含めたあらゆる存在者を例外なく巻き込み、その存在様態を規定する。このような現代技術の本質を、ハイデガーは、「定立」作用の多様なあり方を総称する意味を込めて、”Gestell”と名づける(これも翻訳不能の言葉である。前綴りの”Ge-”は、それが冠する語の内容を総体的に表現する働きを持つ。やはり「ゲシュテル」と音訳するだけにとどめたい)。
δ) 以上は表面的な整理にすぎないが、いまの文脈にとってはこの程度で十分である。ここで流れを一度断ち切って振り返ってみよう。以上の内容を率直に受け取るならば、大別して二つの「技術」があることになる。自然科学に立脚した「現代の技術」と「それ以前の技術(テクネー)」があることになる。実際、一方では原初的な「ポイエーシス」としての「テクネー」があり、他方には「ゲシュテル」としての「現代技術」がそれに対立しそれを隠蔽するという二元的な構図にしたがって、『技術への問い』はその論述を進めている。だがそれは多分に常識的な考え方に妥協した書き方のように思われる。γ)で引用した「反論」において「現代技術」の特異性を強調する文の主語はすべて、不定人称代名詞の「ひと(Man)」である。それ以降の論述は、このような「ひと」の言い分を認めて、「現代の技術」の特徴を把握するならば、という仮定に基づいた論述であるように思われる。たとえば、風車と風力発電装置とはまったくその性格を異にしているし、ライン河畔に現在立つ水力発電所は、昔から両岸を結びつけている古い木の橋と何の共通点も持たない。その点については誰の目にも明らかである。だがこうした明瞭すぎる対照からは、まったくありきたりな、あるいはもっと悪いことに、幻滅させる結論しか引き出されないだろう。今問題にしている文脈において、ハイデガーは古い技術をプリミティヴな手仕事というまったく狭い意味に限定しているように見える。しかし昔ながらの手仕事と破壊的作用を秘める機械文明の利器を対比させ、一方を賞揚あるいは非難することが問題ではないはずであるし(もしそうであるならば、生態系に配慮する技術の復権といった主張がなされていいはずであるが、そのような主張は見当たらない)、ハイデガー自身が考える元来の「テクネー」も、そのような限定された意味合いではない。したがって新旧の技術を対比させながら、現代の技術の本質を”Gestell”と呼ぶとき、ハイデガーは元来の「テクネー」と「現代技術」の区別を意図的に狭めている。あるいは常識的な考え方に妥協した観点で論述を進めているように見える。
ε) このことは、次のようにも言い表すことができる。先ほどの「反論」によれば、「現代の技術は、近代の精密な自然科学に基づいているがゆえに、それ以前のあらゆる技術とは比較にならぬほど異なったものである」。すでに指摘したように、古代の「テクネー」は「エピステーメー(学問的認識)」という側面と重なり合うものであるから、上の「反論」の部分は、近代の「自然科学」は古代の「エピステーメー」とは比較にならぬほど異質である、ということに等しい。したがって、その両者の間に比較を絶する断絶が成り立っているときに限って、あの「反論」は妥当するだろう。しかしそのような断絶がはたしてあったと言えるのだろうか。少なくともハイデガーはそのようなことを何も言ってはいない。ハイデガー自身は、論証を進める上での前提という以上の意味合いで、あの「反論」の妥当性を認めているわけではないのである。
したがって次のように言える。たしかに『技術への問い』は、二つの「技術」のあり方を区別しているような書き方をしているが、その区別自体が非常に曖昧である。つまり「技術」という主題概念がすこぶる曖昧なのである。その曖昧さを低減させるためには、「技術」-「科学」、「古代」-「近代」といった人目につく判別基準をどう評価するか、あるいはハイデガー自身がどのように評価しているか、という点に対する見通しを持たなくてはならない。
[3] 議論の焦点をしばらくの間「近代自然科学」に絞り込んでみよう。近代の自然科学および技術についてのハイデガーの考え方を知るうえで、『技術への問い』は、まったく暗示的な仕方ではあるが、手がかりとなるヒントをいくつか提供している。一番目につくのは、「科学」と「技術」の歴史的な関連についてどのような評価を下すべきか、という論点をめぐる発言である。
常識的な歴史把握によると、近代自然科学は17世紀に始まり(いわゆる「科学革命」)、現代の動力機械技術は18世紀の後半になってやっと始まる(いわゆる「産業革命」)。このような時間差は、往々にして、現代的な意味での「技術」は、「自然科学」を実際的に応用できるようになって本格的に推進された、という仕方で受け取られている。つまり、機械技術とは「応用された自然科学」なのだ、という受け取り方である。しかしハイデガーは、この(「歴史的に見て正しい」)受け取り方を「人目を欺く仮象」だと言う(7)。つまりそのように受け取ると、一方に純粋に客観性を追求する自然科学があり、他方にそれを事後的に人間の必要にあわせて応用・変形した「技術」がある、というイメージが生まれる。だがそれによって、近代の自然科学そのものの技術的性格が見逃されてしまう、とハイデガーは言いたいのである。自然を計算可能な力の連関として定立すること(”stellen”)それ自体が「(近代)技術の本質」(”Gestell”)を切り開いた、と言いたいのである。そしてその「ゲシュテル」としての「技術」のあり方が「危機」なのだ、と言いたいのである。
ここですぐ浮かんでくる疑問点を二つだけ指摘したい。
1) なぜこのように「技術」を拡大解釈するのか。なぜ「科学」と「技術」の歴史的関連をあえて転倒するのか。かりにこのことが、たんに「科学」と「技術」という名称を置き換えただけの気まぐれでないとするならば、何かきちんとした理由があるのか。
2) かりにその点についての理由があるとしても、そこから「危機」という概念を導き出すことは不可能であると思われる。ここで、「科学」あるいは「技術」についてのまともな論証は放棄され、いきなり予言者風の宣託に文章のトーンが変わってしまっている、と言うべきではないだろうか。

[5] 後者の疑問に対する自然な(文脈的に推定される)答えは、次のようなものであろう。「ゲシュテル」から「危機」にいたる文脈において、二度にわたってハイゼンベルクに言及されていることから判るように、この部分はハイゼンベルクの見解を踏まえて書かれたものであり、二度にわたる言及は、ハイゼンベルクの作品を参照して言い足りない部分を補足せよという要求である。したがって理不尽な飛躍のような印象を与える部分は、その文脈上の欠落を補うことで、ある程度正されるであろうから、ここでハイゼンベルクの見解に立ち入ってみなければならない。
ハイゼンベルクの『今日の物理学における自然像』は、ハイデガーが『技術への問い』を構想する上で大きな刺激を提供した。両者の共通性は、たとえば次のような点で見てとれる。前節で見たように、一方で客観性を純粋に追求する自然科学と、他方でそれを応用するだけの技術という割り振り方を「人目を欺く仮象」だとハイデガーは断じたが、他の歴史家ならばいざ知らず、ハイゼンベルクならばその見解を、賛意を持って受け入れたであろう。それは、たんに科学と技術は密接に結びついており単純に分断することはできないという理由ばかりではなく、そもそも自然科学そのものが純粋に客観性を追求するものとしてはもはや考えられない(そしてそもそもそのように考えられるべきではなかった)というのがハイゼンベルクの見解だったからである。ハイデガーは、ハイゼンベルクの視点に立って、その見解を自然科学の到達した避け難い一つの帰結として見ることによって、近代自然科学そのものを(したがって現代の技術を)より包括的な文脈に組み込もうとしているように思われる。もちろんこう言ったからといって、『技術への問い』はハイゼンベルクの二番煎じだと言っているわけではないし、両者の接点はごくわずかしかないだろう。そして両者が交差したまさにその地点で、ハイデガーは別の道に向かうのであるから、両者は単にすれ違ったにすぎない、と言うべきかもしれない。しかしいまはすこし、その交差する地点に焦点を合わせてみよう。その地点を両者は「危機」という言葉で名指している。その内実を端的に言い表すものとしては、ハイデガーも引用しているハイゼンベルクの言葉以上に適切なものはないだろう。ハイゼンベルクによれば、歴史上かつてなかったことが現実になっている。つまり、「人間がこの地上で直面するものがあるとすれば、それはせいぜい人間自身だけである」というのである(8)。

[6] この結論に至るために、ハイゼンベルクは二つの相関する状況の描写を先立てている。まず彼自身の専門である「自然科学」の状況と、その前提でもありその帰結でもある「技術」についての状況である。まず前者から述べよう。
α) ハイゼンベルクは、ある世界像の崩壊について語っている。つまり、19世紀の唯物論のあまりに単純な世界像がいかにして崩れていったのか、そのプロセスを簡潔に語っている。その世界像によれは、不変の存在者としての原子が究極の実在を構成しており、その相互的配列と運動によって感性界の多様な現象が産み出される、とされる(無論、数学的定式化の精密さという点を度外視すれば、古代から存在していた考え方ではある)。この考え方は、電気力学の発展により、物質ではなく「力の場」が主導的概念となった後でも、放射能の発見以降原子ではなく素粒子が物質の究極的な構成要素としてみなされるようになった後でも、基本的には維持された。上述の世界像の基本的枠組みを不変に保つような拡大解釈が可能であったからである。しかしその後、素粒子には、「原子」に帰されていた客観的独立性が期待できないことが判明した。素粒子のあり方について了解しようとするとき、われわれが素粒子についての情報を得る際の観測のプロセスを原理的に無視できないことが判明したからである。したがって、量子力学において数学的に定式化される法則は、素粒子「そのもの」ではなく、素粒子についてのわれわれの認識を扱っているということを、一つの原理として受け入れる他はない。したがって素粒子の客観的実在性という考え方は消え去ったが、それは、曖昧模糊とした表象のうちに消え去ったのではなく、数学的定式化の透明な明晰さのうちに消え去ったのである。その定式は、素粒子の振る舞いではなく、その振る舞いについてのわれわれの認識を示すばかりだからである。したがって原子物理学者は、「自分の学問が、人間が自然に対して取り組んできた無限の活動の一環にすぎず、自然「そのもの」について語ることは決してできない」ということに折り合いをつけなければならない、というのである(9)。
β) さて、「技術」は「自然科学」とつねに相補う仕方で進展してきたのだから(技術的な装置が科学の前提となる手段を提供し、その科学が技術の進展にとっての前提をなすという具合に)、自然科学の傾向はすべて技術のうちに反映される。19世紀の中葉までは、古い手仕事と類比的に理解することが可能だった技術も、やはり電気工学の発展とともに、その性格を決定的に変えることになる。技術の目指す方向性は、次第に自然の中の見慣れたものの取り扱いという意味合いから逸れて、経験的世界からは接近することができない自然力の利用という意味合いに変貌して行く。それ以降、経験的世界は、このような自然力の利用という観点から眺められ、そのための手段を提供するものという意味においてしか受け取られなくなる(ハイデガーが「ゲシュテル」の具体例として使う”bestellen”,”herausfordern”という動詞の意味は、このような自然力の利用という観点から存在するものを見る・扱う、ということに尽きるだろう)。
自然科学と現代技術は鏡像のように対応しているが、前者は自然の認識の拡大という目標に向かうのに対して、後者は人間の物質的力の拡大という方向に進む。ここでハイゼンベルクは生物学的な比喩を用いている(11)。物質的な力の拡大のために不可視の自然力を利用して作り上げられる技術的産物の組織は、カタツムリにとっての殻あるいはクモにとってのクモの巣のように、有機体としての人間に不可欠なものとして帰属するようになる。それは有機体内部の構造そのものとなる。そしてこの有機体は、他の有機体が自己の生存の可能を保証するために環境を改変していくように、それ自身の内部にある構造に環境を適合させて、その構造を環境に転化してゆくのであるが、このプロセスは、意図的な計画の産物というよりも、無意識的な生物学的過程に近く、人間による意識的制御の利かない次元に属しているというのである。
ハイゼンベルクが生物学的比喩に訴えたのは,漠たる直観からであろう(少なくともその理由を明示していない)。それは、科学技術は、人間の存在のある特定の部分,つまり生物種としての人間の存続と繁栄という部分に対してのみ選択的に反応し、そして反作用的にその部分によってのみ衝き動かされていく、という直観である。この科学技術の根底に作用している事態を初めて明瞭に言い表したのは、多分オルテガ・イ・カゼットであろう。文明が進歩すればするほどなぜ人間は、反文明的な野蛮人(オルテガは「大衆」と呼んでいる)に退行していくのかという問題意識の結実が『大衆の反逆』であった。また、ハイゼンベルクの直観に敏感に反応した一人として、ハンナ・アレントの名も挙げておきたい。アレントは、ハイゼンベルクの直観を、生物学的進化のプロセスとして、あるいは生物学的突然変異のプロセスとして受け取った。つまり、「進化」とは、「ダーウィン以降人間が自分の祖先であると想像している動物種に進んで」なろうとしている進化のことであり、また「突然変異」とは、現代のモータリゼーションの結果「人間の肉体が徐々に鋼鉄製の殻で覆われ始める」というプロセスである(10)。この後方への「進化」であり鋼鉄製のカタツムリへの「変異」でもあるプロセスを、アレントは「労働する動物の勝利」という形でまとめているが、その真意はオルテガの「野蛮人の勝利」に等しい。
γ) いずれにせよ、科学技術が、生物としての人間のプリミティヴな部分にのみ反応し、それによって無意識的に衝き動かされているという事態を、ハイゼンベルクはその比喩によって示唆しているだけであり、そこに力点を置いているわけではない。彼の力点はその先にある。われわれは科学技術によって武装した生物学的構造を絶えず環境に転化している。こうして「われわれは、人間によって完全に創りかえられた世界に住んでいるのだから、われわれは、いたるところで、日常生活の電化製品に関わっていようといまいと、機械で加工された食料を食べていようといまいと、人間によって造りかえられた風光の中を散策していようといまいと、再三、人間によって呼び出された構造に出くわすのであって、われわれはいわばつねにわれわれ自身にしか出会わないのである」(12)。
この事態は、ハイゼンベルクによると、すでに自然科学において顕在化したことの鈍い反映であり、その遅まきながらの現実化であるにすぎない。すでに触れたように、自然科学がその視線を超微細なものに集中させてゆき、素粒子レヴェルにまで降り立ったとき、客観的実在性の担い手として考えられたものは消え失せてしまう。物質の究極の構成要素「そのもの」について語ることはできず、それについてのわれわれの認識しか対象にできない。このことをハイゼンベルクは次のように言い表している。「自然科学においても、探求の対象は、もはや自然そのものではなく、人間の問題設定にさらされた自然(die der menschlichen Fragestellung ausgesetzte Natur)なのであり、その限りで人間はここでもまた、自己自身にのみ出会っているのである」(13)。
δ) このことをハイゼンベルクは、学問的に次のように解説している。理論とは、それ自体首尾一貫した概念と法則の体系のことであるが、それらは、その根底にある問題設定が想定する特定の経験領域にしか適用できない。その根底の問題設定を固定的に考えて経験領域を一定に保つならば、その問題設定内で提起されるあらゆる問いに対して、その名に値する理論は、普遍妥当性を持つ解答を提出できるはずである。そのような理論は(たとえばニュートン力学がそうであったように)、その問題設定が想定する領域内部では、宇宙のいたるところで妥当し、何らの変更も改良も受けつけない。だがこのことは、その理論の概念なり法則が、新たな経験領域にも普遍妥当性をもって適用できることを意味しない。実際、「電気」という新たな領域の登場はニュートン力学に対してそのような限界を突きつけたのであり、それに応じて新たな領域の出現に対処する理論体系が構築されなければならなかった。だからといってニュートン的体系の普遍妥当性が損なわれたというわけではないだろう。それは、「それが想定する経験領域の内部においては」という限定された意味において、依然として普遍妥当性を持っている。そもそも学問における普遍妥当性とは、ただそのような限定された意味においてしか、つまり、理論の根底をなす「問題設定」が想定する領域においてしか意味を持たないのである。ちなみに言えば、このような見解は一部の論理学者(とくにヒルベルト以降主流となった論理学のタイプに従事する者)にとっては当時すでに常識となっていた。かれらはこの点を特に問題視する必要を何ら感じなかったであろう。それは、論理学者にとって、理論が扱う領域の実在性に関わる問題について悩む必要がないという気楽さも作用していたためであろう。
論理学者とは違い、ハイゼンベルクは、理論が客観的実在をもはや語ることができなくなってしまったという事態を、「危機」として捉える。つねにいたるところで人間にしか出会わない人間を、彼は、鋼鉄で頑丈に出来ているために、コンパスの磁針がその鋼鉄に反応して、もはや北を指し示すことがない船の船長に喩えている(14)。無論このような船はどこにも行き着くことが出来ない。どう対処すべきか。ハイゼンベルクの回答は、自然科学に対して与えた回答と同じである。すでに彼は、「自然「そのもの」について語ることは決してできないということに折り合いをつけなければならない」と語っていた。船長の場合も同様で、いかなる点で危機が成り立っているかを認識することが先決で、その上でいかなる仕方の「折り合いの付け方」があるのかを求めればいい。危機が成り立つのは、コンパスがもはや地球の磁力に反応しないということを船長が知らない限りで成り立つのであり、船長が危機を危機として認識するようになれば、危機は半ば克服されたものと見なしていいだろう。何らかの目的地に達しようという意欲を持つ限り、船の方向を決める手段(新たなコンパス、星の位置等)を見つけるだろうからである。以上でハイゼンベルクから離れて『技術への問い』に戻ることにしたい。

[7] ハイゼンベルクによると、こうして自然科学と現代技術は別の方途をたどりながら、同じ「危機」的状況を招来するに至った。その原因として、「もはや自然そのものではなく、人間の問題設定にさらされた自然(die der menschlichen Fragestellung ausgesetzte Natur)」に対してのみ選択的に働く科学および技術のあり方が指摘された。この「問題設定」、言いかえれば「問いの定立(Frage-stellung)」の意味合いは広く取ってかまわないだろう。問いの定立は、理論的な場面であっても、実践的なものであっても等しく行われるからである。素粒子の振る舞いを定式化する場合であれ、発電所の効率的運用のための条件を考える場合であれ、自然にわれわれの「問いの定立」を適合させるのではなく、われわれの「問いの定立」の条件下のもとに自然を組み込み、「問いの定立」を構成するパラメーターの一項として見るという姿勢は共通している。このような問いの定立がいや増す加速度をもって累積すれば、生のままの自然が消え失せ、至るところで「人間は、自己自身(及び自己の問題設定によって定立されたもの)にのみ出会っている」という状況が現出するのは早晩避け難い。この「問いの定立」を総称して”Gestell”と呼び、それがもたらす状況を「危機」と名指すならば、『技術への問い』の一見突拍子もないと思われた構成が、ハイゼンベルクの立論をかなり忠実に反映していること(その限りでそれほど突拍子もないものではないこと)が判るであろう。そして多分、ハイゼンベルクの見通し、つまり「危機が危機として認識されるようになれば、危機は半ば克服されたものと見なしていい」という見通しにも、ハイデガーは同意するように思われる。

[8] しかし肝心なことは、その「危機」の内実と歴史的奥行きについての認識の程度である。ハイデガーは、ハイゼンベルクの描き出す「危機」の内実をそのまま受け入れているわけではない。それは二つの点から言える。
α) 「人間は、つねに自己自身にのみ出会っている」。この地上には人間以外存在しないかのように、また「この地上の主人」であるかのように振る舞う。それによって、あらゆるものが人間の作為(Gemachte)であるかのようなみせかけが広がる。「このみせかけは、これ以上はない「人目を欺く仮象」を生み出す。その仮象によれば、人間はいたるところで自己自身にしか出会っていないように見える。ハイゼンベルクはまったく正当にも、今日の人間にとって現実がそのように描かれざるをえないことを指摘した。しかし実は、人間は今日、まさにどこにおいてももはや自己自身に、つまり自己の本質に出会ってはいないのである」(15)。
これは、ハイゼンベルクの見解を否定したものではない。その見解は「まったく正当」であると言われているのだから、ハイゼンベルクの現実描写に狂いがあると言っているわけではない。それは、それが定めた射程内部においてはまったく正しい。19世紀後半からの自然科学および技術の進展が招来した事態の核心を描くという限定された射程内ではまったく正しい。しかし射程を変えてみれば、ちょうどハイゼンベルクが理論の妥当性の限界について述べたことと同じことがここでも当てはまる。人間はつねに自己自身にのみ出会っている。ただしその「自己自身」とは、すでに鋭敏な思想家達が見逃さなかったように、あの「祖先の種に退化しつつある人間という奇妙な生き物」であるかもしれない。そこには人間の本質を欠落した群れがいるだけかもしれない。ハイデガーもある個所で、(現代の)人間について、動物の本来の性格を喪失した「技術化された動物への転落」という観点から語っている(16)。その限りで人間はどこにおいても自己の本質に出会うことはない、と言うべきではないだろうか。
β) ハイゼンベルクとハイデガーは、同じ状況を目にしている。しかし、ハイデガーがその状況をまったく異なった観点から見ていることは、ハイデガーの「危機」の捉え方から明らかである。[2]ですでに触れたように、「危機」という語が『技術への問い』で初めて登場するとき、そこで語られる「危機」は、古色蒼然たる神学的内容であり、古代から哲学者が愛好してきた(あるいは太古の昔から人々が愛好してきた)表象である。「現代」とは何の関係もないように見える。このことは、もしそれを不整合として解釈し去るのでないならば、次のように考えるしかない。つまり、ハイゼンベルクの語る「危機」は、現代において初めて顕在化するようになったにせよ、その原因は現代に特有のものとして描かれるべきではないし、この「危機」を到達点とする歴史の全体を総体的に捉えなければならない、と考えるしかないのである。

[9] [4]において、「近代の自然科学そのものの技術的性格」に言及した。近代自然科学は17世紀に始まり、現代の動力機械技術は18世紀の後半になってやっと始まるとする常識的な歴史把握は、ハイデガーによれば、「人目を欺く仮象」である。現代の技術の本質はすでに、近代の自然科学の誕生とともに胚胎していた、つまり、「自然についての近代の物理学的理論は….現代技術の本質を開拓した」(17)、と考えなければならないことになる。なぜそうなのか。実はまだこの点についてはあまり進展を見ていないのである。ハイゼンベルクの見解は、現代における科学と技術の相互連関およびその危機的な帰結についての示唆を与えてくれはしたが、それは歴史的な見通しを与えてはいない。したがって、ここでもう少し歴史的な観点からこの問題に立ち入ってみたい。
「自然についての近代の物理学的理論は現代技術の本質を開拓した」。もしそうならば、物理学的理論において「自然」と「技術」の範疇上の区別は消えてしまうように思われる。そして、まさにこのことが近代初頭に起こったのだ、とハイデガーは言いたいのだろうか。『技術への問い』はこの点について詳しく語ってはいないので、いま問題となっている点について参考になる見解を見ておこう。 近代初頭のいわゆる「科学革命」の性格を、「技術」と「自然」との関連という観点から執拗に追求してきた科学史家に、フリッツ・クラフトがいる。彼は、たとえば「てこの原理」がいかに導出されたかという具体例に基づいて、古代(アリストテレスおよびアルキメデス)と近代(ガリレイ)の比較を試みる(18)。その結果、問題を数学的に処理するという意味での理論的な能力の格差はまったく見られない(したがってよく持ち出される「自然の数学化」ということだけでは近代の決定的新しさを構成しない)ことを明らかにする。それにもかかわらず、なぜ古代はアルキメデスの到達した理論的なレヴェルを超えることなく終わったのに対して、ガリレイの力学がその後の自然科学の急激な発展の礎となりえたのか。それに対するクラフトの答えは、力学(Mechanik)とそれが学問において占める位置についての捉え方がまったく変わったからだ、というものであった。
力学(Mechanik)という語は、ギリシャ語の‘μηχανικη τεχνη’に由来するが、その内容はまったく別物である。古代ギリシャにおいて、それは、てこやネジ、滑車装置等によって、人力だけでは出来ないことを成し遂げる技術のあり方を記述し基礎づける数学上の一学科だった。建築術、てこに関する技術、大砲術、灌漑・排水装置に関わる術、天体観測装置の作成技術等を含み、それらすべてに関して重心や平衡を算定することを必須の課題とした。要点は、それが自然の物体を扱う理論ではなく、人為的なものについての理論であった、ということである。アリストテレスによれば、それは、「自然学」とは違って、自然に反する運動(いわゆる「強制運動」)に関わり、いわば策略によって自然を出し抜く技術であった(‘μηχανη’の元来の意味は「策略(のための手段)」である(19))。それに対して自然の物体の本性およびその運動を記述し基礎づけるという課題は、「自然学」に帰された。自然の物体は、その本性に固有の「場」が定められており、外的な撹乱要因(人為的なあるいは強制された運動)が加えられない限り、その「場」を目指して運動する。たとえば、重い物体にとって、直線的に地表を目指して運動することがその「本性」であるように。このように運動の原理は自然の事物に内在していると考えられているため、また、その事物の種的な性格に依存しているものと考えられていため、(少なくとも月下界においては)統一的な運動の原理というものはありえず、それは自然の事物の種的多様性を反映して、無限に多様でありうる。したがって、アリストテレスによれば、自然の運動を数学的な単一の手段によって記述することは不可能なのであった。数学的な記述、およびそれに基づく法則化は、人為的に引き起こされた運動に対してだけ、つまり、人為的な道具によって引き起こされ、直線と円に還元される人為的な運動に対してだけ可能であった。しかしそれはもはや「自然学」ではなく、‘μηχανικη τεχνη’、つまり「(複合的道具に関わる)技術」の課題なのである。
このように「自然」と「人為」との乗り越えがたい区別が根底にあったために、すでにアルキメデスにおいてガリレイに決して劣らないほどの理論的高みに達していたにもかかわらず、古代ギリシャは近代的な意味での「自然科学」を生み出すに至らなかったし、また生み出すことはけっして出来なかった。しかしそれは何か能力の欠如といったこととは何の関係もなかった。「人為」に関する学問の成果を「自然」に適用すること自体が、カテゴリー・ミステークと見なされたからである。さて、ルネッサンス期以降古代の文献が再発見・再評価されるなか、当然アリストテレス・アルキメデスの‘μηχανικη τεχνη’の著作も精力的な研究の対象となった。ガリレイ自身もそれらを範として受容したが、ただしその際あの根底にあった「自然」と「人為」の区別はもはや支持しがたいものと映った。‘μηχανικη τεχνη’、ガリレイにとっての『レ・メカニケ』は、もはや自然を欺いたり「自然界ではできないことをかすめとろうとする」意図は持っていないし、むしろそのような考え方を「大きな虚偽」と断ずることから始まる。機械を用いても仕事が減るわけではないし、より少ない力で大きな物を移動させることが出来るようになるわけでもないという考え方(後の「仕事の原理」))を説明する個所でガリレイはこう書いている。「もし、小さな力で大きな抵抗を(もつ物体を)、(作用者が物体そのものの)運動と等しい速度で移動できるようなことがあるとすれば、われわれは、自然のおきてを乗り越えたと言うことができよう。だがわれわれは、そのようなことは、これまで想像されたどのような機械によっても、あるいはこれから想像されうるどのような機械によっても、実行不可能であることを、絶対的に確かめるであろう」(20)。
ここで断言されているように、ガリレイにとって機械の作用は、自然を欺くものでも反自然的な運動でもなく、たしかに人為的ではあるが「自然のおきて」に合致したものになっている。つまり肝心なのは、古代ギリシャに厳然としてあった、‘μηχανικη τεχνη’と「自然学」との障壁はすでにガリレオにおいて消え失せてしまっている、ということである。このような「改釈」により自然の運動が人為的な運動に同一視される(ほどなくケプラーがそれを徹底化する)ことになるに及んで、人為的な運動に対してだけ可能だとされた数学的な接近方法が、自然に対して適応可能になる道が開かれ、また、自然を人為的な条件下において通常では得られない自然の特性を引き出す「実験」という手法が「自然科学」に参入することが可能となったのである。
[10] 以上の説明から、ハイデガーの「自然についての近代の物理学的理論は現代技術の本質を開拓した」という言葉、およびそこに『技術への問い』が込めている文脈的な意味合いに、少なからぬ示唆が与えられたと言っていいだろう。近代の自然科学は、古来からの「自然学」を、その内部から突き破ってその原理を刷新したというよりも、「自然学」が語る内容をまったく別の観点から、つまり、もともと「自然学」とは何の関連もなかった‘μηχανικη τεχνη’の観点から解釈した所産である。したがってそれは、刷新あるいは革新ではなく、もともとあった「(複合的道具)に関する技術」の可能性を全面的に解き放ち、それを他のあらゆる領域に押し広げる可能性を切り開いたのである。そこから、「現代技術」が具体的形姿をとって出現するには、原理上の問題はもはやなく、たんに時間の問題があっただけだろう。
したがって近代初頭における自然科学の出現は一見歴史上の大きな転回点のように見えるが、それは背後により大きな連続性があることを打ち消すものではない。この点に付随して述べておきたいことが二点ある。
α) 自然と人為との厳格な区別の遵守とその区別の消滅、それが、クラフトが古代と近代初頭の範例を比較することによって際立たせた対照的構図である。このような変化は何に起因するのか。クラフトの答えは、先例のないものではなかった(21)。つまりクラフトは、その変化の「最も重要な前提」をなすものとして、「自然とその中の人間、および被造物全体の創造主に対する位置づけに関するキリスト教的把握」を指摘する。「人為的なもの(das Kunstliche)には、御業に満ちた(kunstvoll)被造物としての自然に対する原理的異質性が認められなかった。自然、「コスモス」は、キリスト教徒にとって、異教徒的古代とは違って、人間を超える神性をもったものとしてではもはやなく、人間と原理的に同種のもの、人間に対して従属的ですらある被造物であった…..」(22)。
β) 現代の技術の本質を切り開いたのが近代自然科学であり、近代自然科学の源泉は、‘μηχανικη τεχνη’にまで溯り、その可能性が全面的に顕在化するうえでの最大の刺激となったのがキリスト教的世界観の浸透であったという歴史的系譜、それはハイデガーが「存在史」と呼んだ独特の歴史に対する見通しの骨格部分をなすものと合致するものである。その部分は、『哲学の寄与』において、「作為性(Machenschaft)」と呼ばれていたが、それはハイデガーが意識していたか否かはともかく、註(19)で注意を喚起したように、‘μηχανικη τεχνη’の実質とその帰結をともに含むように構想されていた。ハイデガーによれば、アリストテレスの「自然(ピュシス)」の規定は「テクネー」から出発して成し遂げられた自然の一解釈にすぎず、重点はすでに「作為可能なもの」に移ってしまっていた。この事態を、「ピュシス」がすでに無力化してはいるが、まだ「作為性」が全面的に現れることはない段階として捉えながら、『哲学への寄与』はつぎのように続ける。
「作為性は恒常的現前性――その規定は、原初ギリシャの思考において、エネルゲイアのうちに最高度の鋭さに達する ――のうちに秘匿されたままにとどまる。中世の現実態の概念は、存在者性のについての解釈の原初ギリシャ的本質をすでに蔽い隠している。そのことと関連するが、作為性がより明瞭に前面に出てくるようになり、ユダヤ・キリスト教の創造の思想とそれに対応する神についての表象が入り込むことによって、「存在者(ens)」は「被造物(ens creatum)」になる。創造の観念についての壮大な解釈が断念されるようになっても、存在者が(結果として)生み出されたものであるという考え方は本質的なものとして残る。原因‐結果の連関が支配的なものとなる(自己原因としての神)。これは、ピュシスから本質的に遠ざかった結果であり、同時に、近世の思考において作為性が存在者性の本質として登場することへの橋渡しなのである。機械論的および生物学的思考様式は、存在者についての作為性に基づく隠蔽された解釈の帰結にすぎない」(23)。

[11] 「作為性」と題されたこの断章の詳しい解釈、およびアリストテレスの「ピュシス」概念との対照という作業は拙稿『自然と作為』で行ったので、ここで繰り返すことはしない。ここで指摘したいのは、この断章で述べられていることが、これまでの内容に対して持つ意味である。
α) すでに注意したように、「危機」の捉え方に関して、ハイゼンベルクとハイデガーには相当の隔たりがあった。その食い違いは両者の視点の置き方の違いに帰着すること、それはすぐ納得がいくと思う。ハイデガーが「危機」を論じながら、神学的内容に筆が滑っていったことも、『技術への問い』の文脈だけを見るならば奇妙な印象しか与えないが、「作為性」の断章に照らし合わせるならば、その印象は大いに軽減するだろう。ハイゼンベルクは「まったく正当」である。だが、その正当な直観によって言い当てられた事態は、なにも「現代」になって初めて出現した特異な現象であるとは言えないし、それどころかその原型はすでに古代から存在しているだろう。
β) しかしながら、そのように言うことは、肝心の問題点を歴史の彼方へと拡散させてしまう恐れがある。ハイゼンベルクによれば、「危機が危機として認識されるようになれば、危機は半ば克服されたものと見なしていい」。だが、ハイデガー的に考えるならば、「危機」の正体あるいはその所在が、かえって拡散され、曖昧なものとなってしまう恐れがでてくる。それは、「作為性」の見取り図が示しているように、歴史の推移そのものに同化されることによって、ついには雲散霧消してしまうことにならないだろうか。いったい何を「危機」として認識すればいいのか、それすら不分明なものとなってしまわないであろうか。
γ) 「作為性」の断章をもう一度見てみよう。それは、すでにアリストテレスの自然観そのものが(というより、古代ギリシャにおける「エピステーメー」の始まりそのものが)、暗然のうちに「作為性」の観点に支配されている、と語っている。このことが、危機の始まりなのか。またここでも「作為の因果性(Kausalitat des Machens)」の始動因としての「神」という表象に言及されているが、そのような表象が「危機」であるというのであろうか。これらのことは、それだけを切り離してみれば、まったくの暴論以上のものとして受け取ることは困難である。ハイデガーが言わんとすることは何なのかを把握するために、ここで参考になる見解に触れておきたい。

[12] ミッテルシュトラースは、その論文『自然の作用』において、「生産(Produktion)」に関するメタファーがいかに西欧の思想を一貫して貫いていたかを、古代から近世初頭にわたって詳細にたどっている(24)。その意図は、古代における二つの自然観(アリストテレス的な「創造するものとしての自然」とプラトン的な「創造されたものとしての「自然」」が、中世以降“machina mundi”という概念に結びつき、それが近世以降の「機械論的世界観」を準備するに至った、ということを論証することにあった。その概略を見ておこう。
α) アリストテレスにおいて、たしかに、自然と人為は概念的に鋭く別けられていたが、だがそれは、自然が一種の生産のプロセス(「ポイエーシス」の連関)として見なされることによって概念的に把握可能となる、ということと矛盾しなかった。なぜならアリストテレスの分析はつねに、人間の行動に本来適用されるべき範疇に定位していたからである。「デュナミス」と「エネルゲイア」は、あるものを完成させる(作品を目指して作り上げる)というプロセスに定位した概念であるが、それらは転義的に、自然の事物の生成を説明するためにも頻繁に使用された。自然の事物は、人間が物を創り出すのと同じように、自らを創り出す。これは人間の生産行為を自然へと投影した結果であろう。その限りで自然は、「ポイエーシス」の一環として現れる([3]でも触れたように、自然は「最高の意味でのポイエーシス」である)。後代の言い方を使うならば、「能産的(創造する)自然」の原型的考え方である。しかし逆に、自然の生産活動を逆に人間の行為に投影して考えるとき、自然は生産的行為の典型としても現れる。その時人間の活動としての「ポイエーシス」は、「自然の模倣」として把握される(美学において長らく命脈を保った考え方である)。人間のポイエーシスを投影された自然と、自然のポイエーシスを模倣する人間。ミッテルシュトラースはこの循環的関連を、「ポイエーシス」という点における自然と人間の共鳴、一体的な相互包含関係として解釈している。それに先立ちプラトンはアリストテレスとは違い、自然を巨大な製作者(「デミウルゴス」)の作品として把握していた(「所産的(創造された)自然」)。プラトンにとって自然とは一種の巨大な作為である(そのために、後のキリスト教神学の一つの源泉になっていく)。アリストテレスは、このような製作者と自然の関係を、自然の内部に、つまり自然物の相互関係に、移し変えたのであるが、しかしこのような差異があるにもかかわらず、両者は、事物の生成を記述するときに必ず「ポイエーシス」的関係に溯るという点では合致していた。
β) このような考え方の中世版はおそらく数限りなく指摘できようが、その典型をニコラス・クザーヌスのうちに見ることができる。アリストテレス的自然観を念頭に入れながら、クザーヌスは次のように説明する。たんに自然であるもの、あるいはたんに(人間の)技芸であるものは存在せず、あらゆる物がその両者にそれなりの仕方で参与している。知性は、それが神の理性から流出したものである限り、技芸に参与しているし、他方知性は自己自身から技芸を引き出す限りにおいて、われわれは知性を自然として認識する。なぜなら技芸は、いわば自然の模倣なのであるから。自然の感覚的事物がまったく技芸から自由であることは可能ではないし、技芸による感覚的事物が自然なしに存在するということもありえない(De coniecturis Ⅱ 12 n.131)。ところで人間の技芸の原形は神の技芸(=御業)である。世界の認識は神の認識なしには不可能であり、したがって自然の模倣は、「神の無限の技芸(御業(ars infinita))」の模倣である。そしてその技芸を、人間は、クザーヌスが好んで“machina mundi”と記した自然のなかで学ぶことができる。「われわれの精神は神を建築術にならって把握する(mens nostra concipitur deum quasi artem architectonicam)」(Idiota de mente 13 n.146 )。
ここにはアリストテレス的な自然と人為との共鳴する一体性と、作為されたものとしての自然というプラトン的モチーフが独特な仕方で混交しあっており、自然と作為(技芸あるいは御業としての創造)が完全に同一視されている。これ以降自然哲学の自然像は「建築術」のメタファー(さらに進んで機械のメタファー)によって造形されてゆくことになるし、われわれの思考という行為も、それに対応して、一種の「ポイエーシス」の能力として捉えられていくようになる(その原形は、クザーヌスにおいては、「陶工、石工、鍛冶屋、機織り」の技芸であった)。さて、その「作品」としての世界、つまり“machina mundi”という表現は、すでに13世紀の天文学の書物に登場していたが(Sacrobosco)、14世紀の自然学の書物では“machina mundi”がゼンマイ時計に喩えられ(Nicole Oresme),16世紀以降の天文学・力学の書物で頻出するようになる。「世界はあらゆる機械(machina)のなかで最大にして、もっとも効率がよく、もっとも安定して、最も良く作られたものであり、それは、あらゆる物体の複合として、神の道具である」(Monantholius)。「“machina mundi”の制作者としての神」(Johannes Hevelius)等々。この敬虔にして機械論的な思考法は、ケプラーにおいて頂点に達する。「天界の機構(Caelestem machinam)は一種の時計である。ちょうど時計のあらゆる運動がまったく単純なおもりに依存するように、多種多様な運動が、物体の単一でまったく単純な磁力に依存しているのであるから。その物理的理由は数的で幾何学的な仕方で規定されなければならない、ということもまた私は示そう」。これは、ケプラーにおいても、最終的には神の創造の理念から導き出されるであろう。しかし「神は、人間の職人(architectus)にも似て、秩序と規則に従って、世界の礎を置くことに取り掛かかり、すべてを非常に精密に測ったので….神自身、創造において、来るべき人間の建築方法(ad hominis futuris morem aedificandi)を先取りしたのだ、と思えてくるほどである」(in Mysterium cosmographicum)。 ここには敬虔な神学的表象とともに、すでに神の仕事が人間の活動に次第に取って代わられる様が、意図されることなく暗示されている、とミッテルシュトラースは述べている。
γ) この神学的表象と機械論的思考の結びつきは、後者に由来する世界観が決定的な主流となるに及んでもなかなか消え去ることはなかった。多分19世紀にいたるまで両者の結びつきの痕跡をたどることはできよう。19世紀後半(ハイゼンベルクのところで触れたように)、その機械論的世界観そのものが崩れていくにつれて、神学的表象の残滓が消えさるが、それだけではない。敬虔な“machina mundi”のメタファーとともに「自然」そのものも消えたのである。西欧においては(それがいかに無意識的なものであれ)、神-自然-人間が共通した「ポイエーシス」の関連のうちに立っている、ということが自然理解の根底につねにあった。アリストテレス的自然観を振り返ってみると、自然は人間の営みに基づいて把握され、逆に人間は自然の活動を模倣するものとして捉えられる。その共鳴関係によって、自然は理解可能となり、逆に自然から逆投影される形で人間の自己理解も可能となった。このような円環が崩れて、そこから「神」が消え、ついで「自然」が消え去り、すべては人間とその「環境」に平板化されるようになる(ハイゼンベルクが記述した状況である)。危険な点は、環境が破壊されることよりも、人間がその客観的対応物を失った(つまり自己理解のための手がかりを失った)結果、人間の行為が理解可能の範囲をおおきく逸脱して行くことに何の歯止めもないことであり、それが人間自身にとって破壊的な帰結を持ってしまう、という点にある。その帰結を避けたければ、何らかの仕方で、かつてのアリストテレス的な自然観、つまり「ポイエーシス」としての自然を復興しなければならない、それがミッテルシュトラースの結論である。

[13] 「ポイエーシス」としての自然、これは間違いなくハイデガー自身が念頭に置いている始源の事態でもある(「最高の意味でのポイエーシス」としての自然)。ミッテルシュトラースによると、このような自然観が近世以降の機械論的自然観に変貌していったことは、決定的な変質ではなく、あくまである連続性の枠内での部分的変更にすぎない。その変貌が危機的様相を呈し出すのは、機械論的自然観によるものではなく、その機械とその作者との敬虔な連携が失われたからである…。しかしこのような歴史の読み方を、まったく別の方向に解釈することも可能である(し、その方が自然ですらある)。自然と人間とのポイエーシス的連関、言い換えれば生産のメタファーが古来よりなぜ愛好されてきたのか、その点についてはおそらくプラグマティックな(あるいは「作為性」に由来する)理由しかないであろう。ミッテルシュトラース自身が述べているように、そのメタファーの起源は、「人は、自分自身が作ったものしか(was man selbst gemacht hat)、あるいは、制作の過程の結果として再構成できるものしか、理解できない(古代の伝統では、たとえばラクタンツが言うように「作者だけがその作品を知っている」)」という事態である(25)。人間は自分の作ったものしか理解できない。言い換えれば、人が理解するものは、常に何らかの仕方で、人がみずから作ったもの、あるいはその過程の結果として把握されうるものに帰着する。それが、自然そのものに内在する生産工程としてであれ、偉大なる製作者の産物としてであれ、巨大な機械としてであれ、人間による自然理解は、人間がみずからの行為を投影した結果という意味合いを常に持つ。つまり、われわれが自然の中に見出すのは、常に、われわれ自身が産み出したわれわれ自身の精神のパターンである、ということである。しかしこのことは、奇妙なことに、ハイゼンベルクが「現代」の「危機」として捉えたこと、つまり、「われわれはいわばつねにわれわれ自身にしか出会わない」というあの評言に合致するのである。これはある歴史の断面にのみ当てはまることというより、歴史を貫いて潜在的・顕在的にみずからを主張してきた人間存在に関わる根底的な制約であるように思われる。

[14] このことは、思想史あるいは哲学史の領域においてまったく未聞の事柄に属するというわけではない。たとえば、ハンナ・アレントが『人間の条件』において述べていたことを適切に敷延すれば、[13]の内容のようなものになるはずである。つまり、アレントは、「近代」という時代を「世界疎外」の始まりとして特徴づけているが、この疎外をもっともドラスティックに推進した要因を、近代自然科学の「地球疎外」、つまり、地球を宇宙から見るという意味での「地球疎外」のうちに見ている(26)。地球外の宇宙の一点(それをアレントは「アルキメデスの点」と呼んでいるが、明らかに‘μηχανικη τεχνη’の支点とでも言うべきものである)とはいっても、それは現実のものではもちろんなく、人間の理論的空間座標に規定された位置でしかないので、アレントが呼ぶ「地球疎外」とは、結局のところ人間が、「自然を地球に拘束された経験の鎖から解放して、自分自身の精神の条件下に置いた」ということに等しい。だがその結果として生じることは、ハイゼンベルクのあの「危機」的状況を産み出す思考様式である(実際アレント自身ハイゼンベルクの観点から論述を進めている)。たとえば、デカルトの確信とは、「自分以外の何物にも出会うことはない、つまり、人間の中にある精神のパターンに還元できないものには出会うことはない」という確信であり(27)、「与えられ開示されたものとしての真理を知ることはできないが、少なくとも自分が作ったものを知ることはできる」という確信である(28)。この確信は純粋に理論的なものであったが、来歴から見れば「工作人(homo faber)」の確信と言うべきであろう。「私に物質を与えよ、それによって私は世界を作り上げよう、つまり、私に物質を与えよ、それによって世界の成り立ちを私は諸君に示そう」というカントの言葉は、ある意味で「知識」と「制作」との近代特有の混交、あるいは知識内部における「工作人」の典型的態度を端的に示している。その態度はさらに次のように拡大されるだろう。「世界の道具化、道具に対する信頼、人為物の製作者の生産性に対する信頼、手段‐目的の範疇はあらゆる範囲に及びうるという自信、あらゆる問題は解決できあらゆる人間の動機は効用の原理に還元できるという確信、所与のすべてを素材として見なし、全自然を「織り直すために好きなだけ切り取ることのできる無限の織地」(ベルクソン『創造的進化』)と考える特権意識、知性と創意の才能との同一視、つまり、「人為物、特に道具を作り、制作物を無際限に多様化するための道具の制作の…第一段階」と見なすことのできない思考すべてに対する軽蔑(ベルクソン同書)」等々(29)。
だが照準を広く取ってみるならば、近代という時代の特徴としてアレントが挙げた「工作人の優位」(制作と思考を無条件的に同一視する傾向)の起源はすでにプラトン・アリストテレスにまで溯りうるということをアレントは認めざるを得なかったし、近代性の到来を告げる「観照と活動の転倒」という事態は『形而上学』にしっかりと刻印されていることも認めざるを得なかった。それは「観照と制作(テオーリアとポイエーシス)が内的な類縁関係を持っていて、観照と活動と同じはっきりとした対立関係に立っていない[からである]。少なくともギリシャ哲学において、観照と制作の決定的な類似点は、観照とは何かを眺めることである以上、制作にも内在する要素であると考えられたということである。なぜなら、職人の仕事は「イデア」によって導かれるのであるが、そのイデアとは、まず何を作るべきかを職人に教え、そして最終的な産物を彼に判断させるものとして、職人が制作過程の始まる前にも、それが終了した後にも眺めるモデルだからである」(30)。つまり、哲学者が古来から「観照」の名で尊んできたものは、実はソクラテスに端を発する忘我的な「驚き」の経験であるよりも、偽装された「制作」知であった、ということになる(ここで論証することはできないが、このアレントの解釈は疑いもなくハイデガー経由のものである)。そのことは、いくつかの例証で見た通りである。もしそうであるならば、近代という時代は、アレントが言うように「観照を制作的活動へと転倒」させた、と言うべきではないだろう。それは、転倒や刷新というよりも、もともと「観照」に内在していた制作への傾向性を純粋に解き放った、と言うべきであろう。それは、近代の自然科学が、旧来の「自然学」の原理を刷新したというよりも、もともとあった「(複合的道具)に関する技術」の可能性を全面的に解き放ったのと平行する出来事であった。

[15] 以上を踏まえて、ハイデガーが「作為性」という語のうちに凝縮させた歴史的事態を、相互に関連する二つの点に集約してみたい。
1) 「観照」あるいは「思考」に元来あった「制作」知への傾向の全面的な解放。人間の「ホモ・ファーベル」化、およびその制作にとっての素材への転化(先ほど触れたベルクソンの見解は、ハイデガーがよく言及する「総動員」の一例とみなしていいだろう。つまり、あの巨大な「織地」を織る者にとって、一切が素材として現象し、そこでは自然と人間の区別は消滅するのであるから、織地を織る者自身が織地のなかに織り込まれてしまう、という状況である)。人間に内在する可能性の諸次元が一元化される。その限りで、「人間は今日、まさにどこにおいてももはや自己自身に、つまり自己の本質に出会ってはいない」。
2)‘μηχανικη τεχνη’を全面的に解放したものとしての、さらには「現代技術の本質」を切り開いたものとしての近代自然科学の生成。もちろんそれは、古代からの「作為性」の純粋な帰結に他ならない。
このような歴史の動向を見据えて、ハイゼンベルクとともに(さらにハイゼンベルクを超えて)、ハイデガーは「危機」という語を発したのである。「危機」は、「致命的な作用を及ぼしうる機械や装置類」にあるわけではない。それは、局所化されたものとして指摘できるものではない。それは、歴史の推移の結果われわれに手渡されたわれわれ自身の思考様式そのものに内在しており、それはわれわれ自身の思考のあり方そのものである。この捉えがたい事態に関して、晩年のある講演で、ハイデガーは次のように語ることになる。
「だが危機はどこにあるのか。….それはどこにも存在せず、かつ至る所に存在している」(31)。

[16] 本論は、「危機」の内実をこれまで探ってきた。[2]で掲げた四つの疑問点のうち、2)から4)までの疑問点は、ある程度解消された、と見なして構わないであろう。それに対して1)の疑問点については、まだほとんど手つかずのままである。この点については、もはや暗示的にしか述べることはできない。「危機」あるいは「作為性」の問題系と、「真理」の問題系との間には一体いかなる関係があるのか。
α) 実は、ハイデガーにとって、その両者は「同じもの」である。ハイデガーは「正しさ(Richtigkeit)」と「真理(Wahrheit)」を区別するが、「正しさ」の基準は一体いかなるものか。通常その基準は、形式的に「ものとの合致」と定式化される。しかしその定式は、近世以降顕著になった動向、つまり「存在するものが理性の作為[理性によって作為されたもの]となった」という動向を踏まえるならば、「作為[されたもの]への合致」として考えられるべきものであろう(32)。「作為」としての存在を自明のものと捉えることと、合致としての真理を自明のものとして捉えることは、両者は相互に呼応しあうという意味で、実は「同じこと」に帰着する。
β) もちろんそのような自明と化した真理観に対して、ハイデガーは根源的な真理概念として「アレーテイア」を持ち出す。「アレーテイア」として「真理」を捉えるということ、それはギリシャ語源に対する風変わりな執着というものではない。それは(ここでは詳論できないが)、「真理」を実在論的にではなく、ある種の「行為」との連関において捉えようとすることである。しかも、「産出」という「テクネー」のいわば原行為との関連において捉えようとすることである(33)。したがってハイデガーにとっては、どこまでも(つまり「合致」と「作為」の呼応関係のみならず)、「真理」と「技術」は共属し合うものとして考えられていたのであり、これはすでに[3]でも触れた論点である。
γ) 合致としての「正しさ」に先立つ「真理」。このことは、「ゲシュテル」に先立って「テクネー」の古代的意味合いに言及していた『技術への問い』の論述のあり方にも反映している。だが、この「正しさ」ではない「真理」、「ゲシュテル」ではない「テクネー」とは一体何か。それは、すでに[3]で指摘したように、懐古趣味の一環として、いまや忘れ去られた遺物に対する憧憬という意味合いに受け取ってはならないだろう。もしそうならば、「アレーテイア」あるいは「テクネー」の探求は、一種の時代考証、あるいは考古学的興味以上のものは持ち得ないだろう。かりに、より本源的な「テクネー」というものが見出されるとしても、それは、歴史を溯って得られるわけではないし、たとえば「作為性」に由来する概念をすべて排除することによって得られるわけでもない。それは、それを見出そうとするわれわれ自身の行為を通してしか与えられないのである(ある意味でこの行為そのものである)。『技術への問い』の冒頭は、この行為について、この自己遡及的な「テクネー」のあり方について簡潔に語っているが、ここには『技術への問い』という作品の論理が集約されている(この点については別稿に譲る他はない)。つまり、
「以下でわれわれは技術について問いかける。問いかけは、道を創り出す(bauen)」(34)。


(1) Vortrage und Aufsatze(=VA),1954,36.
(2) Ibid.,34.
(3) Ibid.,19.
(4) Ibid.,20.
(5) Ibid.,21.
(6) Ibid.,21‐22.
(7) Ibid.,31.
(8) Werner Heisenberg: Das Naturbild der Heutigen Physik.Rowohlt Hamburg(1957),17.
(9) Ibid.,11‐12.
(10) Ibid.,14f.
(11) Hannah Arendt: The Human Condition(1958),322-3.
(12) Heisenberg,op.cit.,17-18.
(13) Ibid.,18
(14) Ibid.,22.
(15) VA..,35.強調はハイデガー自身による。
(16) Beitrage zur Philosophie,Gesamtausgabe 65, 275.
(17) VA..,29.
(18) 以下は次の論文のごく粗略な要約である。Fritz Krafft :’Mechanik’ und ‘Physik’ in Antike und beginnender Neuzeit ,in Das Selbstverstandnis der Physik im Wandel der Zeit, 37-74.
(19) このギリシャ語の意味を伝えるドイツ語としてクラフトは、’Listen’の他に、’Machenschaften’を挙げている。 Cf.ibid.,65.
(20) 『レ・メカニケ』(豊田利幸訳)、世界の名著21、215.
(21) Shinji Mikami : Natur und Machenschaft, in Bulltin of Yokohama City Univercity ,vol46(1995),p156.
(22) Krafft:op.cit.,71.
(23) Beitrage zur Philosophie、126‐7.
(24) Jurgen Mittelstrass: Das Wirken der Natur, in Friedrich Rapp(Hrsg), Naturverstandnis und Naturbeherrschung, 36-69.
(25) Ibid.,40.
(26) Hannah Arendt,op.cit.264.
(27) Ibid.,266.
(28) Ibid.,282.
(29) Ibid.,305-6.
(30) Ibid.,301-2.
(31) Die Kehre, in Die Technik und die Kehre, 41.
(32) Grundfragen der Philososhie ,Gesamtausgabe 45, 148-9.
(33) Shinji Mikami : Husserl und Heidegger, in Bulltin of Yokohama City Univercity , vol 45(1994),p97.
(34) VA..,13.


土壌の哲学 [最近の論文]

Humus‐Humanus
 
あるいは「土壌の哲学」の可能性について

1.「土壌の哲学」
2.Humus-humanus
3.土壌とは何か 
4.共生という概念とその拡大
5.「土壌の哲学」の意義


1.「土壌の哲学」


 「環境」について哲学的に考えるためには何が必要なのか。今日そう自問することは、ある意味で、とても奇妙に、あるいは、間が抜けているように見えるかもしれない。なぜなら、その実例や範例はすでに十分存在しているのだから。たとえば「環境倫理学」のもとに分類できる文献だけでもすでに膨大な数になっているのだから。
 だが「環境倫理学」を距離をおいて眺めてみるならば、たとえば、その名称をタイトルに戴いている書物を読んでみるならば、そこで扱われるテーマが雑多であったり、基本的主張が論者によってまちまちで、しかも妥協点を見出すことが困難であるほどの多種多様で異質な立場がひしめいていることに驚く人が少なからずいることだろう。いわば単数定冠詞つきの「環境倫理学」なるものが存在するのかどうか怪いたくなるような現状である。その理由は簡単に二点に集約できるだろう。①「環境倫理学」の「倫理」についての一致点を見出すことが困難なこと。たとえば、環境問題に関して「善悪」や「権利」「価値」といった倫理的概念を適用する際の適用範囲をいかにして決めるべきかという問題に対して言えば、動物解放論者、レオポルド流の「土地倫理」、クリストファー・ストーン流の法解釈、「ディープ・エコロジー」やその他の「反人間中心主義」を標榜する立場の人々では、まったくアプローチや方法論が根本的に違うのだから、それらの間に見解の一致点が見られないのはむしろ当然なことだろう。②「環境倫理学」の「環境」の理解の仕方が人によってバラバラなこと。ありていに言って、「環境倫理学」が扱う「環境」とは何か。エネルギーを湯水のように消費している現代の生活全般のことなのか。有限な「地球」のことなのか。消え行く生物や、悪化する自然のことなのか。おそらく誰もその点についての定義を持っているわけではない。一般に「環境問題」として語られている「環境」のことを漠然と総称して、「環境倫理学」は「環境」と言っているのだろう。つまりそれは、ほとんどあらゆることを語りうるわけである。これほど便利な言葉はないだろうが、便利な言葉とは、言い換えるならば、ひどく不毛な言葉である。こうした不毛な言葉を原理的なレベルで明晰化しようとする腰の据わった取り組みはほとんど皆無だった。1980年前後から急速に高まった環境問題に対する哲学者の急ごしらえの対処策を、とりあえず一まとめにしたものが「環境倫理学」と呼ばれているにすぎない、というのが現状であろう。

 いま指摘した②の点についてすこし掘り下げてみたい。言うまでなく、「環境」という概念は多様なものを内包しているが、それを統一的な視野のもとに収めるためには、単一の立脚点があるほうが望ましい。むしろ、なければならない。「環境倫理学」の原型を提示したと評価されているハンス・ヨーナスは、ほとんどの「環境倫理学者」とは違って、その立脚点を探求することに多大の時間を注いだという点で、やはり稀有な存在であったが、ヨーナスにとって、「生命」という概念がその立脚点の役割を担っていた。だがそれは、まだあまりにも抽象的であった(ヨーナスについては後で立ち返ることにしよう)。「環境問題」が現実の世界で進行している具体的な問題である以上、それを論ずるための立脚点もなるべく具体的であることが望ましいのである。
 具体的な立脚点とは何か。日本でこれを明確に提示した例外的な人に富山和子がいる。富山には『環境問題とは何か』という書物があるが、そこでは「環境」という語はただの一度も抽象的な意味で使われていない。富山にとって当然のことなのだろうが、「環境」とは、たとえば具体的なある川であり、ある森であり、ある田畑である。それを育んできた人々と、農林業の歴史が語られるだけである。富山にとっての「環境問題」とは、死滅しつつある日本の農林業をいかに守るかという問題である。そういう問題意識は、おそらく、今日「環境問題」として標準的に理解されていることとはかなり乖離したものだろう。ましてや欧米流の環境倫理学とはまるで異質である。だが異質に見えるのは、世間で言われる環境問題なるものが奇妙なまでにグローバルな観点から語られるものであったり環境倫理学の拠って立つ立脚点が抽象的でありすぎるからなのである。多くの具体例を踏まえて得られた「水と緑と土は同義語である」という富山の見解には、いわゆる「グローバル」な問題意識や環境倫理学の抽象的教説には決して見られない実質を備えている。そこには倫理というフィルターを通さない「環境」への洞察がある。木や水や土について語らずに、どうして「環境」について語れようか、ということを富山はその書物全体を通して訴えているのであるが、それは孤立した訴えであろうか。

 木や水や土について語らずに、どうして「環境」について語れようか。
「土壌」について語らずに、どうして「地球」について語れようか。「土壌」について語らずに、どうして「人間」について語れようか。富山の主張に呼応するかのように、イヴァン・イリッチは、1990年に発表された『土壌宣言(Declaration on Soil)』という短文のなかで、そのように訴えた(少なくとも私はそのように読んだ)。富山が目にしているのは、消え行く日本の土着文化の「水と緑と土」であったのに対して、イリッチの目に映ったのは、土壌そのものの消失であり、西欧哲学の伝統における「土壌」のまったき不在であった。富山が日本の文化の一環として見だしたことを、イリッチは哲学の問題として考えようとしたのである(この『宣言』がアメリカにおける有機農運動の拡大に貢献したJ. I.ロデイルの記憶に捧げられたものであることも、富山の問題意識と重なりあっていて興味深い)。肝心な部分をすこし見てみよう(1)。

 「地球という惑星、世界的な飢餓、生命を脅かす諸現象についての生態学的言説を読むと、われわれは、哲学者として、謙虚な気持ちになって(humbly)、土壌を見つめたいという気持ちになる。われわれは、土壌の上に立っているのであって、地球の上に立っているのではない。土壌からわれわれはやって来て、土壌に排泄物と屍を残す。それなのに、土壌―その耕作とわれわれの土壌への結びつき―は、西欧の伝統的な哲学によって解明された事柄のなかに見出しがたい。
哲学者として、われわれが自分の足下を探求するのは、われわれの世代が土壌と徳(virtue)の両方への足場を失ってしまったからである。徳ということでわれわれが言いたいのは、伝統によって涵養され、土地によって限定された行為の形態と秩序と方向のことであり、その行為は、行為者が通常動きまわる範囲内でなされる選択によって特徴づけられる、ということである。われわれが言いたいのは、土地の思い出を高めるその地方で共有された文化の中で善として相互に認められる慣行のことである。注意したいのは、そうした徳が伝統的に見出される労働や手仕事、住居や労苦は、抽象的な地球や環境、あるいはエネルギーシステムによって支えられているのではなく、まさにそうした行為がその足跡によって豊かにしてきた土壌によって支えられている、ということである。しかし、この土壌と存在との、土壌と善との究極的な結びつきにもかかわらず、哲学は、徳を共通の土壌に結びつけることを可能にするような概念を生み出してこなかった…。
 悲しいことだが、ノスタルジーに浸らずに、われわれは、過去がもう過去になってしまったことを認める。気乗りのすることではないが、われわれは、われわれの眼に映ること、つまり、地球が土壌を失ってしまったことのいくつかの結果を共有するよう努めよう。われわれは、お偉い生態学者たちの間で交わされる言説の中で土壌が黙殺されていることに苛立ちを覚える。われわれはまた、土壌を称揚しながら、それを徳ではなく生命の母体にしてしまうロマン主義者、ラッダイト、神秘主義者の多くにも批判的である。そこで、われわれは土壌の哲学に対する呼びかけをおこなう。つまり、それなしでは徳もなんらかの新たな生活もありえない、そうした土壌の経験と記憶についての明晰できちんとした分析に対する呼びかけを」。

 見られるとおり、イリッチの土壌に対する思いは悲観的なものである。土壌は、いわば、過去の遺物である。『土壌宣言』は、そのタイトルが示唆することとは違って、失われつつある土壌を回復しようという希望に基づいて書かれたのではない。それを願うことは一種の「ノスタルジー」の裏返しにすぎない、というのである。過去はもう過ぎてしまった。地球はその土壌を失ってしまった。その結果は受け入れるより他はない。だがせめてその記憶だけでも、はっきりした形で残しおこう。それは、その土地その土地に根ざした人間の「徳」をたどることである。イリッチはそれを「土壌の哲学」と呼んだのだが、病魔のため、それを完成することも、その青写真を示すことすら出来なかった。ただ『土壌宣言』が残されたのである。
 さて、『土壌宣言』から何を読み取るべきだろうか。『土壌宣言』に色濃くある悲観的気分は、さしあたり度外視しよう。都市に暮らしている人間にとっては、たしかに、「地球は土壌を失ってしまった」ことは日常的に実感できることであるにしても、また文明の動向が土壌の消滅という事態をもたらしていることが紛れもない事実であるにしても、やはりこれは修辞的な誇張と言うべきであろう。イリッチの生態学に対する批判はある意味で痛快ではあるが、はたして現在でも通用するだろうか。イリッチが批判する「生態学」とは、地球上の有機的・無機的プロセスをエネルギー収支の観点から扱う学問のことであろう。確かにそれが生態学の本来の定義であった(エネルギーのフロー分析としての、‘nature's economy’としての生態学)。今日の環境学や地球科学もその延長線上に位置しているだろう。それに対して「われわれは、土壌の上に立っているのであって、地球の上に立っているのではない」と言いたくなる気持ちは理解できる。ただし、土壌についての科学的知見は土壌をよりトータルに捉えようとしており、元来の生態学的観点に囚われてはいないのである。この点については後で述べることにして、とりあえずここでは、『土壌宣言』に見られる過度の悲観主義と既存の科学に対する批判意識は、すこし割り引いてみなければならない、ということに注意を払っておこう。
 同様に、「土壌の哲学」とは、イリッチにとって土壌が過去の遺物でしかないことを前提にするならば、一種の歴史的、考古学的、あるいは民俗学的な分析にすぎないことになるだろう。しかし、『土壌宣言』をなるべく肯定的な方向に持っていくことはできないだろうか。イリッチの言う「土壌」と「人間(の存在と徳)」の共属性とはいかなるものか。それについて従来の哲学が何か言いうることをもっているだろうか。
 だが、イリッチの言うとおり、西欧の哲学において「土壌」が主題となったことはほとんどなかった。かすかな例外があるとすれば、今日の「文化」の原義を提供しているキケロの文章くらいであろうか。ラテン語の‘colere’(cultureが由来した語)は、土地を開墾するだけではなく、そこに住み、それを(支配するのではなく)いたわり、それを守る、という広い含みをもつ語だった。‘cult’も元来は土地の神をいつくしむこと、である。キケロがギリシャ哲学をラテン語に移植する過程で、‘colere’を精神の鍛錬を表わす語として用いたのであるが(‘excolere animum’としての「パイデイア」 )、それは、基本的に農業を第一義としたラテン系民族のエートスに従った理解の仕方であっただろう(これは、「土壌」と切り離された「ポリス」内部で形成された哲学とはまったく異質な理解の仕方だった、とアレントは書いている(2))。土地を耕しいつくしむのと同じ意味で、精神を鍛錬する作業としての哲学。言葉の本来の意味での「土着文化」としての哲学。こうしたキケロ的な哲学観は、過去との関連でも、それ以降の哲学史を見てもあくまで例外であり、哲学史のなかの一瞬の出来事であった。またかりに「土壌」が取り上げられることがあったとしても、それは、アリストテレス的な「質料」としての土壌、製作のための「素材」としての土壌であっただろう。したがって、イリッチとともに「土壌の哲学」はかつて一度も存在しなかった、といともあっさり断定してかまわない。土壌とは、哲学にとって、プラトンの「洞窟の比喩」―これこそ「パイデイア」の範例を示すものだった―における「洞窟」のように、真っ先に捨て去られるべきものだったのである。


2. Humus- Humanus


したがって「土壌の哲学」は存在しなかった。これは何を意味するのか。土壌とはわれわれにとって縁のないものであるのか。だが、イリッチに言われるまでもなく、われわれは誰でも知っている、「土壌からわれわれはやって来て、土壌に排泄物と屍を残す」ということを。すでに「創世記」は次のように記していた。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(「創世記」:3:18。訳は日本聖書協会のものによる)。これこそ太古の昔から変わることのない運命として、人間ならば誰でも知っていたことである。だが、はたして、その知識はどの程度のものであろうか。
 ここですこし「創世記」について述べておきたい。環境倫理学の書物では、「創世記」における神の言葉がよく問題にされるからである。天地創造の六日目に神は言った。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。(「創世記」1:26)。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(同:1:28)。
 リン・ホワイト・ジュニアという歴史家は、この箇所を引き合いに出して「現在のエコロジカルな危機の歴史的起源」をユダヤ・キリスト教の「人間中心主義的世界観」に求めて物議をかもした。リン・ホワイト・ジュニアはヨーロッパ中世の農業史が専門だったから、中世ヨーロッパにおいて農業がいかに自然破壊的だったか(そしてキリスト教が土着的神々に対していかに不寛容で破壊的にふるまったか)等々の事実を一般化するに際して「創世記」に言及しただけなのであったが、その影響は決して小さいものではなかったようだ。なぜなら「創世記」の解釈に際して、そこに環境破壊的な思想がこめられているかどうを検討する人々が最近とみに増えたから。ホワイトは聖書解釈をしたわけではないのだから、聖書を仔細に検討して彼の見解を反駁することは簡単にできようが、ここではその正否を質すことはしない。ただし、ホワイトの視野からまったく抜けていた点に注意を喚起した。
① 「創世記」の第二章(2:15)で「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」と述べられているが、ここで当然の前提とされていることは土の経験であり、農耕という形式で維持される生活である。メソポタミアの地における農耕民が土地を「耕し守る」、そうした生活様式の肯定を「創世記」の冒頭は「支配」という語で語っているのであろう。
② だが人間と土の関係はこればかりではない。「創世記」の冒頭は、人間と土との共属関係そのものを語っている。その共属関係は言葉に反映しているのである。「創世記」第二章の冒頭は次のように述べている(2:04~08)。

 「主なる神が地と天を造られたとき、 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた」。 

 「人(adam)」とは、「土(adamah)」から造られているがゆえに「人」である、というのである。この箇所は、永らくただ単なる言葉のあそび、「語呂合わせ」と見なされてきたようである。今日でもカトリックの正統的見解は、「人」と「土」の語源上の結びつきを認めていない。「創世記」に見られる語源的説明は「つねに正しいというわけではなく」、「アダム」の語源を「土」に求める説は「今日一般的に放棄されている」と『カトリック・エンサイクロペディア』の「アダム」の項は述べている(3)。他に「赤い」という形容詞に結びつける説や、アッシリア語の‘adamu’(「作る」の意)に結び付けて、「作られたもの」と解する説をあげながら、どの説も満足のいくものではないとして結論を保留している。 
 だが、やはり「アダム(人、人類)」の語源は、やはり「土」であろう。なぜなら「人」と「土」の語源的結びつきはインド・ヨーロッパ語の中で広く見られるからである。同じ語源上の結びつきは、ラテン語の‘humus’(「土壌」の意)-‘ humanus’(「人間の」)(‘homo’(「人間」))で見られるし、‘homo’と同根であった古ドイツ語の‘*gumn-’、古英語の‘guma’もそれぞれ「人」を表わすものであったが(いまではそれぞれ‘Brautigam’(「新郎」の意)の‘gam’、‘bridegroom’(同じく「新郎」)の‘groom’という特殊な形でしか残っていない)、それらはいずれも「土」を意味する‘dhghem-’に由来するものであった(4)。
 これらのいわばヨーロッパ語の原初に見られる「人」と「土」の共属関係を、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づく」ったという「創世記」の一文は率直に語っているにすぎない。それはやはり、土から生じ、そこに住まい、そこで死んでいく農耕民の生活の端的な肯定である。それだけではない。土の肥沃さ、土の多産性に対する洞察がなければ、‘adamah’‐‘adam’、‘humus’‐‘humanus’という言葉の結びつきは生じようがなかった。土が肥沃で多産であるということは、土は生きているということである。土は生命の源を宿している。人間が生命に与っているのは、土から生じたからである。そうした洞察が‘adam’や‘homo’という言葉を生ぜしめた。‘humus’‐‘ humanus’の共属関係に由来する語として、‘humility’(「謙虚」)、‘humble’(「つつましい」)等がある。「塵にすぎないお前は塵に返る」。土への帰属は土への畏敬を生み、人間はそこに自らのエートスを見いだし、そこから自らの定めを学ぶ。イリッチの言う「徳」もそこから生じたのである。「土壌の哲学」は、言葉に沈殿している最古の記憶にこそ目を向けなければならないのだろう。
 おそらく、「土は生きている」と言うと、原始的な自然観、アニミズム的な迷信として受けとられる恐れがある。それどころではないということは、次章で主題化することにしよう。人間は土への帰属から出発してその自己了解を言葉のうちに刻印したのだが、その自己了解は次第に希薄化していき、やがて別の自己理解にとって代わられる。そもそも「創世記」は、人間は土から生まれたと言っているわけではない。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」のだから、ようするに土は素材にすぎず、そこに「命の息」が吹き入れられなければ、人間は生命に与ることができなかったのである(いわば「物心二元論」の原初形態)。言い換えれば、土とは生命のない物質にすぎず、人間と同質ではありえない。それどころか「呪われたもの」ですらある。すでに引用した「塵にすぎないお前は塵に返る」は呪いの言葉である。‘adam’という語に込められた来歴を考えるならば、土から生まれ土に返るということは人間にとっての自然の定め以上でも以下でもないのだが、「知識の木の実」を食べてしまった人間にとって、それは呪わしい運命なのである。
 「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。 お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(「創世記」3:18~19)。
 もはや‘adam’は‘adam’ではないし、もはや‘adamah’も‘adamah’ではない。それらの言葉の起源は見失われてしまった。聖書考古学的に言えば、「天地創造」と「楽園追放」の間には、気象変動や農業の本格化という史実があったということになるのだろうが、やはり聖書の文言どおり「知識の木の実」によって、人間が自らとそれを取り巻く自然に対していだく理解の仕方が根本的に変わってしまった、と単純に考えたほうが含蓄深い。土着的で一元的な世界観から物心二元的世界観への転換が宗教という形態をとって生じたのである。それ以降、もはやアダムとアダマとのつながりなど問題ではないだろう。だから、先ほど引用したカトリックの公式見解は、それはそれで正しかったように思われる。土に「呪い」以外の意味を認めることは難しかったのだから、アダムの語源は謎とするより他なかったのである。
 言葉に込められた太古の記憶は、人間が自らを土に属するものとして理解していたことを示している。だが、このような自己理解は、西欧の知的伝統の中では埋没したまま、正統な位置を見いだすにはいたらなかった。そのような理解を公言するものは、バルバロイとして、異教徒として、異端として見なされたことだろう。それは、ある意味で、人間性の否定を意味するか、あるいは逆に自然そのものを精神化するかのいずれかであって、それらはいずれにせよ正統にはなりえなかった。イリッチが「われわれはまた、土壌を称揚しながら、それを徳ではなく生命の母体にしてしまうロマン主義者、ラッダイト、神秘主義者の多くにも批判的である」と述べたとき、彼が警戒しているのは、過度の否定性と過度の観念性であっただろう。人間中心主義的な思考法から脱却し自然への回帰を目指そうとしながら、その訴え方が奇妙なほどに観念的で精神主義的である「ディープ・エコロジー」なども、イリッチの警戒すべきリストに加わる資格がありそうである。
 今日ふたたび人間と土との共属性という太古の記憶を蘇らせようとすることには、いかなる意味があるのか。イリッチが「土壌を称揚しながら、それを徳ではなく生命の母体にしてしまう」ことに批判的なのは十分理解できる。「母なる大地」といった観念それ自体、ロマン主義や神秘主義に陥る罠の一つであろう。だからイリッチが「土壌の哲学」を「徳」に限定して、あくまで人間の事象のみを扱おうとした意図は理解できる。しかしながらそれが唯一の方途ではない。「土壌の哲学」が可能であるとするならば、やはりそれは「生命」を視野に入れなければならない。「生命」を度外視するならば、土壌は土壌ではなくなってしまうからである。


3.土壌とは何か

 土壌とは何か。おそらくたいていの人は、黒い土、農地、泥、塵などの無機的なイメージを思い浮かべるだけであろう。ある国語辞書によると(『新辞林』 三省堂)、「地殻の最上層にあって,岩石の風化物に動植物の分解・腐蝕した有機物が混じったもの」である。だが分解・腐敗はどうして生ずるのであろうか。専門家でもないかぎりは、土壌のなかで活動している生物について思い到ることはないだろうが、そこには通常の感覚や想像力には及びもつかないミクロの世界がある。「良好な草地の土壌をスプーン一匙すくいあげてみると、そこには50億のバクテリア、2000万の菌類と100万の真核微生物が含まれているだろう」(5)。この膨大な数は、その活動の実態を反映したもので、土壌における食物網の代謝活動の8割から9割は菌類とバクテリアによるものだからである。また、計り知れないほどの多様性が指摘されている。「1グラムの土壌のなかには10,000種ものバクテリアが含まれており、それは過去何百年の間に発見されたバクテリアの数の二倍である。…科学者たちはいま、数十万種、ひょっとしたら数百万種のバクテリアが存在していて、その大部分がいまだに科学にとって未知のものではないか、と思い始めている」(6)。また菌類に関してはこのように言われている。「たった一つの場所に2500種もの菌類が見られたという報告がある。科学者たちの考えでは、少なくともまだ100万種もの菌類が土壌の中で発見を待ちわびている。その個体数は通常バクテリアよりやや劣るものの、バクテリアに比べてサイズが大きいため、菌類は、多くの土壌におけるバイオマスと代謝活動を支配している、と言える」(7)。われわれの足下に何があるかは、一般の人間にとってだけではなく、科学にとっても盲点であったし、いまだに盲点であり続けているようである。
 土壌中の食物網は、「高等動・植物・藻類・シアノバクテリア」→「第一次消費者(死んだ繊維を常食とするバクテリアや菌類)」→「第二次消費者(バクテリア、菌類、ダニ、線虫、ミミズ等)」→「高次消費者(アメーバから昆虫、さらにより大型の捕食動物)」という過程を経るのだが、この代謝の結果として「腐植土(humus)」が形成される、と最近の土壌学の書物は述べている(8)。つまり、発生の順序からすれば、まず土壌があってそこに菌類やバクテリアから始まる一連の生物が住みつくのではなく、その逆が正しい。生物が存在しなければ、土壌は存在しない。地殻や岩石は存在していても、‘humus’としての土壌は存在しない。したがって、土壌を、岩石に由来する無機物に動植物に由来する有機物が付加され混合したものとして捉える定義は、土壌の本質を伝えてはいないのである。

 土壌の本質とは何か。上述の土壌学の書物は、土壌を「空気、岩石、水、生命のインターフェイス」として捉えている(9)。植物の成長に良好な条件のローム層を取り上げてみると、それは、45%の「無機物(mineral matter)」、5パーセントの有機物(organic matter)、20~30パーセントの空気、同様に20~30パーセントの水から成り立っている。前二者は土壌の固体部分(soil solids)、後二者は孔空間(pore space)と呼ばれるが、その二つの部分がほぼ同等の割合を占めるのが良好な条件の土壌だという(10)。この孔空間(というか「すき間」のことだが)を通して、水や空気が移動する。土壌は水を浄化しながら、ミネラルを植物に伝え、それを田畑や海に送り届ける。つまり土壌は、水を介して、地殻を生命と海に結びつけている。また、上で述べた食物網は、生化学的に言えば、炭素、窒素、硫黄等が転移されるプロセスのことであるのだから、土壌は、それらの元素をその内部に貯くわえ、その過程でそれらの一部や二酸化炭素を大気に送り戻す。したがって土壌は大気の組成に影響を及ぼさずにはおかないし、大気の循環の一部である、と言って過言ではない(ラブロックが「ガイア仮説」を想定するにいたった洞察の一つである)。このように、土壌において、岩石の世界(‘pedosphere’)、空気の世界(‘atmosphere’)、水の世界(‘hydrosphere’)、生命の世界(‘biosphere’)が一堂に会し交流しているのだから、土壌とは「空気、岩石、水、生命のインターフェイス」というわけである。
 この「インターフェイス」という概念を、別の角度から見てみよう。元来そのようなインターフェイスは存在しなかった。岩石からなる陸地は、もともと生命にとって敵対的であったはずである。今日「植物」と呼ばれているものの祖先(単細胞の藻のような形態であった)は元来海の中で進化したものであった。海面近くで光合成を営み、海水からミネラルを取り入れていた。それが陸地に進出するということは、一挙に住処と水と養分を失うということであった。とくに、乾いた(気象や季節の変動に左右される)陸地でいかに水を確保するかということが最大の問題であっただろう。それに対処するメカニズムは藻内部にはなかった。そのメカニズムは、菌類(fungi)との「共生(symbiosis)」による結合によってもたらされた、ということで今日の生物学者の意見は一致している。菌類は、有機物を分解してそこから無機的養分を摂取するのだが、その過程で水を得る(そして保存する)という特性を持っている。菌類は、藻類から光合成の産物を受けとりエネルギー源とする。藻類は菌類から水と地下の養分を供給される。この互恵的な関係の最も初期の形態の一つが地衣類であり、最近の研究からその起源は約4億年前に遡ることが判っている。それと同時進行的に菌類と藻類の共生は、根の発達、植物の木質化(リグニン化)をもたらし、植物が物理的な意味で陸上で定着することをを可能にしていったのだが(11)、このことは単なる進化の過程の一こまだった、というわけではない。植物の根と菌類の共生関係はとくに「菌根(Mycorrhiza)」関係と呼ばれるのだが、現在地上にある植物のほぼ97パーセントは、菌根菌との共生を営んでおり、それなしでは生存できないと言われている(12)。植物と菌類の関係はいぜんとして双務的であって、一方は他方に炭素を供給するかわりに、水・ミネラル・リンを補給してもらうのである。この関係は、植物が根を発達させたにもかかわらず、変わることがなかった。植物の根がいかに発達したものであっても、菌根菌の菌糸は、狭い孔空間を作り出して、根が届かない土壌の深部にまで達することができる。菌根菌との共生がある植物は、その関係を持たない植物にくらべて、吸収面が10倍も違うという(13)。植物にとって、陸上の乾燥化という事態はいぜんとして最大の脅威であって、菌類と縁が切れるなどということは金輪際ありえないのである。
 それにしても菌類(fungi)とはなんと偉大な働きをする存在であろう。リン・マーグリスはドリオン・セーガンとの共著『生命とは何か』の第7章で、菌類が支配する世界を「地球の肉体(Flesh of the Earth)」と呼んでいる(14)。その著書で明示されているわけではないが、「地球の肉体」とは「土壌」のことである。そして「土壌」は、菌類に代表される微生物の活動があるからこそ「土壌」なのである(菌類と藻類との、菌類と植物との共生進化は、そのまま「土壌」の発生・進化と重なり合うはずである。「土壌」も同時に進化したのである)。数的に見ればバクテリアほどではないにせよ、菌類は、有機物の分解・同化にかけては、バクテリアの2.5倍もの効率を示す(15)。たんぱく質や糖は言うまでもなく、セルロース、澱粉、リグニン、ゴムまでもが菌類の代謝の対象になる。このような有能で貪欲な働き手が、驚くべき数と多様性を示しながら、地中いたるところにそのネットワーク網を広げ、地中深くその菌糸を伸ばしている。この活動が、あの「インターフェイス」の一環、つまり、「岩石の世界」と「生命の世界」の交流を可能にし、‘humus’としての土壌を形成しているのである。


4.  共生という概念とその拡大


 「共生(symbiosis)」という言葉を何度か使ったので、それについてすこし触れておきたい。
 ‘Frankia’という類の放線菌は植物の根に侵入して人目につくほどの瘤をつくる。それは「窒素同定(nitrogen fixation)」という重要な役割を果たしていることで、土壌関係の書物では必ず取り上げられる菌類の一つである(16)。‘Frankia’という学名は、その発見者であるスイスの植物学者Albert Bernhard Frankに由来する(17)。フランクは、1880年代に、ロシア政府の委託をうけてトリュフの研究に着手したのだが、調査すればするほど、当時の支配的な考え方、つまり「菌類は(バクテリア同様)寄生的な存在にすぎない」という考え方に疑問を持つようになった。「寄生」は一方向の関係にすぎない。だが植物の根を見てみれば容易にわかることだが、フィラメント状の根毛と見えるものは、実は根から出ている菌類の菌糸である。しかも寄生ならば菌類は植物に実害を与えていなければならないが、どの植物も健康そのものである。そこでフランクは、この植物の根と菌が内密な共同体をなしていると考え、この結合体を単一の器官として捉えた。そしてこの器官を「菌根(Mycorrhiza)」と呼んだ(ギリシャ語の「菌」+「根」から合成された新語だったが、いまでは、既述の通り、学問的に定着している)。‘共生(Symbiotismus)’という術語を初めて導入し、その生物学的な意義をはじめて強調したのもフランクだった。この点については残念ながら評価されなかった。フランクが再評価されるようになったのは1990年代になってからのようである。とくに放線菌による窒素同定の研究などは先駆的すぎたのである。つまり狭い植物学の領域では一定の評価を受けたにせよ、その研究がより広い文脈において持ちうる意義については、誰も認識できなかったのである。
 共生という概念は大別して二つに分かれる。「内部共生」と「外部共生」である。「外部共生」は、菌類と植物の根のように、複数の種が密接な相互関係を形成するが、あくまで別の種であり続ける関係であるのに対して、「内部共生」のほうは、相互交流する複数の種が一体化してしまう(一方が、他方の宿主の体内に入り込むことによって一体化する)関係である。いずれの「共生」も生物学の主流の概念にはなりえず、とくに「内部共生」をめぐる歴史は嘲笑と攻撃に満ちていた。すでにフランスの細菌学者ポール・ポルチエは、1918年に、ミトコンドリアがバクテリアの共生に由来することを直感し、あらゆる生物が二つの異なった生物の結合によって生ずるということを宣言していたのだが、それは軽蔑の対象にしかならなかった。1927年、アメリカの解剖学者イヴァン・ウォーリンも同様の見解にいたり、バクテリアこそあらゆる生物の礎石であり、(ダーウィン的な「自然淘汰」ではなく)バクテリア同士の共生的結合によって生命の進化は説明されねばならないという見解を発表したのだが、やはりウォーリンが得たのも、正統派のダーウィニストからの嘲笑だけであった。この嘲笑の壁を破るには、細胞質の遺伝をめぐる難問が解かなければならなかった。真の意味での突破口を提供したのは1966年以降リン・マーグリスが発表した一連の論文だったが、マーグリスの洞察にしても進化論の正統派に受け入れられるにはかなりの時間を要したのである(たとえば、正統派の一人、リチャード・ドーキンスがマーグリスの見解に賛意を初めて表明したのは、1995年の著作においてであった)。
 この間の事情を説明するものとして、いくつかの要因を挙げることができるが、バクテリアについての知識の欠如が一つの大きな要因であっただろう。バクテリア研究の方法論が本格的なものになったのは、1970年代に入ってからのことだった。だからこの分野はまだ広大な処女地のようなものである。だが確かなことは、バクテリアをその原初の出現の様相において考えることは、生命と環境の関連を考えることでもある、ということである。最初期の様々な独立栄養性のバクテリアが果たしたことは、無機的原料から、ありとあらゆる代謝の道筋を作り上げることであった。言い換えるならば、生命に敵対的な環境から「生命圏」の土台を築くことだった。だがそれは同時に「大気圏」や「岩石圏」の生成でもあった。シアノバクテリアが光合成のメカニズムを携えて出現したことが大気の様相をいかに変えたかは、そのもっとも判りやすい例であるが、炭素、窒素、硫黄、リンの循環システムも、バクテリア間の数知れない内部共生・外部共生を通しての代謝活動の連鎖があって初めて可能であったはずである。
 この事態を、ラヴロックはまったく別の観点から追及していた。1970年代地質学者たちは、地球の大気圏にある二酸化炭素が低レベルであること(火星に比べ20分の1、金星に比べ30万分の1)を説明しようと苦心していた。二酸化炭素が火山にのみ由来し、岩石のケイ酸カルシウムとの結合によってのみ除去されると仮定したうえで、その生成と除去のプロセスに太陽と降雨が及ぼす影響を計算したところ、負のフィードバックが働いて大気中の二酸化炭素のレベルが低く抑えられることは確認されたが、計算の結果はじき出された数値は、現実の観測値よりも数10倍高いものであった。このギャップを埋めるために、ラヴロックが注目したのが土壌であった。土壌中の二酸化炭素の含有量を調べてみると、大気中のそれに比べて約30倍高いことがわかった。これが土壌中の生物の活動の所産であることは明らかであった。大気中の二酸化炭素レベルが上がれば地表の温度も上昇するが、それは地中の生物の代謝活動を促しそりいっそう多くの二酸化炭素が土壌中で除去されることにつながる。この負のフィードバックをそなえた二酸化炭素のサイクルにおいて、土壌の生物は基軸の役割を果たしている(18)。
「外部共生」を広い意味で解するならば、代謝物(代謝の化学的産物)が異なる生物間で共有される関係として理解することができる。代謝物が、菌根菌のように、物理的に密接な関係の中で共有されるか(狭い意味での「外部共生」)、あるいは物理的に離れていても水や空気を媒介にして伝達・共有されるかは、概念的に異なることではあっても、代謝物のサイクルだけを顧慮すれば同じことに帰着する。前者の狭い意味での「外部共生」から区別して、後者のタイプは「分散(diffuse)外部共生」と呼ばれる。光合成によって水分子から解き放たれた酸素が他の生物によって呼吸のために消費されるという酸素サイクルにおいて、そのサイクルに関与するシアノバクテリアと菌類は「分散外部共生」の関係に立っている、ということになる。土壌中の食物連鎖も、炭素サイクルの一環として見なしうるのであるから、「分散外部共生」として把握することができる。今日あるような元素のサイクルは、生物の「分散外部共生」という調整機構があって初めて可能となったという仕方で、ラヴロックの洞察を言いなおすことができる。ラヴロックの言う「ガイア」とは、「分散外部共生」によって調節される物質のサイクルをマクロレベルで捉えたもの、つまり「マクロ共生(macrosymbiosis)」によって媒介される地球システムのことである(19)。
 このように「ガイア仮説」と共生進化の考え方には共鳴しあうものがある。だからこそマーグリスとラヴロックがある時期から共同戦線を張るようになったのも自然の成り行きであった。だがいずれも(とくにラヴロックの見解)が従来型の思考法から大きく乖離したものを含んでいたために、この共同戦線はしばしば不信の念を増大させるだけに終わった。正統派にとって、生命は生命圏内部に限定されるべきものであるのだから、「ガイア仮説」などまったく不純なものに映ったのである。だがバクテリアを考えてみるならば、「生命圏内部」といった観念がいかに危ういものであるかすぐ判る。微生物学者ソリン・ソニアによると(20)、世界のあらゆるバクテリアは絶えず遺伝子を交換しあって、世界共通の情報バンクのようなものを形成している。そこで個々の菌株は「地球全体を覆う超生物(a global superorganism)」の細胞のようなものである。薬剤耐性菌のすばやい出現が示しているように、ある局所で起こった小さな変化はたちまち全体に波及し、「超生物」は個々の菌株が進化しコロニーを形成できるように、環境を変えていく。マーグリスによると、これこそ「生命が環境を変様していく仕方を述べたガイア仮説の完全な実例」なのである(21)。


5.「土壌の哲学」の意義


 以前の「土壌」の定義に戻ろう。土壌とはそれ自体で存在する何かなのではなく、「空気、岩石、水、生命のインターフェイス」である。その中心に生命の代謝活動がある。生物の共生の連鎖を通して物質が循環し、その結果として今日の大気が、水が、そして土壌が形成された。適切でない表現をあえて使うならば、空気、岩石、水、生命は一種の「マクロ共生」を営んできた、と言いたくなるほどである。土壌とは、そうした共生が行われる場なのである。このことを直感的に感じとる感性はかつて存在したかもしれないが、その直感を客観的な言語によって表明する知性は存在しなかった。イリッチが述べたように「土壌の哲学」はこれまで存在しなかった。この不在は、「創世記」以降の西欧の知的伝統において、いわば構造化されたものである。「土壌の哲学」が可能であるならば、それは、この伝統を遡っていって、「土(adamah)」に倣って「人(adam)」という言葉を創出した知性を取り戻さなければならない。それだけではなく、さらに、いかにして「人」が「土」から生まれたのか、その系譜を絶えず問わなければならない。いいかえれば、新たな「創世記」を書かなければならないのである。
 かつてハンス・ヨーナスは、グノーシス派の研究を通して、西欧の二元論的伝統に内在する破局的な傾向性に気づき、それを打破するための理論的支柱をダーウィンの進化論に求めた。ただし進化論といっても、批判的に再解釈された進化論である。特にヨーナスがこだわった点は、進化の道筋には二元性がないということであった。精神と物質を隔てる障壁は、生命現象において存在しない。ダーウィンの言う進化を逆転させて見るならば、最低次の生命体にも人間の精神と同質なものが存在しているのでなければならない。ヨーナスは『生命という原理』(22)でその主題を集中的に扱い、いわばバクテリアについての現象学的、実存主義的解釈をおこなった。それはまだ思弁の域を出るものではなかったにしても、原理的な道筋は正当であったように思われる。なぜなら、今日の生命科学の先端は、ヨーナスの洞察の先見性を実証しつつあるような方向に進んでいる、としばしば見えることがあるからである。これまで何度か引用したフランク・ライアンは、最近になって知られはじめたバクテリアの多才、創造性、柔軟性に直面して、それを適切に言い表すためには、「ゲノムの知性(genomic intelligence)」という概念を作り出す以外の選択肢をどうしても見出せなかった(23)。生命とは、そもそもの初めから、ある種の知性ではないか。それが、今日、生命進化の謎に新たな角度から取り組んでいる研究者が予感していることなのであろう。このことを、昔ながらの唯心論という罠に陥らずにいかに理論化するかということが、生物学の先端に現われてきた課題なのであろう。
「土壌の哲学」がありうるとすれば、それは、こうした「知性」が「1グラムの土壌のなかに10,000種」も含まれており、複雑な共生関係の網の目を通して土壌を作り出していることに驚嘆することから始めなければならない。そしてその「知性」が切り開いた進化の歴史から教えを請わなければならない。そしてそれが見事な共生のシステムを生み出していった道筋をさらに辿らなければならない。そのためにもまずわれわれは、イリッチとはすこし違う理由から、「謙虚な気持ちになって、土壌を見つめたいという気持ちに」なることが必要なのである。

 

1. Illich, Ivan in collaboration with Sigmar Groeneveld, Lee Hoinacki and other friends: "Declaration on Soil[1990] .",in Whole Earth Spring 1999.
2. Arendt,Hannah: “The Crisis in Culture”,in Between Past and Future,p.211-2.
3. The Catholic Encyclopedia, Volume I.Online  Edition . http://www.newadvent.org/cathen/01129a.htm.
4. The American Heritage® Dictionary of the English Language, Fourth Edition. http://www.bartleby.com/61/roots/IE104.html
5. Warshall,Peter: Four Ways to Look at earth, in Frodeman, Robert(ed): Earth Matters[2000], p.193.
6. Ryan,Frank: Darwin’s Blind Spot[2003], p.134.
7. Brady,Nyle C and Weil,Ray R: Elements of the Nature and Properties of Soils[2002], p.333.
8. Ibid., p.319.
9. Ibid.,p.13.
10. Ibid.,p.15.
11. Ryan,Frank, op.cit.,p.144f.
12. Ibid.,p.149.
13. Brady,Nyle C and Weil,Ray R, op.cit., p.336.
14. Margulis,L and Sagan,D : What is Life? [1995], p.,171ff.
15. Brady,Nyle C and Weil,Ray R, op.cit., p.334.
16. Ibid.,p.406.
17. http://www.bacterio.cict.fr/personalnames.html.
18. Lovelock,J.E.and Watson,A.J.: The Regulation of Carbon Dioxide and Climate:Gaia or Geochemistry?, in Journal of Planetary and Space Science 30[1982],p.795-802.
19. Ryan,Frank, op.cit.,p.175.
20. Sonea,S: Bacterial Evolution without Speciation, in Margulis,L and Fester,R.(ed): Symbiosis as a Source of Evolutionary Innovation{1991},p.95-105.
21. Margulis,L: Microcosmos[1997], p.101.
22. Jonas,Hans: Das Prinzip Leben[1973].
23. Ryan,Frank, op.cit.,p.15,138.


ものとは何か [最近の論文]

もの・言葉・思考
-形而上学と論理-
  三上真司






















プロローグ


 私が思考するとき、何が生じているのか。
これは第四章の題名であるが、本書の全体を表わす題名として選んでもよかったかもしれない。本書の目的は複数ある。一つは、「ものとは何か」、「存在とは何か」、「同一性とは何か」という三つの問い、そのどれもが「形而上学」的としか言いようのない問いであるが、この三つの問いをできるだけ単純化し形式化することにある。単純化し形式化するためには論理的な道具だてが必要不可欠である。したがって以下では論理学の概念と表記を少なからず用いることになる。それだけではなく主要テーマに対する接近の仕方に関しても、主として論理学に隣接した領域から着想を得ている。一九七〇年前後から論理学の基礎的なレヴェルで、「形而上学」や「存在論」といった古めかしい言葉が肯定的な意味で使われるようになったが、以下の論述もそのトレンドの一部を意識の片隅において書かれている。
 しかし本書は論理学そのものを主題にしているわけではない。論理はおそらく「思考」などしないし、「思考」は論理とは無関係に開始される。副題が示すとおり、本書は「形而上学」に一つの焦点を合わせている。上で挙げられた三つの問いを問うことがすでに形而上学的な行為であるだろうが、そもそも「形而上学」とは何か。「形而上学」には長い蓄積と変転の歴史がある。しかし以下では、「形而上学」についての多様な定義を比較したり、歴史的な変遷を概観したりするということは目指されていない。そのかわりに「形而上学的経験」とでも言うべきものをごく単純化して描いてみることに主眼を置く。「形而上学的経験」といっても、よくそう思われていることとは違って、神秘的なものでも非日常的なものでもない。単純化して言えば、それは「思考の経験」以上でも以下でもない。それは「思考」から始まり、「思考」で終わる。ただそれだけのことである。
 では、「思考」とは何か。そう自問することで、「思考」が自らの方に向き直るとき、「思考」に特有の無限後退の扉が開かれることになる。扉が開かれても、その向こうに何かがあるわけではないし、何かがあるとしても、「思考」以外の何ものもないだろう。おそらく「思考」は「…とは何か」と問いかけることしかできない。「思考」は無限に後退するしかない運動であろう。だから、「形而上学的経験」は「思考」から始まり、「思考」で終わると述べることはある意味で偽である。なぜならそれは「終わり」をもたないのだから。「…とは何か」と絶えず疑問に付していく行為があるだけなのだから。
「思考」とは何か。それに定義風の答えを与えることはできないだろうしし、そもそもこの問いから始めるのは得策ではない。だから、それに先立って、「思考」が具体的な「もの」に遭遇し、それについて問いかけ、それを言語化するという場面を、「ものとは何か」、「存在とは何か」、「同一性とは何か」という三つの問いにそくして考えてみたのである。いたる所で、「もの」と「言葉」と「思考」が錯綜して現われる。それをいかに単純化し形式化できるか、それが「形而上学」の発端であるとするならば、本書はその発端を言い表わそうとした試みであると言えるかもしれない。

























目次

Ⅰ  「もの」とは何か?  
   1. 狭義の「もの」と広義の「もの」 
2. 「実体論」vs「束理論」 元来のヴァージョン
3. 「実体論」vs「束理論」 今日的ヴァージョン 
4. 思考の空間と「もの」の名前
Ⅱ  存在とは何か?  
1. 非存在のパラドクス 
2. 名前から存在へ
3.  第一階述語vs第二階述語  
Ⅲ  同一性とは何か? 
1.  同一性のパラドクス
2.  同一性と内包性
Ⅳ  私が思考するとき、何が生じているのか? 
1.  私は考える
2.  「私は…」 








Ⅰ ものとは何か?


 1. 狭義の「もの」と広義の「もの」 


(1.11)     「ものとは何か」と問うことから始めよう。まず、「もの」という語に注目しよう。「もの」はあまりにも漠然とした言葉である。「もの」にはありとあらゆるものが帰属する。われわれの日常生活は無数の「もの」に取り囲まれているが、そうした具体的な「もの」ばかりか、われわれが考えたり想像する「もの」も「もの」である。観念的な「もの」は、現実の世界に拘束されることはない。実在しない「もの」も、「もの」の一種である。したがって「ありとあらゆるもの」だけが「もの」ではない。「あらぬもの」も「もの」であるかもしれない。
これではあまりにも茫漠すぎるので、「もの」の内部に何らかの境界線を引くことで、「もの」を扱いやすくしようと考えるのは自然の成り行きである。手もとにある国語辞書は、「もの」を「狭義のもの」と「広義のもの」に区分している。「感知し得るさまざまな属性の統一的担い手としてのまとまりをもった空間的・時間的対象。狭義には、このもの・あのものと指し示し得る「机」「家」など外界に存在する感覚的個物をいうが、広義には思考の対象となり、命題の主語となり得るすべて、例えば心や価値などの非感覚的存在をも含めていう」(『大辞林 第二版』 三省堂)。
これは手際よくまとめた説明である。ある意味でたいへん判りやすいのだが、判りやすさは判りづらさにすぐ転化しうるものである。「もの」は狭い意味と広い意味をもっているという。この「狭い意味・広い意味」とはどのような意味なのか。ただ単に範囲の広狭を意味しているのだろうか。だが狭義の「もの」と広義の「もの」は、同じ資格で「存在」しているとは言えないだろう。一方に当てはまる概念(たとえば空間的概念)が他方にも当てはまると考えるわけにはいかない。だから、たとえば、広義の「もの」が、狭義の「もの」にくらべてより「広い」範囲にわたって「存在」している、などとは言えないはずである。
おそらく理屈としてそうかもしれないが、狭義の「もの」と広義「もの」という区別には、とくに理屈をこねるまでもなく自然に受け入れられる何かがある、と多くの人は思うだろう。そこでこの区別を受け入れ、扱いやすい狭義の「もの」に限定したうえで「ものとは何か」と問うことにしよう、と。このような仕方でとりあえず議論を始めてみることは、たしかに一つの方法ではあるだろう。
しかしこのように狭義の「もの」に限定しても、「もの」の輪郭は必ずしも明瞭にはならないかもしれないし、そもそもそのような限定が可能なのかどうかということも実のところ疑わしい。「狭義のもの」と「広義のもの」の区別をふたたび考えてみよう。「広義のもの」とは「思考の対象となり、命題の主語となり得るすべて」だという。その「広義のもの」を差し当たり考察の範囲外においてみよう。残った「狭義のもの」だけを取り上げて、「ものとは何か」を考えてみることにしよう。だがそのときすでに一種の不整合が生じている。なぜなら、そのときすでに「もの」は「思考」の対象となっているので、狭義の「もの」へと限定するという意図は最初から守られていないからである。狭義の「もの」だけを「考える」ということは、厳密に言えば実現不可能である。狭義の「もの」とは、「思考」にとって可能な限り縁遠く、可能な限り「思考」の周縁に位置している何か、であるのかもしれない。それにもかかわらず、狭義の「もの」は、そのようなものとして「思考」される何かであることにかわりはない。


(1.12)     先に進むまえに、少し本題から外れたことを述べてみたい。先ほどの辞書の記述には、ある種のイデオロギーが含まれているように見える(イデオロギーと言っても、毒にも薬にもならないイデオロギーであるが)。狭義の「もの」と広義の「もの」という区分には、狭義の「もの」が本来の意味での「もの」であり、それが転義的に「思考の対象」に用いられることによって、広義の「もの」が派生するという序列関係がおそらく暗黙の前提として含まれている(辞書は、ある語が一般的にどのように使われているかを顧慮して、その語の意味を最大公約数的に記述しているだけであるとするならば、このイデオロギーは「一般的慣用」そのもののイデオロギーであるかもしれない)。この前提によれば、「もの」とは「思考」の対極に位置している何かなのであろう。
ただこのイデオロギーは太古の昔からあったというわけではないようである。たとえば、英語の‘thing’の語源を見てみよう。その元来の意味をたどると、「狭義のもの」とはおよそ関係のない意味に行き着く。つまり‘thing’とは、元来、「公共の集会(public assembly)」あるいは「法廷(law-court)」のことであった。そこから、そうした集いの場で扱われる事柄やそこで掲げられる大義という意味に転じ、やがて「人々が関心をもつ事柄」という意味に行き着いたようである(ドイツ語の‘Ding’は言うまでもなく、フランス語の‘chose’も同様の由来をもつ。また、ギリシア語の「カテゴリー」にも似たような由来を指摘できる)。公共の場で申し述べられ、熟考され、論じられるべき事柄が元来の‘thing’であった。‘thing’は公共の場で議論の対象とされるべき事柄であるから、具体的な個物とは必ずしも結びつかない。むしろ、「もの」は具体的でないからこそ公共的な議論の対象になるのである。
「もの」は、まず第一に、公共の場で「語られるもの」であった。したがって、あえて言えば、広義の「もの」のほうが本来の「もの」であって、「外界」にある「感覚的個物」としての「もの」はそこから派生したものである。「もの」は、「公共の集いの場で語られ、熟慮されるもの」から始まって、時の経過とともに、まるで貨幣が磨耗していくように、単なる「感覚的個物」へと次第に平板化されていったようである。
こうした語源の詮索が何の役に立つのかと言う人がいるかもしれない。たしかにそうである。それは、先ほどの国語辞書の説明と同程度の意味合いしかもたないかもしれない。ただし、狭義の「もの」を字義通りの意味で受け取らないための機縁にはなるだろう。狭義の「もの」と広義の「もの」、元来の「もの」と派生的な「もの」、本来の「もの」と非本来の「もの」。これらはいずれも思考が自らの対象を分節化して、思考自らの内奥と周縁、前景と後景を区別するための手立てである。おそらくこうした分節化が先行していない「もの」はないだろう。どれほど狭義の「もの」に視野を限定してそこから人間の観念的な関与を除外しようとしても、「もの」に刻印されている言葉や思考特有の形式をそこから取り除くことはできないだろう。「狭義のもの」という表現が、何よりもそのことを簡潔に示している。なぜならその表現には、「もの」から「思考」に関連する部分を取り除こうとする「思考」が込められているからである。


(1.13)     では、狭義の「もの」とは、ありえないものを意味しているのか。先ほどの辞書は、狭義・広義の「もの」の区別に先立って、「感知し得るさまざまな属性の統一的担い手としてのまとまりをもった空間的・時間的対象」という説明を与えていた。まるで、この説明が狭義・広義の「もの」のいずれにも当てはまるような書き方のように見える。しかし「空間的・時間的」という属性は「思考の対象」には妥当しない。ではこれは狭義の「もの」の説明なのだろうか。
他方で「感知し得るさまざまな属性の統一的担い手」という部分は、「思考の対象」にも当てはまる幅をもっている。私が昨日出会った人のことをただ単に思い浮かべて、中肉中背で黄色いポロシャツを着ていてスポーツ刈りだった…と記憶の糸を手繰っていくとき、私は彼を「属性の統一的担い手」として再現しようとしている。出会ったときの存在感はとっくに薄れ、日差しの下で光っているように見えたポロシャツの黄色も記憶の中で色褪せてしまい、私にできることは「中肉中背」、「黄色いポロシャツ」、「スポーツ刈り」という恐ろしくありきたりな属性を拾い上げることだけである。昨日出会ったときは握手することもできたあの彼は、いまや私の記憶の中で「属性の統一的担い手」にすぎないものと化してしまっている。
狭義の「もの」が「このもの・あのものと指し示し得る」ものであるならば、本質的に「狭義のもの」なるものは存在しないだろう。本質的に「あなた」であるような人、本質的に「このもの」であるような机、などというものはない。それらは、たまたま私の視野の範囲内に見出されるという偶然的属性を充たしているにすぎず、しかもそれらはすぐに過ぎ去っていく。私の中で、「狭義のもの」はすぐに視野から消えて「思考の対象」に場を譲る。後に残るのは、わずかな記憶と貧弱な言葉(「中肉中背」、「黄色いポロシャツ」、「スポーツ刈り」)だけである。
したがって狭義の「もの」と広義の「もの」という区別はあまり意義ある区別とはいえない(しかしまったく価値がないとも言えない。いずれこれに類する区別を以下の論証の中で使用することになるのだから)。とくに「ものとは何か」という問いは一般性をもった問いである。この問いは、「もの」が狭義であれ広義であれ、等しく当てはまるような一般性をもった言葉で提起され、解決されなければならない。そこで伝統的な形而上学が用意するのが「個体」、「属性」、「実体」等の概念なのである。

 
(1.14)     「ものとは何か」という問いの伝統的な形態を見てみることにしよう。そこで、「もの」は、しばしば「個体(individual)」、「特殊(particular)」という言い換えのもとで語られる。いずれも、「普遍(universal)」に対する「特殊」、「類や種」に対する「個体」というように、概念的な背景をそなえた限りでの「もの」が問題となるとき用いられる表現である。
「個体」と訳される西欧語(‘individual’〔英〕や‘Individuum’〔独〕)を取りあげてみよう。それは、元来「(それ以上)分割できない(in+videre)」という意味のラテン語に由来し、それはそれで「アトム」の語源であるギリシア語の‘atomos’(やはり「分割できないもの」という意味)に対応するものとして導入された語であった。生物学の系統樹のことを考えてみることが「個体」の概念を考えるうえでもっとも役に立つ。包括的な概念を表わすグループが複数のサブ・グループに分割され、そうした分割が複数回繰り返された末に最低次のクループに行き着く(たとえば「植物」から長い分岐をへて「バラ科バラ属」に至るように)。その最低次のグループは「最低種」と呼ばれ、概念上の「分割」はそこで終わりを迎えるのだが、ただし「分割」の最後の手続きとして、その「最低種」を表わす概念に属する個々の「もの」(たとえば目の前にある「このバラ」)を指摘することが残されている(それができなければ、その種概念は空集合になってしまい、「分割」の試みが空振りに終わったことになるだろうから)。その「分割」の最終地点が‘individual’である。したがって、‘individual’という語には、概念上の梯子を降りていって、もうそれ以上は進めない地点にあるものという意味が込められている。
「個体」は概念の梯子の最低次に位置しているわけであるが、最低次にあるとはいえ、それが概念の梯子に属していることにはかわりがない。「個体」とは概念的な観点から見られた「もの」のことであり、個体を構成する概念的要素との関係が問われる「もの」のことである。目の前にある「このもの」を指して「バラ科バラ属に属する」と言うとき、それは「このもの」を特定するための有力な(もっとも有力な)方法の一つだが、それで「このもの」が言い当てられてしまうわけではないし、他にたくさんのバラがある場合「このもの」を他のバラから分離することはできない。そのためには、たとえば、「鮮やかな黄色のイエローアイランド」と補足しなければならないかもしれない。イエローアイランドが多数あるならば「右から三本目にある」などと、さらに補足しなければならない。
「このもの」を指して、「右から三本目にある鮮やかなイエローアイランド」と言うとする。このことを少し回りくどく言い直すと、「これ」という個体は、「右から三本目にある、鮮やかな黄色の、イエローアイランドと呼ばれる」という属性(property)をもつ、と言い換えることができる。個体は属性をもつ。個体はさまざまな属性によって構成されている。「ものとは何か」という問いは、個体としての「もの」が構成されているあり方を問う。個体はこうした属性によって余すことなく構成されているのか否か。つまり、個体とはこうした属性の集合体なのか(あるいは、そういう集合体にすぎないのか)、それとも個体は、あくまでこうした属性とは別個の構成要素によって特徴づけられているのか。では属性ではない構成要素とは何か。これらの問いが、「ものとは何か」という問いの伝統的な形態なのである。



2. 「実体論」vs「束理論」 元来のヴァージョン


(1.21)      「ものとは何か」という問いに関して、以下では二つの代表的な見解をとり上げる。そのいずれの見解にとっても、「個体」はさまざまな「属性」によって構成されているということが最低限の前提である。それ以上の前提がさらに必要だろうか。そこが分岐点となる。
 目の前にカラーボールがあるとする。それは、もちろん球形で、赤い着色がほどこされていて、50グラムの重さで、直径10センチで…等の「属性」を持っている。ただしこのボールは緑色でもよかったかもしれないし、直径8センチでもよかったかもしれない。汚れれば鮮やかな赤はどす黒く変色するかもしれないし、しぼんで小さくなってしまうかもしれない。だが、どのような属性上の変化があったとしても、「このボール」は「このボール」であると言う人がいるかもしれない。その人は、いま問題になっている「このボール」はおそらく外見を変えただけなのだ、と言うだろう。「球形で、赤い着色がほどこされていて、50グラムの重さで、直径10センチで…」という属性をもつ「このボール」は、そのような属性をもたなくても「このボール」である。
だが今の言い方には少し無理があるかもしれない。目の前にある「このボール」は、あくまで「球形で、赤い着色がほどこされていて、50グラムの重さで、直径10センチで…」という属性によって特徴づけられる限りでのボールである。そうした属性が変化していくとき「このボール」も別の「もの」に変化する、と言うべきではないのか。時間の経過とともに、「このボール」は「あのときのボール」に変わり、「いまのボール」は「あのときのボール」とは似ても似つかない姿になるかもしれない。変わり果てたボールも、やはりさまざまな属性によって構成されている。ただし、その時々でボールを構成する属性は変化するが、その属性を「担っているもの」は変化しない、と考えることには一理ありそうである。そう考えなければ、目の前のしぼんだボールを指して、「このボールもあの時は張りがあってよく弾んだのに」等のことがどうして言えるだろうか。あらゆる属性には、それを「担うもの」(英語で言えば‘bearer’)がなければならない。この「担い手」は、個体の「属性」ではありえないだろう。もし「属性」の一種であるならば、その「担い手」をさらに担う何かがなければならないだろうが、これでは無限にどこまでも続き収拾がつかない。それよりも、「属性」とその「担い手」との間に絶対的な区別を立てるほうが簡明であり健全である。つまり、「担い手」そのものはいかなる属性からも独立している何かである、と考えるのである。したがって、「担い手」そのものは赤くも丸くもなく、重さも直径ももたない何かでなくてはならない。この「担い手」は特殊な名前で呼ばれてきた。つまり、「実体(‘substance’)」あるいは「基体(‘substratum’)」という名前で呼ばれてきた。いずれも「下に(‘sub’)立つもの(‘stance’、‘ stratum’)」が原義である。さまざまな属性の「下に」あって、それらを支えるもの、しかしそれ自体はいかなる属性も含んではいないもの、という意味が込められている。とくに「いかなる属性も含んではいない」という意味合いを強調して(そしてしばしば悪い意味を込めて)、「裸の基体(‘bare substratum’)」と呼ばれることもある。


(1.22)     「実体」(あるいは「基体」)は、一切の「属性」を欠いている。目の前の「このボール」にそくしてわれわれが知覚できるのは、その赤い色や球形という形状や重さや大きさ、要するに、ボールの「属性」である。そうした「属性」を何らもたないとされる「実体」や「基体」は、われわれが知覚できるものではない。つまり、あくまで観念上のものである。それに対する不信感が「裸の基体」という表現には込められている。「もの」は、「属性」と「実体」(あるいは「基体」)から成り立っていると考える立場は「実体論(substance theory)」と呼ばれる。そしてこの考え方対して不信感をもつ人にとって、「実体」は存在しないのだから、「もの」は「属性」だけから成り立っている、ということになる。つまり「もの」とは「属性」の集合体にすぎず、デイヴィッド・ヒュームの言い方を借りるならば、「属性」の「束(bundle)」にすぎない。この立場を「束理論(bundle theory)」と呼ぼう。この二つの理論は、どちらもそれが提起されるだけの利点をもっているし、また反論されるだけの短所ももっている。また両者は妥協の余地がない対立関係に立つために、果てしのない相互批判という形態を取らざるをえない。この論争は、実に、今日でもまだ続いているのである。
 「実体論」vs「束理論」の対立を、新旧二つのヴァージョンにそくして見ることにする。まずは古典的なヴァージョンを紹介する一環として、デカルトと経験論(バークリーおよびヒューム)を取りあげる。もう一つは(これは次節で述べることになるが)、この対立関係が今日においてとるヴァージョン、「論理的」ヴァージョンである。


(1.23)      デカルトは『省察』の第二章で「ものとは何か」と問いかけ、目の前にある蜜蝋を例にして説明をしている。デカルトが目の前にある蜜蝋を例にとるのは、概念的な「もの」ではなく、「われわれが触れたり見たりする物体」について語りたいから、つまり、前に触れた言葉をあえて使うならば、「広義のもの」ではなくて、「狭義のもの」について語りたいからなのである。

 「たとえば、この蜜蝋をとってみよう。これは、いましがた蜂の巣からとりだされたばかりである。まだそれ自身の蜜の味をまったくは失っておらず、もとの花の香りもなおいくらかは保っている。その色、形、大きさは明白である。固くて、冷たく、たやすく触れることができる。なお、指先でたたけば、音を発する。結局、ある物体をできるだけはっきり認識するために必要と思われるものは、すべてこの蜜蝋にそなわっているのである。
 しかし、こういっているうちに、この蜜蝋を火に近づけてみるとどうであろう。残っていた味はぬけ、香りは消え、色は変わり、形はくずれ、大きさは増し、液状となり、熱くなり、ほとんど触れることができず、もはや、打っても音を発しない。これでもなお同じ蜜蝋であるのか。そうである、と言わなければならない。だれもそれを否定しない。だれもそうとしか考えない…」(René Descartes:Les Méditations, Ⅱ, para12)。

デカルトは、『省察』の中で「実体」や「属性」といった言葉を使用してはいないのだが、この箇所は「実体」を導入するための典型的な手順を簡潔に描いてみせている。つまり、「もの」の「属性」を数えあげる→その「属性」をすべて変化させる→「属性」の変化にもかかわらず「もの」の同一性が保たれていることを認めさせる、という手順である。後は、「もの」の同一性を保障する「属性」の「担い手」を呼び出してその正体を明らかにするだけ充分である。それによって「ものとは何か」という問いは終結を迎える。
この蜜蝋の例は、デカルトが述べているように、たしかに「だれもそうとしか考えない」ほどの明瞭さをそなえている、と言えるかもしれない。しかし「だれもそうとしか考えない」のは、あくまで、属性の変化にもかかわらず「この蜜蝋」の同一性が保たれている、ということ以上でも以下でもない。その同一性は、同一にとどまる「実体」を想定すれば一応説明はつくだろうが、それが唯一の方策ではないし、「実体」を想定しない説明も可能であるだろう。たとえば、ⅰ)実はすべての属性が変化したわけではなく、蜜蝋の何らかの(目に見えない)「化学的」属性が保たれているために、蜜蝋の同一性は損なわれることはないのだという考え方。あるいは、ⅱ)かりに化学的属性を含めたすべての属性が変化したとしても、固体の蜜蝋と液化した蜜蝋との間に時間‐空間的連続性が成り立っていることは容易に認識できるのであるから、その連続性が蜜蝋の同一性の認識を可能にしているのだという考え方等々。


(1.24)     ほかにもまだ蜜蝋の例を別様に解釈することは可能であろうが((1.28)でやや詳しく見ることにする)、デカルトは、「実体」を認めないどのような解釈も拒絶したことだろう。なぜならデカルトにとって、「属性」があるならばそれを担う「実体」は存在しなければならないのであるから。それは、デカルトの哲学にとっての「公理」のようなものである。このことは、かの有名な「私は考える、ゆえに私は存在する」という命題を取りあげることによって、明らかになる。この命題は、次のような論証形式によって支えられている。

(ⅰ)ものは、その属性と、その属性が帰属する実体から成りたつ。[前提]
(ⅱ)属性が存在しているならば、その属性が帰属する実体も存在していなくてはならない。[(ⅰ)より]
(ⅲ)思考は一つの属性である。[前提]
(ⅳ)思考が存在しているならば、それが帰属する実体も存在している。 [(ⅱ)と(ⅲ)より]
(ⅴ)思考は存在する。[このことは、たとえば「私は考える」から直接明らかである]
(ⅵ)この思考が帰属する実体は存在する。すなわち、「私」は存在する。[(ⅳ)と(ⅴ)より]

「私は考える、ゆえに私は存在する」が、この(ⅴ)から(ⅵ)への推論のヴァリエーションであることは容易に見てとれる。だがこの推論の妥当性は昔から疑問視されてきた。たしかに(ⅰ)から(ⅴ)の前提をかりに認めるならば、(ⅵ)は演繹的に導き出されるように見える。しかし、

Ⅰ) 判りやすくするために、(ⅴ)を「思考は存在する。たとえば、現にいま私は考えている」と言いかえてみよう。すると「この思考が帰属する実体は存在する。すなわち、私は存在する」が導き出せるように見えるかもしれない。しかしそう言いかえてしまうと、(ⅵ)の帰結で初めて証明されなければならないこと、つまり「私」の存在を、(ⅴ)ですでに前提してしまうことになる。これは、論証過程で犯してはならない誤りの一つ、「論点先取」の誤りを犯すことである。
Ⅱ) 論点先取を避けるためには、論証の過程で一切「私」に言及してはならないことになる。すると(ⅰ)から(ⅴ)までを前提とするならば、導き出せるのは「思考が帰属する実体は存在する」だけであって、「すなわち、「私」は存在する」の導出は不可能となる。「私」の存在を帰結部分で唐突にもち出すのは論証として不適切である。また、かりに私が死んでなおかつ私以外の誰かが思考しているならば、(ⅴ)と(ⅵ)の前半部分は成り立つが、「私は存在する」は偽である。また、かりに私が確固たる唯心論者で霊魂の不滅を信じて疑わず、「私が考えるとき、実は、私の中にある不滅の霊魂が考えているのだ」と信じているならば、(ⅴ)と(ⅵ)の前半部分から「ゆえに不滅の霊魂は存在する」という帰結を引き出しても良いということになりかねない。「私は存在する」は、一義的な明瞭さをともなって、先行する論証部分に基づいて証明されているわけではない。
だから、「私は考える、ゆえに私は存在する」の論理的不整合は明白であるように見える。だが、この命題は、デカルトにとって「必然的に真」である命題と見なされている。このギャップは埋めることができるだろうか。デカルトにとって、蜜蝋の例は「だれもそうとしか考えない」ほどの明白なことを指し示している。つまり「もの」の実体性を指し示している。(ⅰ)から(ⅵ)(の前半部分)の論証は蜜蝋の例を論理的に展開したものであるから、それは、蜜蝋の例とまったく同じ自明性をもっている。「私」も一個の「もの」である。もし私が「思考」していることが疑いえないならば(実際そうなのだが)、「思考」の「担い手」である「私」も存在していなければならない。たしかにこれほど明白なことはないように見える。
だがそのように言えるのは、「思考」している「私」を「もの」の一種として考え、「思考」をその「もの」の属性として捉える限りでのことである。だがこのことは、控えめに言っても、明白であることから程遠いように思われる。デカルトがそのような疑念にとらわれないのは、「私」や「思考」を、すべて「ものとは何か」に対する特定の答えに還元して理解していたからであり、そのことになんらの懐疑の目も向けなかったからである。この理解の仕方は、たしかに、論理的に首尾一貫していた。(ⅰ)の実体論の前提がなかったならば、そもそも「私」についてのいかなる言明も可能ではなかっただろう。
こうしてデカルトの思考においては、「もの」の形而上学的構造がまず疑いえないものとしてあって、その自明性が「私」や「思考」にいわば演繹的に分け与えられるわけであるが、それはまるで「思考」が「もの」の前ではうやうやしく立ち止まらざるをえないかのようであり、「もの」にたいして「思考」はいわば思考停止の状態に陥らざるをえないかのようである(デカルトの『省察』については第四章でふたたび立ち返ることになるだろう)。


(1.25)     「ものは、その属性と、その属性が帰属する実体から成りたつ」という大前提は、デカルトにとって、「精神」にも「物体」にも等しく当てはまるものと見なされた。だがバークリーやヒュームは、まさにこの前提を掘り崩すことから始めた。「もの」は属性の集合、あるいはイギリス経験論において愛用された言葉を使うならば「観念」の集合であり、あるいはヒュームの表現を借りるならば「知覚の束(bundle)」であり、そしてそれに尽きるのである。
 この観点に立つならば、「実体」なるものは「虚構」であるだろう。もっとも、「虚構」という言葉は、始末に負えない言葉である。「観念」も「虚構」の一種であると言える余地はある。したがって「実体」に代えて「観念の集合」をもち出すのは、ある虚構を別の虚構に置き換えるだけという結果になる恐れがあるのだが、以下に紹介するバークリーの説明における「観念」は単純そのものである。それは、すべて「属性」の言いかえなのである。

 「視覚によって、私は、様々な度合いと変動をともなった光と色彩の観念をもつ。触覚によって、私は、固いと柔らかい、熱と冷たさ、運動と抵抗を知覚する…。嗅ぐことは私に臭いを提供する。舌は味を提供する。聞くことは、精神に音を、音色や配列が多様である音を伝える。そしてこれらのいくつかが相伴っていると観察されるとき、それらは一つの名前によって印づけられ、一つのもの(one thing)として見なされるようになる。たとえば、ある種の色、味、香り、形、固さが、一つに集まっている(go together)ことが観察されたとき、他とは異なった一つのもの(one distinct thing)として考えられ、りんごという名前によって表示される。観念の別の集合は、石や、樹木や書物やそれらと同様の感覚的なものを構成する…」(George Berkeley: A treatise concerning the principle of human knowledge, paragraph 1)。

 この説明は、「もの(thing)」についての説明なのであろう。しかも感覚される「もの」についての説明なのであろう。感覚は「もの」の観念を、言いかえれば「もの」の属性を提供する。それらの属性が「一つに集まる」ことが観察されるとき、一つの「もの」が構成される。だが同時に「名前(name)」も構成されるのである。バークリーにおいて、「もの」について説明することは、ものの名前の意味を説明することと等価であるらしい。「もの」としてのりんごについて説明することは、「りんご」という語を使うにあたって何をすべきか、あるいは事実としてだれもが何をしているか、を記述することである。「りんご」とは何か、という馬鹿馬鹿しい問いかけがあったとする。その問いに対して、それは赤くて、固くて、甘酸っぱい香りがして…等の属性を数えあげる以外のことはだれも思いつかない。ある言葉の意味を考えるということは、たいていの場合、そうした属性の集合を思い起こすことである。この「観念」が何らかの意味で「一つになっていること」が言葉の意味を構成し、ひいては「もの」のあり方を構成している。両者は不可分である。「もの」は、それが感覚的に知覚されるときですら、すでに言葉として、しかも誰もが共有している常識的な語義として立ち現れる。われわれが「もの」を見るとき、「もの」はすでに「語られるもの」なのである。


(1.26)      すこし余談に逸れるが、次の点を補足しておこう。バークリーにとってこういう観念論的説明は「精神」に適用されない。
 「観念のこうした際限もない多様性のほかに…それらについての知識をもったり知覚したり、意志や想像や記憶といった多様な知的働きを行使するものがある。この知覚する能動的な存在は、私が心、精神、魂あるいは私自身と呼ぶものである。これらの言葉によって私が指し示すのは、私のいずれの観念でもなく、観念とはまったく異なるものであって、その中に(wherein)観念が存在するもの、あるいは同じことだが、それによって(whereby)観念が知覚されるものである。なぜ同じかというと、観念の存在とは知覚されることに存するからである」(Berkeley,op.cit, paragraph 2)。
したがって、「もの」=「観念の集合」という図式は「心、精神、魂あるいは私自身」には適応されない。これはどういう意味なのか。たとえばバークリーが「私自身(myself)」と呼ぶものは「もの」ではない、ということなのか。「私自身」とは観念を知覚する当のものなのだから、その「私自身」についての観念や知覚はありえないということなのか。だが事実として、「私自身」についての観念や知覚をもつことはできる。というより、「私自身」を捉えることができるのは、「知覚」をとおしてである。後にヒュームは、そのことをまことにそっけない言葉で言い表した。
「私が、私自身と私が呼ぶものの奥深くに入っていくとき、私がつねに遭遇するのは、熱いや冷たい、光や陰、愛や憎しみ、苦痛や快といった何か特定の知覚である。いついかなる時でも、私は知覚なしに私自身を捕まえることは決してできないし、知覚以外の何ものをも観察することは決してできない」(David Hume: A treatise of human nature,PartⅣ Sect.VI)。
「私自身」と呼ばれるものも、「熱いや冷たい、光や陰、愛や憎しみ、苦痛や快といった何か特定の知覚」の集合、束にすぎないとヒュームは言いたいわけである。通常、「実体論」の否定、つまり「束理論」の考え方を、バークリーは「物体」だけに適応し、ヒュームは、「物体」のみならず「精神」にも拡大した、と評されることが多い。だがヒュームがバークリーの「不徹底」を批判できたかどうかはそれほど明白ではない。バークリーの言い分が、かりに「私自身」についても「知覚」という接近方法しかないとしても、「私自身」を知覚する「私」は知覚されているわけではないし、知覚される「私」と知覚する「私」は別物であるという言い分であるとするならば、ヒュームの批判はバークリーに当てはまらないかもしれない。上の引用文の「私が、私自身と私が呼ぶものの奥深くに入っていくとき、私が…」における「私」と「私自身」の間に同一性は成り立っていないように思われる。「私」は「私自身」に入りこむ。「私」は、「私自身」がその時々の「知覚の束」にすぎないことを見出す。そのときの「私自身」とは観察対象としての「私」である。だが観察する「私」はどうなのか。諸事実を観察し、そこから一定の帰結を導き出す「私」もまた知覚の束にすぎないのであれば、なぜことさら「私」と言わなければならない必要があるのだろうか。それは知覚の束にすぎないのであるから、非人称の誰かあるいは何か、で良いはずである。そうであるとしても、「私自身の奥深くに入っていく」という言葉を書きつけるその「誰かあるいは何か」は、やはり「私自身」とここで呼ばれているものとは別物である、と言うほかはない。ヒュームはたしかにバークリーの考え方を拡大したのだろうが、それはいささか単純かつ無邪気な拡大の仕方であった。だが「私」については第四章で述べることにするので、ここでこの点に深入りするのは控えることにしたい。

(1.27)     いずれにせよ、バークリーとヒュームにとって、「もの」とは知覚の束であり、観念の集合である。言うまでもないことだが、バークリーとヒュームは「経験論(empiricism)」を代表する哲学者であると言われる。だが、「もの」の構成要素として「実体」(あるいは「裸の基体」)をあげる立場に比べて、「もの」を観念の集合と見る立場の方がわれわれの日常的な「経験」に忠実な考え方だと言えるのかどうかは疑わしい。「経験」という言葉をあえて使うとしても、この「経験論」が問題にしている経験とは「思考」の経験であろう。
われわれが思考に従事するとき、つまり、「もの」が不在であるにもかかわらずわれわれが「もの」について思考するとき、われわれが経験するのはその不在の「もの」が立ち現れる仕方である。それを「経験論」は「観念」として語る。「観念」は部分的な仕方でしか与えられず、他の「観念」による補完を求める。それらがある種の一体性を獲得するとき、不在の「もの」として「思考」によって捉えられる。その一体性に対してわれわれは特定の言葉を付与する。あるいは、その一体性がその言葉の意味であり、その意味をとおして「もの」がわれわれに与えられる。すでに見たことから明らかなように、バークリーが「もの」について与えた説明は、言葉の意味についての説明でもあった。思考の経験において、「もの」は、「もの」の語義を通してしか立ち現れない。「もの」と「言葉」は、「属性の集合」という仲立ちをとおして相互に反映し合う一対の合わせ鏡のようなものである。このことを一面から言うならば、「もの」とはまず「思考」において語られるものであって、それに尽きる。たとえ「もの」が眼前にあって鮮明に知覚されているとしても、それに尽きるのである。デカルトも「思考」の経験の内部に徹底してたてこもった人だが、「たとえば、この蜜蝋をとってみよう」と述べたとき、思考の内部から唐突にその外部にとび出ていたようだ。ごく単純明快な意味で蜜蝋という「もの」があり、それが属性的に変化していくことを万人と同じ目線でデカルトは記述している。そこから「だれもそうとしか考えない」という万人のお墨付きが結実として得られるわけである。この点については後の(1.44)でまた立ち返ることにして、次に「実体論」vs「束理論」の対立をごく一般的な仕方でたどってみることにしよう。


(1.28)  「実体論」の原型は、デカルトの蜜蝋の例に簡潔に描かれているが、そこには「束理論」に対する反論の原型も見出しうる。かりに「もの」が「属性の束」にすぎないのであれば、その「属性」がすべて変化した後でも「同一の」蜜蝋であると言えるのはなぜかを「束理論」は説明しなければならない。それはたしかに難しいように見える。そもそも「もの」の「変化」を言うことが不可能であるように見えるからである。
かりに熱する前の蜜蝋を構成する「属性の束」を‘ABCD…’として、熱した後の蜜蝋の「属性の束」を‘A’B’C’D’…’と表記してみよう。起こったことは、‘ABCD…’の‘A’B’C’D’…’への変化である。デカルトの目の前にあって「これは、いましがた蜂の巣からとりだされたばかり」と述べられた蜜蝋をaと表記する。「束理論」によれば、a=‘ABCD…’なのだから、‘A’B’C’D’…’の集合はもはやaと表記されることはできない。それはせいぜいa’と表記されるしかないだろう。このことは、同一の「もの」の「変化」と言うよりも、aという「もの」がa’というまったく別の「もの」に置き換わったことを意味するだろう。だがこれはわれわれの直観に反する。明らかに同一の「もの」が変化したのであって、この点については「だれもそうとしか考えない」。だから「束理論」的な考え方は否認されなければならない、とデカルトならば言うだろう。
だがこのような反論に心を動かされる「束理論」の支持者はおそらく皆無だろう。蜜蝋(=a)が‘ABCD…’という属性の集合をもっていた時点をtとして、熱せられた結果‘A’B’C’D’…’という集合が目の前に見出される時点をt’としよう。「束理論」の大前提を「ものは属性の束である」と単純に捉えるならば、たしかに時点tから時点t’の間に全面的に変化してしまった蜜蝋の同一性を、「束理論」は説明することはできない。それは、「束理論」が「もの」の説明をするときに、時間という要因や変化と同一性といった要因をさしあたり考慮に入れないからである。
「束理論」は、時点tにおける蜜蝋(=a)を捉えて、aは{ABCD…}という属性によって構成されていると言い、時点t’における蜜蝋(=a´)を捉えて、a´は{A’B’C’D’…}によって構成されていると言う。その主眼点は、各時点における個体のあり方に対して、その構成要素を申し立てることにあり、それに尽きる。したがって「束理論」の原則は次のように定式化されるべきかもしれない。つまり、「ある時点における「もの」とは、そのときたまたま相互に関連しあっている属性の束である」(これを「改訂版(の「束理論」の原理)」と呼ぼう)。
では、変化しながら同一性を保つ「もの」はどうなるのか。その「もの」は、たんなる属性の束として捉えることはできない。そう批判するとき、「実体論」は、ⅰ)各時点での「もの」のあり方と、ⅱ)時点間で変化しながら同一性を保つ「もの」のあり方に対して同じアプローチがとられなければならない、と前提しているのである。たしかに「実体論」は、ⅰ)に関しては、多様な属性を一つに束ねるという役割を「実体」に帰し、ⅱ)に関しては、変化にもかかわらず維持される同一性の根拠を「実体」に帰する。つまりⅰ)とⅱ)に同じアプローチを適用しているのであり、同じことを「束理論」にも要求するのである。そして「束理論」に対して、その要求を満たすことができないといって批判するわけである。
だが見やすい道理というものだが、ⅰ)とⅱ)に対して同じアプローチをとらなければならない、という理由は存在しない。「束理論」が本来の「もの」として認めるのは各時点における(いわば瞬間的な)「もの」である(「改訂版」の「もの」)。時点をまたぎ越して持続的に存在するものを「もの」と呼んでいいとしても、それに「改訂版」の原理は当てはまらない。かりにその「もの」を、拡張された意味での「もの」(=Ⅹ)と呼ぼう。Ⅹは、たんなる「属性の束」ではありえない。各時点の「もの」が「属性の束」によって構成されているのであれば、Ⅹは「属性の束の束」によって構成されたもの、と見なさなければならない。つまりⅩは、{a(={ABCD…})、a’(={A’B’C’D’…})、a’’(={A’’B’’C’’D’’…})、…}という集合の集合によって構成されたものである。「束理論」にとって、aのあり方が{ABCD…}という集合によって申し分なく記述されるのと同じように、Ⅹのあり方は{a、a’、a’’、…}という集合の集合によって申し分なく記述される。「束理論」は「もの」の変化を捉えられないという反論は、「束理論」についての不当なまでに狭い解釈に基づいている、と言えるだろう。


(1.29)     デカルトの蜜蝋は、時点tにおいて、{固い、冷たい、たやすく触れることができる、…}という属性の集合として私に現れた。時点t´では、{液状で、熱く、容易に触ることができない、…}という属性の集合として私に現れた。両者の集合は、両立できない一対の要素によってそれぞれ特徴づけられている。それにもかかわらず、両立できない集合間に何らかの同一性が成り立っているとすれば、その同一性は属性の概念によっては説明できず、属性上の変化の背後(あるいは根底)に求められなければならない、というのは本当だろうか。蜜蝋はあるときは{ABCD…}として、あるときは{A’B’C’D’…}として現れると述べるだけで事足りるのではないだろうか。もっとありふれた例を考えてみよう。私は直方体の消しゴムを手に持っている。それを軽く空中に放ってみる。消しゴムは、放物線の軌跡を描いて、一瞬のうちに細長い直方体から、幅のない長方形のように、あるいは鋭角的なひし形のように見えながら、直方体としてもとの手のひらに収まる。この瞬時の出来事の諸断面は、{…、直方体、…}、{…、幅のない長方形、…}{…、鋭角的なひし形、…}という属性の集合として記述できる。これらの集合は、それぞれ内容的に異なってはいるが、属性があい集まってこの消しゴムという一つの全体を構成するという点で、その全体に対して同じ関係に立っている。このことを連続的に意識することが消しゴムという「もの」についての知覚であるならば、「もの」の同一性は、属性の集合を次々と知覚することからおのずと浮かび上がってくるものである、と言うだけで充分であると「束理論」は考える。属性の集合の背後あるいはその根底(sub+stance)を求める必要はないのである。
「束理論」にとって、「もの」は私にとっての「現われ」(経験論が言うところの「観念」)、その「現われ」の中で示される属性の集合という概念によって説明し尽くされる。「もの」が私にどのように現われるか、ということはある意味で私の経験にとってもっとも身近な出来事であり、「束理論」はその内部に踏みとどまる。この観点から見るならば、「実体」という概念は「現われ」の次元を一挙に捨象してその背後あるいはその根底にある(sub+stance)と想定されるものである。言いかえれば、言葉の元来の意味での「仮設(hypothesis)」、つまり、「下に(hypo)置かれたもの(thesis)」であり、それ以外のものではない。この「仮設」という概念が「実在」に関連づけて考えられるとき、「実体論」vs「束理論」の対立は、「実在論」vs「観念論」の対立となって現れる。これまでの論述は、その古典的な側面の一部を粗描したものであった。
しかし、「実体論」vs「束理論」の対立は、その古典的な側面で尽きてしまうものではない。二〇世紀の後半ともなると、この対立は論理的な観点から論じられるようになった。次にこの新しいヴァージョンを見ることにしよう。



3. 「実体論」vs「束理論」 今日的ヴァージョン  


(1.31)      「実体論」vs「束理論」の対立が、二〇世紀後半になって「論理」という「新たな皮袋」に入れられたとき、一見その対立とは何の関係ももたないように見える「不可識別者同一」の法則に決定的に重要な意義が帰されるようになった。
ある考え方によると、ⅰ)「束理論」は「不可識別者同一の法則」を受け入れざるをえないが、ⅱ)「不可識別者同一」の法則は誤っているので(すでにマックス・ブラックが論証したように)、ⅲ)その法則を受け入れざるをえない「束理論」も誤っている、ということになる。このようなタイプの論証が、「実体論」と「束理論」の間で交わされる論争の最近のあり方に大きな影を落としていることについては、Micheal J.Loux: Metaphysics. A contem-
porary introduction, second edition,P.111f. Dean W.Zimmer-
man: Distinct Indiscernibles and the Bundle Theory, in Mind, vol.106(1997)等がよい実例を示している。この論争全体を概観するためには、まず、「不可識別者同一」の法則についての知識が必要である。この法則の適切な理解のためには論理的な定式化が不可欠なのであるが、しばらくは直観的なレベルにとどまって説明をすることにしたい。

「不可識別者同一(The Identity of Indiscernibles)」の法則については、いく通りもの定式化が可能である。そのどれを選ぶかという問題に時間を費やさないために、上記のマイケル・ルーの著作における定式を、ある理由からそのまま利用させてもらう(どのような理由かは後に判る)。さすがに日本語だけでの理解は困難なので、英語の原文もあわせて記すことにしよう。ルーの理解する「不可識別者同一」の法則を(IIn)と略記するならば、それは次のように定式化される。

(IIn): どのような具体的な対象 aと b に対しても、次のことが必然的に成り立つ。つまり、「どのような属性Φに対しても、Φがaの属性であるのは、Φがbの属性である時であり、そしてそのときに限るのであるならば、a はbと数的に同一である」ということが必然的に成り立つ。
(IIn): Necessarily, for any concrete objects, a and b , if for any attribute, Φ, Φ is an attribute of a, if and only if Φ is an attribute of b, then a is numerically identical with b.

 これは、このままの形では理解することが困難であろう。だがこれは論理学の約束事に沿った表現なので、その約束事を理解すれば多少は理解しやすくなるはずである。最初の「どのような具体的な対象 aと b に対しても、次のことが必然的に成り立つ」の部分は説明の必要はないだろう。それに続く箇所を一つの全体としてみるならば、それは、‘if …… ,then ------’という形式になっている。これは、論理的には、‘M⇒N’(「MならばN」の意。ただしM,Nは任意の命題)と形式化できる条件文である。‘ if ……’の条件節の内部は、‘ …… if and only if ------’という形式になっている。これは、論理的には‘M⇔N’(「MならばN」かつ「NならばM」、あるいは「MとNは論理的に同値」の意)と形式化される「双条件」あるいは「同値」を表わす文である。つまり、「どのような属性Φに対しても、Φがaの属性であるのは、Φがbの属性である時であり、そしてそのときに限るのである」とは、aに当てはまるどのような属性もbに当てはまる(その逆も真)ということ、つまり、aとbは属性的に同一である、ということである。aとbが属性的に同一であるということは、両者が識別不可能である、ということである。だから‘if …… ,then ------’の箇所全体を簡潔に言い表すならば、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということである。以上から(IIn)全体を簡潔に言い表すと次のようになる。

(IIn): どのような具体的な対象 aと b に対しても、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということが必然的に成り立つ。
 
 さて最後に、「数的同一性」についての説明を加えなければならない。「aとbは同じである」とか「a=b」といった表現をわれわれは何の気なし使うが、そうした表現は少なくとも二つの意味に解される余地がある。「あなたの車は彼の車と同じだ」というとき、それは「車種」がたまたま同じであるのかもしれないし(たとえば「トヨタ」の「カローラ」の2000年型)、あるいは「あなた」と「彼」がひそかに同居していて同じ車を使い回しているのかもしれない。前者の場合は「同じ」といっても、ほかに何万台も「同じ車」はある。だが後者の場合は、「同じ車」は特定の車体番号によって他のあらゆる車から識別可能であり、世界に一台しか存在しない。前者の「同じ」は「質的同一性(qualitative identity)」、後者の「同じ」は「数的同一性(numerical identity)」と呼ばれる。
 (IIn)は、二つの対象間に「質的同一性」が成り立つのであれば、「数的同一性」も成り立たなければならない、と言っている。このことを逆に言い換えるならば、数的に違う具体的な対象が、あらゆる属性を共有することは不可能である、ということである。


(1.32)     最後の文に注目してみよう。「不可識別者同一」の法則を反駁するには、「数的に違う具体的な対象が、あらゆる属性を共有することは不可能である」の反例、つまり「数的に違う具体的な対象が、あらゆる属性を共有する」ことが可能であることを示せばいい。そしてそのことを、マックス・ブラックという哲学者が試みた。「不可識別者同一」と題された彼の論文は、「実体論」vs「束理論」の論争において必ずといっていいほど引き合いに出される(そしてほぼだれもが肯定的に受け入れている)論文であるのだが、その一節を紹介しよう。
 
「B.宇宙には、まったく類似した二つの天体しかなかった、ということは論理的に可能ではないだろうか。それぞれの天体が化学的に純粋な鉄からできていて、直径一マイルで、同じ温度、色等を持っていて、それ以外には何も存在しなかった、とわれわれは想定してもいいだろう。そのとき、一方の天体のあらゆる属性と関係的特質は、他方の天体の属性と関係的特質でもあるだろう。さて、いま私が記述していることが論理的に可能であるならば、二つのものがあらゆる属性を共有していることは不可能ではない。このことは、不可識別者同一の法則を反駁しているように、私には思える」(Max Black: The Identity of Indiscernibles, in Mind, vol.61(1962))。 

この論文はAとBの対話者から成り立っていて、いま紹介した部分は、Bのもっとも基本となる主張である。それに対してAがいかなる反論をしたかは後に見ることにしよう。
見られるとおり、ブラックの登場人物Bは「数的に違う対象が、あらゆる属性を共有することは論理的に可能である」と言っている。この「論理的に可能」とは、一体どういうことなのか。ただたんに、そのように想定することに矛盾はない、ということなのか。それとも通常の論理の枠組みの中で実現可能である、ということなのか。意外なことに、B自身はその点について何も言っていないのである。
いまBの主張を、先に示した(IIn)にそくした形で具体的に展開してみよう。ここからは論理的な表記に頼らなくてはならないので、それについての簡単な説明を加えながら進めていく。

「ブラックの宇宙」は二つの天体から成り立っている。それを(IIn)にならって、aとbと表記しよう(これらは「個体」を表わす記号という意味で「個体定項」と呼ばれる)。簡略化のために、aもbも「化学的に純粋な鉄からできていて、直径一マイルである」という属性だけをもっていて、「他の天体から二マイル離れている」という関係によって特徴づけられている、と仮定しよう。つまりブラックの宇宙では、次の六つの命題が成り立つ。
(B1):「aは化学的に純粋な鉄からできている」。
(B2):「bは化学的に純粋な鉄からできている」。
(B3):「aは直径一マイルである」。
(B4):「bは直径一マイルである」。
(B5):「aはbから二マイル離れている」。
(B6):「bはaから二マイル離れている」。

これらの命題からaとbを抜き取ると、「…は化学的に純粋な鉄からできている」、「…は直径一マイルである」、「…は…から二マイル離れている」という表現が残る。前二者は「一項述語」と呼ばれ、「もの」の「属性」を表わす表現である。最後は「二項述語」と呼ばれ、「もの」と「もの」の「関係」を表わす表現である(「関係」とは二つの「もの」の間に成り立つ「属性」であると見なすこともできるのだから、以下では「関係」を「属性」に含めて理解する)。これらは、P(…)、Q(…)、R(…,…)と関数的な表記で表わされるのが慣例である。(…)の部分は、任意の対象を表わす記号が代入されうる場所を示す。それは、任意の個体を表わす変項(x、y、z…)で表わされることが慣例なので、P(x)、Q(x)、R(x,y)と表記することにしよう。すると(B1)から(B6)は、P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R(a,b)、R(b,a)と略記できる。「ブラックの宇宙」を(BU)と表記するならば、それはいま挙げた六つの命題が表わす事態によって余すことなく記述される。

(BU): P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R(a,b)、R(b,a) 

 以上に加えて、命題と命題を結合する「操作子(operator)」の説明を簡単にしておかなければならない。MとNを任意の命題とすれば、「MならばN」はM⇒N、「MかつN(MとNがともに成り立つ)」はM∧N、「MあるいはN(MとNのどちらかが成り立つ)」はM∨N、「MとNは同値」はM⇔Nと表記される((M⇒N)∧(N⇒M)の略記である)。


(1.33)     上で述べたことを一般化してみよう。論理学では、ある述語に対して二つの「一般化(generalization)」が可能である。たとえば、「xは化学的に純粋な鉄からできている」という述語に対して、「あるもの(something)は化学的に純粋な鉄からできている」(あるいは「化学的に純粋な鉄からできているものが存在している」)という形の一般化が成り立つ。これは、P(x)の「存在一般化(existential generalization)」と呼ばれ、∃ⅹP(ⅹ)と表記される(∃は「存在量化子(existential quantifier)」と呼ばれる)。この一般化と「等号」を用いて、ブラックの宇宙についてのある一般化をすることができる。この宇宙にはaとbという二つの天体しかない。かつaとbは「数的に同一」ではないのだから、a≠b。これに対して三通りの「存在一般化」が可能である。つまり、ⅰ)「あるものはbと同じではない(∃ⅹ(ⅹ≠b))」、ⅱ)「あるものはaと同じではない(∃y(a≠y))」、さらにはaとb同時に一般化を施すことができる。つまり、ⅲ)∃ⅹ∃y(ⅹ≠y)。これは「同じではない二つのものがある」と読むことができる。これを先ほどのリストに追加しよう。

(B7): ∃ⅹ∃y(ⅹ≠y) 

また、ブラックの宇宙にはaとbしか存在せず、ともにP(ⅹ)という属性をもっていることから 「あらゆるものはPである」がブラックの宇宙では成り立つ。このような一般化は、Pの「普遍的一般化(universal generalization)」と呼ばれ、∀ⅹP(ⅹ)と表記される(∀は「普遍量化子(universal quantifier)」と呼ばれる)。同様に考えて、「あらゆるものはQである」、つまり∀ⅹQ(ⅹ)が成り立つ。だが、同様に考えて、「あらゆるものはRである」と言えるだろうか。Rは二項述語であり、「あらゆるものは…から二マイル離れている」は、それだけでは意味をなさない不完全な文である。そこで、(B5)を「aはあるものから二マイル離れている」(∃yR(a、y))と、(B6)を「bはあるものから二マイル離れている(∃yR(b、y))」と「存在一般化」を施してみる。すると、aもbも∃yR(…、y)を充たしており(つまりいずれも「あるものに対してRの関係に立つ」という属性を満たしており)、aとbが「ブラックの宇宙」の「すべて」なのだから、「すべて」が∃yR(…、y)という属性をもっているということが、ブラックの宇宙で成り立つ。このことを「普遍的一般化」を用いて表現するならば、∀ⅹ∃yR(ⅹ、y)と表わすことができる。

(IIn)には「どのような属性Φに対しても…」という言い回しが登場していた。量化子は「個体」のみならず、「属性」に関わることもできる。たとえば、P(a)から「aに当てはまる属性がある」を推論することは妥当である。それは∃Φ(Φ(a))と言い表すことができる。ブラックの宇宙における「属性」は、P(x)、Q(x)、R(x,y)である。ただし、R(x,y)は、上に述べた事情から、より一般化して「あるものから二マイル離れている(∃yR(…、y))」と言い換えて、この属性をR’(ⅹ)と表記する。するとブラックの宇宙における「属性」は、P(x)、Q(x)、R’(x)となる。先ほどの(BU)を少し変更するならば、

(BU’): P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R’(a)、R’(b) 
 
「ブラックの宇宙」のどのような属性を取り上げても、それはaに当てはまる。つまり、∀ΦΦ(a)。また、bも同様に考えられる。∀ΦΦ(b)。つまり、どのような属性Φを取りあげても、Φ(a)とΦ(b)は真であり、したがって同値である。つまり、∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b))。このことを先ほどの(B7)と合わせて表現してみよう。ブラックの宇宙では、「二つの数的に同一ではないもの」が存在していて、かつ、その二つのいずれに対しても「すべての属性」が等しく当てはまる。つまり、

(B8): ∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]

さて、(IIn)、つまり「不可識別者同一」の法則に戻ってみよう。それは、「どのような具体的な対象aとbに対しても、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということが成り立つ」と述べている。「aとbが識別不可能である」は、「どのような属性ΦにたいしてもΦ(a)とΦ(b)は同値である」に等しい。すると、次のような論理的一般化が可能となる。おそらくこれが、「不可識別者同一」の法則のもっとも簡潔な表記であるだろう。

(IIn)’: ∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)]

この「法則」を反駁するには、その反証例を一つでも挙げれば充分である。つまり「等しくない二つのものに対して、すべての属性が等しく当てはまる」という例を挙げればいい。だがそのことは、(B8)によって一般的に、(BU’)によって具体的に示されている。以上から、「不可識別者同一」の法則は誤りである、という帰結が導かれるわけである。


(1.34)     さて本題に戻ろう(といっても本題から外れていたわけではないのだが)。なぜ、「実体論」vs「束理論」の論争で、「不可識別者同一」の法則が問題になるのか。「ブラックの宇宙」のaとbを取りあげよう。aは{P、Q、R’}という属性の集合によって構成されている。bも{P、Q、R’}という属性の集合によって構成されている。「束理論」の前提からすると、aもbも同じ「属性の集合」によって構成されているのだから、 a=bでなくてはならない。つまり、「束理論」は「不可識別者同一」の法則を受け入れざるをえない。しかしその法則が誤っていることは、(1.33)の論証で明白なのだから、「束理論」が誤りなのも同様に明白である、ということになる。
この論証の道筋は、「実体論」vs「束理論」の論争に参加するたいていの人によって是認されているようである。そのうえで、「束理論」の支持者は、この法則が妥当しないような部分的修正を試みるのである。ある者は「属性」の解釈を現象論的に変えてみたり(O’Leary-Hawthorne,J: The Bundle Theory of Substance and the Identity of Indiscernibles,in Analysis(1995))、また「束理論」の原則を経験的に適合するだけの「弱いヴァージョン」に修正したりするのである(Casullo,A: A Fourth Version of the Bundle Thoery,in Micheal J.Lou(ed):Metaphysics, contem-
porary readings, p.134-148)。
だがそのような部分的修正案の細部に立ち入る必要はない。それよりも、より原理的なことを問題にしなければならない。つまり、ブラックは「不可識別者同一」の法則を反駁できたのか、という点を問わなければならない。さらに、(1.32)から(1.33)までの論証は、最初に明記したように、マイケル・ルーの定式化に倣ったものであり、ルーはこの論証を「不可識別者同一」の「決定的な反駁」と見なしている一人であるが、彼は、はたしてブラックの洞察をきちんと言い当てているのか等々。このような原理的な問いかけがあくまで重要なのである。
もう一度整理してみよう。ブラックの論文の登場人物Bは、「一方の天体のあらゆる属性と関係的特質は、他方の天体の属性と関係的特質でもあるだろう。…このことは、不可識別者同一の法則を反駁しているように、私には思える」と述べた。それをルーは、(BU’)および(B8)に帰着するように解釈した。「不可識別者同一」法則を(IIn)’:(∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)])と解してよければ、(BU’)と(B8)がその反証となりうるのは確かである。
だが厄介なことが一つある。それは、Bが描く「宇宙」はそのように解釈できないということであり、しかも当のB自身そのことをよくわきまえていた、ということである。上に挙げたBの発言に対して、次のように対話は続くのである。

「A. …君の想定は検証できないし、だから意味のある想定だとは見なしがたい。しかし、君が一つの可能世界を本当に記述したと仮定しても、君があの法則を反駁したとは、私には思えない。一方の天体を考えてみよう。それをaとするならば…  
B. いや、どうしてそんなことができるんだ。二つの天体を区別する方法がないのだから。君は私に、どちらの天体を考えて欲しいんだい。
A. なんて馬鹿馬鹿しい。二つの天体のどちらか一方を、だよ。どちらにするかは、君に任せるが。「本棚から、何でもいいから、本を一冊取り出してくれ」と言われて、「いったいどの本だい」と君が答えたとしたら、それは馬鹿馬鹿しいだろう。
B. その喩えは成り立ってないね。本棚から本を一冊取り出す仕方ぐらい知っているよ。だけど、空間にそれ以外のものは何もなく、互いに対して対称的な位置を占めているので、どちらも他方がもっていないどんな属性や特質ももっていないと想定された二つの天体の一つについて、どうやってその身分を確かめられるのか、僕にはわからない。
A. だから、それこそ、前に言ったように、君の想定が検証不可能であることを示しているんだよ。一方の天体がaと命名されることを、君は想像できないのか。
B. 僕に想像できるのは、論理的に可能なことだけだ。さて、誰かが、僕の記述した宇宙に入りこんで、左側に一方の天体を見て、それをaと呼ぶことは、論理的に可能なことだ。そんなことぐらい想像はできる、もしそれで君の気がすむならば。
A. じゃ、aについて言いかけたことを、終わりまでしゃべらせてほしいんだが…
B. そうするわけにはいかないんだよ。だって、君は、今の状況下では、aについて語る権利を持っていないのだから。僕が譲歩したことは、もし誰かが僕の宇宙に変化を持ち込んで、その結果、観察者が入り込んで二つの天体を見たとしたら、その一方の天体は名前を持つことができる、ということだけだ。しかしそうなると、僕が考察したいと思ったものとは違う想定になってしまう。僕の言う天体はまだ名前をもってはいないんだ…。君は、あるものに名前をつけて、そしてそれについて考えることがこの上もなく簡単であるかのような言い方をする。だがそんなに簡単なことではないんだ。庭にいるどれかの蜘蛛に名前をつけてくれ、と僕が君に言ったとする。まず蜘蛛を捕まえて、ある蜘蛛にだけ当てはまるような記述ができるのであれば、君はそれに名前をつけることが簡単にできる。だけど、ただ思考することによっては、ある蜘蛛を選び出すことはできないし、ましてやそれに名前をつけることなどできないんだ…」。

 Bが考え出した「宇宙」は、「ただ思考することによって」成り立つ宇宙、純粋に「思考」上の世界である。それは、a、bといった個体が存在しない宇宙である。つまり、一般的事態しか存在しない宇宙、隅から隅まで一般性しか見出せない宇宙である。おそらくそこでは、(B8): ∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]は成り立つかもしれない。すると当然、(IIn)’:(∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)])は成り立たない。では、Bの言うように、ここでは「不可識別者同一」の法則は成り立たない、ということになるのだろうか。
  Aはaに言及しようとしてはその都度制止される。Aは、Bの「宇宙」を{a、b}という集合として捉えようとする。だが、aやbという名前が用いられるやいなや、Bの想定に変質が生ずる。Bは一般的に「二つの天体」と言っているだけであるのに、Aはそれを、‘a’が命名する対象aと、‘b’が命名する別の対象bと解釈する。だが別々の名前をもちだすとき、Aにとって、aとbは別のものとして認識されているのでなければならない。たとえば観察者にとって左側にあるのがa、右側にあるのがb、という具合に。‘a’と‘b’という名前を使用することによって、「性質的同一性」を破綻させるある種の差異がもちこまれる。そしてこのことを、Bは禁じるのである。
だが考えてみれば、AにはAの言い分がある。「ブラックの宇宙」では、∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]という一般性をもつ事態が成り立っているだろう。以前に、任意の述語P(ⅹ)にたいして二つの「一般化」がありうることに触れた。「存在一般化」(∃ⅹP(ⅹ))と、「普遍的一般化」(∀ⅹP(ⅹ))である。論理学では通常、その逆の手続きも許容されている(推論規則として)。かりに∃ⅹP(ⅹ)が成り立っているのであれば、P(ⅹ)を充たす「もの」が存在しているわけだから、その「もの」をかりにaとすれば、P(a)が成り立っていると推論してかまわない(ただしaはまったく任意のものでなければならない)。これは「存在例化(existential instantiation)」と呼ばれる。同様に、∀ⅹP(ⅹ)からP(a)を推論することは「普遍例化(universal instantiation)」と呼ばれる。いずれも論理学にとって必要不可欠な推論規則であるが、∃ⅹP(ⅹ)や∀ⅹP(ⅹ)といった一般的命題が成り立っているのであれば、それに対して特殊例を当てはめて考えることは、とくに「論理学」に限定される必要もない、いわば当たり前の思考の道筋である。そして、その「当たり前の道筋」に沿ってAは議論をしようとしたにすぎない。そして重要なことに、ルーをはじめとする「実体論」vs「束理論」の論争に関与するほとんどすべてが、実は、Aの立場に立って「ブラックの宇宙」を見ているのである。つまり、彼らにとって、その宇宙が{P(a)、P(b)、Q(a)、Q(b)、R’(a)、R’(b)}という形で記述できるということは、言うまでもない「当たり前なこと」として始めから前提されているのである。だがこれはAが試みようとしたことであり、Bが禁じたことである。ここには何という奇妙な不整合があることか。Aは「不可識別者同一」の法則の擁護者であるのに、それと同じ観点に立ってルーは「不可識別者同一」の法則を反駁しようとしているのだから。


(1.35)     Bは、自分が描く宇宙を「論理的に可能」であると言っている。ところで、何が「論理的に可能」で何が「論理的に不可能」かを決めるには、特定の(タイプの)論理に訴えることはできない。標準的な論理をもち出して、Bの想定の論理性を判定するわけにはいかない。だが少なくとも次のことは言えるであろう。Bの描き出す宇宙には「個体」が存在しない。少なくとも「個体」を表わすための名前の使用が禁じられているのだから、「個体」を直接表現することは原理的にできない。せいぜい量化子を介して間接的に表現できるだけである。つまりこの宇宙で成り立つのは、(B8): ∃ⅹ∃y [(ⅹ≠y)∧∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))]のような一般性をもつ事態だけである。Bは「不可識別者同一」の法則を反駁しようとした。残念ながら、Bはその法則を論理的な定式という形で表明していない。そこで、かりにマイケル・ルー以下の人たちがしているように、次のような定式を持ち出してみよう。

(IIn): どのような具体的な対象 aとbに対しても、「aとbが識別不可能であるならば、aとbは数的に同一である」ということが必然的に成り立つ。

 だがこの定式は、Bの宇宙では成り立たないし、そもそも表現することすらできない。Bが容認できる定式があるとすれば、より一般的な(IIn)’であろう。しかし、この定式も、実は、(B1)から(B6)、さらには(BU)、(BU’)からの「一般化」によって得られるものなので、‘a’や‘b’といった表現の存在を間接的に前提していると言えるだろう。もしそう言えるならば、「不可識別者同一」の法則を(IIn)としようと(IIn)’としようと、おそらく、Bは自己の目的に達することはできないだろう。通常の論理を基準にして考えるならば、Bは「不可識別者同一」の法則を論理的に定式化することができない、と言うしかないからである。Bは、おそらくその法則を論駁しうる事態を「想像」できたのだろうし、その事態は「論理的に可能」である、と言えるのかもしれない。だがそれを通常の論理的手段によって言い表すことはBにはできない。論理的に「言い表せない」ものを、どうして「論駁」できるだろうか。したがって、通常の「論理」を基準にするならば、「ブラックの宇宙」は、Bの主張とは逆に、論理的に可能ではない、と言えるかもしれない(ただし、まったく個体を含まない論理が可能であるならば、その限りではない。だから、Bの主張を「論理的ではない」と断定することはできないのだが)。
 他方で、「不可識別者同一」の法則を(IIn)の意味で理解した人々は、Bが望んだ意味での「不可識別者同一」の法則に対する反例を提示することに失敗している。Bにとっては、‘a’と‘b’といった表現手段に訴えかけながら、なおかつそれらの「数的同一性」を主張することは、そもそもの始めから根本的に間違っているのだから。‘a’と‘b’といった表現を使う以上、それらは「数的に同一でないもの」を指し示していなければならない。(IIn)は、「同一でないもの」が「同一である」と公然と主張しているのだから、そこには明白な矛盾が含まれている。少なくとも、Bはそのように言うであろう。
 

(1.36)     「ブラックの宇宙」には、「まったく類似した二つの天体しかなかった」。かりに、この想定を「論理的に可能」であると考えてみよう。この想定は「不可識別者同一」の法則を反駁しているのか。だが肝心の「不可識別者」同一の法則を、Bの意図に沿うように定式化することは困難である。すでに挙げた

(IIn)’: ∀ⅹ∀y [∀Φ(Φ(ⅹ)⇔Φ(y))⇒(ⅹ=y)]

はBの意図に沿わないだろうか。おそらく沿うとは言えないだろう。(ⅹ=y)は(a = b)と同タイプの表現であり、(a = b)はBの想定する状況では許容されない表現だからである。もしそうだとすると、そもそもBは「まったく類似した二つの天体」に言及することがどうしてできるのだろう。そもそもどうして「二つの天体」と言えるのだろうか。
 「二つの天体」はたんに「思考」の可能性を述べただけであって、そこにはそれらを識別する観察者がいないのだから、‘a’や‘b’
という名前を使うことはできない、とBは言う。だがBが‘a’や‘b’に訴えることができないことには、別のごく単純な理由がある。かりに「ブラックの宇宙」が、{a、b}から成り立っているとしよう。そのとき、aは「aと同一である」という属性(「自己同一性」という属性)をもつ。同様に「bとは異なる」という属性(「他者との差異性」という属性)をもつ。これらの属性は、bによって所有されていない属性である(同じことはbについても言える)。つまり「ブラックの宇宙」を{a、b}として表わしてしまうやいなや、二つの天体が「まったく類似している」こと、つまり「あらゆる属性を共有している」ことは成り立たなくなってしまう。だからBは、あれほどまでに‘a’や‘b’という名前が議論に登場することを拒み続けるのである。
だからBによれば、「二つのまったく類似した天体」は{P、Q、R’}という属性の集合によって構成されている、ということ以上のことは言えないはずである。したがって、「ブラックの宇宙」が「論理的に可能」であるならば、この「可能世界」は次のように構成されている、としか言えないはずである。つまり、

(B1)’:「{P、Q、R’}は化学的に純粋な鉄からできている」。
(B2)’:「{P、Q、R’}は化学的に純粋な鉄からできている」。
(B3)’:「{P、Q、R’}は直径一マイルである」。
(B4)’:「{P、Q、R’}は直径一マイルである」。
(B5)’:「{P、Q、R’}は{P、Q、R’}から二マイル離れている」。
(B6)’:「{P、Q、R’}は{P、Q、R’}から二マイル離れている」。

(B5)’と(B6)’は同じことに帰着し、「{P、Q、R’}は{P、Q、R’}から二マイル離れている」を意味する。だが、いったいこのことは何を意味するのか。「実体論」的に考えて、一方の{P、Q、R’}と、他方の{P、Q、R’}があくまで「二つの天体」と見なされるならば、それに別の名前を与えざるをえない。そしてBの前提に違反する。おそらくは、Bの想定そのものが整合的でないと考えるよりないだろう。
他方、「束理論」的に考えるならば、一方の{P、Q、R’}と他方の{P、Q、R’}は「同じもの」である。P、Q、R’いずれも「属性」を表わす。「束理論」の前提が、たんに「個体は属性の束である」というだけにとどまらず、「世界には個体は存在せず、属性だけが存在する」という強い意味に解釈することにしよう。「属性」は、「個体」とは違い、時間‐空間的に制約されることはない。a(あるいはb)が同時に二つの場所を占めると考えることはありえない想定だが、{P、Q、R’}が同時に二つの場所を占めると考えることには矛盾はない。(B5)および(B6)を「aはaから二マイル離れている」と解釈することは矛盾を含むが、「{P、Q、R’}が{P、Q、R’}から二マイル離れている」と解釈することには矛盾はない。したがって、「{P、Q、R’}はそれ自身からニマイル離れている」と解釈することには矛盾がない。Bの宇宙では、{P、Q、R’}は同時に「二マイル離れた」場所を占めているのである。奇妙に映るかもしれないが、Bの想定に見合う解釈があるとすれば、このような解釈しかないだろう。そしてこの解釈は「束理論」的なものであるから、Bの描き出す宇宙は、通常の想定とは逆に、「束理論」的な宇宙なのである。Bは、ただ一点を除けば、束理論の思考パターンを描いている。その一点とは「不可識別者同一」の法則を反駁したと思い込んでいる点である。だが遺憾ながらその反駁は成り立っていない。だから、ほとんどの論者がBの主張に「実体論」の理論的裏づけを見出したのは奇妙としか言いようがないことであった。
おそらく「実体論」vs「束理論」をめぐる議論全体が、何らかの点で理論的に不徹底なものを内蔵していると言えるのではないだろうか。このことを次に見ていくことにしよう。


4. 思考の空間と「もの」の名前


(1.41)     「もの」をめぐる対立が論理的レヴェルで扱われることによって、何ほどかの進展は見られただろうか。おそらく答えは「ノー」である。「実体論」vs「束理論」の対立は解決されていない。では、問いの立て方の意匠が変わっただけということなのだろうか。そう結論づけるのは性急すぎるだろう。「実体論」vs「束理論」の対立の新旧のヴァージョンを簡単ながら見てきたわけだが、ブラックの思考実験をめぐる論争から、旧ヴァージョンからは決して得られない洞察を垣間見ることができる。それは、「ものとは何か」と問うとき、その「もの」を言い表すための手段、つまり「名前」についての省察を欠くことはできない、という洞察である。
ブラックの思考実験で起こったことを単純に考えてみよう。Bは「宇宙にはまったく類似した二つの天体しかなかった」という状況を想像した。あるいはその状況が可能であると考えた。A(やたいていの解釈者)は、この想定を(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)として受けとろうとした(あるいは、受けとった)。Bは‘a’‘b’という名前を用いた解釈を拒む。Bによれば「ただ思考することによっては、ある蜘蛛を選び出すことはできないし、ましてやそれに名前をつけることなどできない」からである。
この主張はどれほどの説得力があるのだろうか。Aには通じたのだろうが、たいていの解釈者によって無視されているところをみると、説得力はあまりなかったのだろう。たいていの人にとっては、「思考の対象」に名前をつけることくらい簡単なことはないように見えるのだろう。「二つの天体」と言った以上、Bはそれらを{a、b}のような形で表象せざるをえなかったと考えることは不自然ではない。おそらくB自身、自ら公言したこととは裏腹に、潜在的には、そのような名前に訴えて思考しているのかもしれない。
いま、両者の主張を少し妥協する形で、Bの言い分を次のように修正してみよう。つまり、ⅰ)たしかに、誰にでも「まったく類似した二つの天体」を考えることはできるが、ⅱ)かりにその「二つの天体」に対して‘a’や‘b’という名前を導入することができるとしても、ⅲ)aやb「について」語ることはできない、という仕方で、Bの言い分を理解してみよう。実は、ブラックの思考実験において、「名前」が使えるかどうかは真の問題ではなく、かりに「名前」が使えるとしても、それが使用される文脈が特殊なために、名前が通常の機能を果たすことができない、という仕方で理解することができるからである。「特殊な文脈」とは、Bの述べることがBの純粋な思考内容である、という点にある。つまり、Bの発言は、すべて潜在的には従属文であって、「…と私(=B)は思考している」を補わなければ意味をなさない、という文脈において発せられている。いま論理学の慣例にしたがって、「…とBは思考している」をδというオペレータで言い表すことにしよう。Bの発言は、(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)という形で理解することはできない。それは、‘a’や‘b’という名前が使えないからということではない。B自ら思考したことは、δ{(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)}という形でしか言い表せないからなのである。少なくともBの自己了解にしたがえば、そう言わざるをえない。
Bの宇宙において‘a’や‘b’という名前を用いることができないというBの言い分と、Bの発言はすべて潜在的には従属文であるという主張は表裏一体の関係にある。一般に、「…と思う」、「…と信じる」などの動詞によって支配される文脈は「内包的文脈(intensional context)」と呼ばれることが多い。その文脈に登場する名前に関しては、「存在一般化」のような通常の論理的法則は成り立たない。Bは「まったく類似した二つの天体がある」と思考している。しかし、その「二つの天体」を、Bの思考から切り離して、その「天体」について語ることはできない。Bの思考から切り離されるや、その「天体」は何ものでもなくなるわけだから、その「天体」の存在を推論によって引き出すことはできない。
このような内包的文脈に対する特別な対処法を多くの論理学者が追及してきた。問題点を単純化すれば、内包的ではない文脈で登場するa(つまり、{ … a … }であるようなa)と、内包的な文脈で登場するa(δ(… a … )であるようなa)は、名前としての機能という点でまったく異質である、ということに帰着する。このことを「スコープ」の概念によって説明することにしよう。
 

(1.42)     「スコープ」の概念を初めて導入したのはバートランド・ラッセルであるが、ここではその経緯については触れず、単純化して述べるだけにとどめる。「現在のフランス国王は幸福ではない」という文を考えてみよう。「…は幸福である」という述語をH、「現在のフランス国王」をf、「…ではない」というオペレータを¬で表わそう。「現在のフランス国王は幸福ではない」に対しては、二通りの読み方が可能である。

ⅰ) ¬(Hf)
ⅱ) (¬H)f
ⅰ)は、「現在のフランス国王」がある属性をもつこと、つまり「幸福である」という属性をもっていることを否定している。それに対して、ⅱ)は、「現在のフランス国王」がある属性をもっている、つまり「幸福ではない」という属性をもっている、ということを述べている。現時点では、フランスには国王が存在しないのだから、fは存在しているものを指し示していない。「存在していないものは属性をもちえない」というラッセルの前提に立てば、ⅰ)は真であるが、ⅱ)は偽である。なぜなら、ⅰ)は、現在のフランス国王が属性をもつことを否定しているので真であるが、それに対して、ⅱ)は、現在のフランス国王が属性をもっていると述べているのであるから、偽でなければならないからである。

一般に、「述語」、「名前」、「オペレータ」という三つの要素が登場する文に対しては、上述のように二通りの読み方が可能である。なぜこのように二通りの読み方が可能になるのかといえば、「名前」と「オペレータ」にはその影響力を及ぼす範囲があって、ときには「名前」の範囲が広い場合もあれば、「オペレータ」の範囲が広い場合もあるからである。「スコープ」はこのことを説明するために導入されたのである。
先に進む前に、論理的な用語について触れておこう。これまで「オペレータ(operator)」という語を何気なく使ってきた。ここでこの語の定義などはとてもできないが、そのニュアンスだけでも伝えておかなければならない。論理学における「オペレータ」とは、文字通り‘operation’をする記号の総称である。¬は、任意の文をその否定に(あるいは、任意の述語を反対の意味の述語に)変換するというオペレーションをする。δは、任意の文をだれかの思考の対象に変換するというオペレーションをする。その他論理学では「時制オペレータ」や「様相オペレータ」等と頻繁に使用されるのであるが、ここで詳細に立ち入ることはできない。
だが実は、「名前」も一種の「オペレータ」と見なすことができる(そのように呼ぶことは慣用ではないが)。それは、ある記号によってある「もの」を指し示すというオペレーションをしている。名前とオペレータを含む文では、これら二つのオペレーションが干渉しあい、ときに曖昧さを生み出す原因となる。この曖昧さは「スコープの曖昧さ(scope ambiguity)」と呼ばれる。 
「スコープ」とは、ある表現が及ぼしうる「作用範囲」ほどの意味であるが、主に名前とオペレータにそくして語られる。それら二つのオペレーションのいずれが強力な作用を及ぼしているかで、「広いスコープ」、「狭いスコープ」という言い方がなされる。たとえば、ⅰ)において、fは¬の作用範囲の中にあるのだから「狭いスコープ」をもち、¬は「広いスコープ」をもつ、と言われる。ⅱ)において、fは¬の作用範囲から独立しているので、「広いスコープ」をもっていることになる。
 実はこの「スコープ」の概念を用いて、(論理的な意味での)「名前」を定義することができるという考え方がある。「オペレータ」をδ、「述語」をΦ、「名前」をNとすれば、Nが論理的な意味での「名前」であるのは、ⅰ)とⅱ)で見られる「スコープの曖昧さ」が成り立たないとき、言い換えれば、δ(ΦN)と (δΦ)Nが論理的に同値であるとき(δ(ΦN)⇔(δΦ)N)、である(Arthur Prior: The Objects of Thought, p.150)。
 いま、このプライアーの考え方を受け入れてみよう。するとⅰ)とⅱ)は同値ではないのだから、そこで一見「名前」のように見えるfは、論理的な意味での「名前」ではないことになる。ⅰ)とⅱ)を少し変えて、オペレータをδ(「Bは…と思っている」)としてみよう。「Bは現在のフランス国王が幸福であると思っている」は、やはり二通りの読み方ができる。

ⅲ) δ(Hf)
ⅳ) (δH)f

ⅲ)は真であるかもしれない。Bは「現在のフランス国王は幸福だ」と考えているかもしれない。Bがフランスの大統領を「フランス国王」だと思い込んでいて、国王の地位にある人間は幸福にちがいないと思っているならば、ⅲ)は正しいことを述べている。ここでのfは「狭いスコープ」しかもっておらず、δに従属している。言いかえれば、fはBの思考のオペレーションの一部である。Bの思考内部では、「現在のフランス国王」はだれかある人(おそらくは「現在のフランス大統領」)を指し示しているのであるから。
しかし、ⅳ)におけるfはδに従属してはいない。それは、Bの思考とは独立したオペレーションである。それは、「Bは現在のフランス国王が幸福であると思っている」と思っている(あるいは、述べている)第三者のオペレーションであろう。その第三者がラッセル的な考え方の持ち主であれば、その人にとって(つまりBの思考の外部で)、fが何かを指し示すことはないし、なんらかの属性をもつこともない(「Bによって幸福であると思われている」という属性すらもたない。なぜなら存在しないものは属性をもたないのだから)。したがって、ⅳ)は偽である。ⅲ)とⅳ)は同値ではない場合がありうるのだから、fは「名前」ではない、ということになる。

 この例で、δ(ΦN)⇔(δΦ)Nが成り立つとしたら、それはどういう条件のもとで、なのか。Bがテレビに映っているフランス大統領の姿を見て「フランス国王は幸せだね」と述べて、その場でそれを聴いたAが皮肉っぽく「君は、フランス国王は幸せだと思っているんだね」と言うとする。したがって、「Bは、現在のフランス国王は幸せであると考えている」は、AにとってもBにとっても真である。ここでの「フランス国王」は、BにとってもAにとってもテレビに映っている大統領その人を指し示しているのであるから、言い間違いが介在しているにもかかわらず、BとAの観点は一致している。「フランス国王」という表現によってなされるBのオペレーションと、Aのオペレーションは同じ「もの」を指し示しており、その際、その「もの」がいかに呼ばれるかということは重要ではない。その「もの」をaとすれば、aに対する呼称がまったく見当はずれな‘xyz’であっても、δ(Φxyx)も(δΦ)xyzもともに、「Bはaが幸せだと思っている」ということに帰着する。BとAの観点、あるいはオペレーションが一致しているかぎり、aがどう呼ばれるかは問題ではない。どう呼ばれようと、aはaである。「現在のフランス国王」は、この場合、「名前」として機能していて(すくなくともBとAの間では)、一切の呼称が問題ではなくなるようなaを端的に指し示しているのである。

 ここでブラックの例に戻ろう。かりにBの思考内容を
δ{(a≠b)∧∀Φ(Φ(a)⇔Φ(b)}と表わすことができたとしても、この場合‘a’や‘b’という記号が「名前」として機能している、と考えることはできそうもない。
 かりにBが密かに‘a’や‘b’という名前を使いながら思考実験を行っていたとしても、Bの言い分にしたがうならば、‘a’はδの束縛から脱して「広いスコープ」をもつものとして使用されることはできない。テレビに映った「フランス国王」の例のように、誰かがBと観点を共有してaを「見る」ことは原理的に排除されている。したがって‘a’のスコープは「狭い」ままにとどまる。つねに「狭いスコープ」しかもたない「名前」などというものがあるだろうか。おそらく「ゼウス」や「シャーロック・ホームズ」といった虚構上の名前がそのような「名前」の候補であるかもしれない。たとえば「ゼウス」が「ギリシア人が・・・という特徴をもつと考えたもの」と言い直せるならば、「ゼウス」は、単独で用いられているとしても、つねに「狭いスコープ」しかもたない。Bが密かに‘a’という「名前」を用いたとしても、それはBの思考から切り離せない。その意味でおそらくは虚構上の「名前」に近いものとしてしか扱えないのである。
それにもかかわらず、‘a’をBの思考から切り離して「広いスコープ」をもつものとして使用しようとしても、それはB以外の誰か、例えばAのオペレーションとなるにすぎないし、しかもAの思考のオペレーションの一環としてしか機能しない名前となるにすぎないだろう。およそ‘a’を思考のオペレータの外側に置くことは不可能である。それは思考の可能性を表わしているにすぎないのである。

最後に、いま述べたことに補足的な説明を加えよう。δHfというタイプの表現に対して成り立つ二つの解釈に対して、しばしば‘de dicto’、‘de re’という術語で説明されることがある。名前が「狭いスコープ」をもつとき(=δ(Hf))、δHf全体は(Hf)という「命題」(ラテン語で‘dictum’)にかかわっている、つまり、「命題について(de dicto)」何かを語っている。それに対して、名前が「広いスコープ」をもつとき(=(δH)f)、δHf全体はfが指し示す「もの」(ラテン語で‘res’)にかかわっている、つまり「ものについて(de re)」何かを語っている、と説明されることがある。
この区別についてはまた語る機会があるだろうが、これをブラックの思考実験に当てはめるならば、Bの発言はすべて‘de dicto’的な発言であることが判るだろう。そこで「二つの天体」が登場してくるにしても、その「天体」「について」語ることは誰にもできない(Bですらできない)。ただ単に「まったく類似した二つの天体がある」等の「命題(dictum)」を思考し想像することができるだけなのである。この「天体」は「命題」の一部にすぎず、そこから切り離すことはできない。Bが名前の使用を拒否した理由は、最終的に、この点に求められるだろう。


(1.43)     ここで「実体論」と「束理論」との対立に戻ろう。いままで(自明であるため)明確に言わずにおいたことが一つある。つまり、いずれの考え方も、「ものとは何か」という問いを純粋に「思考」の中で解決しようとする試みである。そもそも「ものとは何か」と問いかけることそのものが、「もの」をすでに「思考」に解消することである。いずれも「もの」を思考の対象として、(あるいは冒頭で使った区別をもう一度使うならば)「広義のもの」という形で捉えているのである。しかしその「もの」を‘a’や‘b’という「名前」によって表現するやいなや、まるで一挙に「思考」のスコープが雲散霧消して「狭義のもの」を扱うことができるかのように万事が進んでゆく。ブラックの思考実験をめぐる解釈者たちの混乱はまさにそのことに起因している。「名前」と「もの」の関係についての把握が曖昧なまま放置されているのである。

 いま、「思考」と「名前」の関係に焦点を絞ろう。Bの発言は、もしそこに「名前」を導入することができるとしても、その全体がオペレータδによって支配されているものとしてしか理解することはできなかった。そのようなタイプの文をδ{…a…}と表わそう。そのような文脈(しばしば「内包的」文脈と呼ばれる)におけるaが、通常の「名前」とは異なる機能をもつことはすぐに示すことができる。すでに述べたように、その「名前」に対しては、「存在一般化」のような論理的規則が必ずしも適用されない、ということがしばしば決定的と見なされている。これに対して、論理学では通常、次のような対処策がとられている。
つまり、内包的文脈δ{…a…}におけるaは、通常の文脈でaがもつ通常の「意味」(あるいは指示対象)をもたない、と見なされる。つまり、そのような「名前」に対しては「特殊な」扱いが必要である、というわけである。
ところで、いままで、オペレータδを「Bは…と思考している」という意味においてだけ考えてきた。しかし「内包的文脈」を形成する要因は「思考」だけではない。「信ずる」、「…のように見える」、「期待する」、「夢見る」といった従属節を要求する動詞や、「求める」、「探す」といった単純に目的語をとる動詞なども同様である。たとえば、「コロンブスが2度目の航海で金を発見して以来、欲に目がくらんだスペイン人は中央アメリカ征服にのりだし、ゴールドラッシュが始まった。やがて彼らは、北アメリカにも金を求めてやってくる。1513年、ポンセ・デ・レオンPonce de Leonは不老長寿の泉を求めてセント・オーガスティンに到着し…」は歴史的事実を述べている。「ポンセ・デ・レオンは不老不死の泉を求めていた」は真であるが、そこから「存在一般化」によって、「ポンセ・デ・レオンが求めていたものが存在する」を推論することはできない。ポンセ・デ・レオンは何かを求めていたのだろうが、その「何か」はポンセ・デ・レオンの思考から切りはなすことができないし、それ「について」その思考とは独立に語ることもできない。
このような「特殊な」文脈を生み出す源泉を、いま単純化して、「思考」に求めることにしよう。論理学がそのような文脈を「特殊な」文脈と見なすのは、それが扱おうとする世界から「思考」に関連する一切を排除しているからである。その結果登場するのが「通常の」(「外延的(extensional)」と呼ばれる)文脈である。ブラックの思考実験におけるBの発言を、ただちに(a≠b)∧…と解釈しようとするのも、その思考法の延長線上にある。これは、論理学的なフィクションである。
ところでまったく逆に考えることもできるのではないか。つまり、論理学で「特殊」として扱われている文脈が、むしろ「通常」である、と考えることもできる。われわれが自分の考えを述べたり書き記すとき、あるいは単に何かを意識するとき、わざわざ「…と私は考える」などとは付け加えたりはしないし、そもそも意識することもない。ただ端的に「aはbであり…」と述べたり書き記したりするだけである。だが厳密に考えるならば、われわれの活動のすべてに、潜在的な仕方で、「私は…と思う」が伴っている、と考えるべきではないか。それは、カントが意識の統一性を記述するにあたって、「「私は考える」は、私のあらゆる表象に伴うことができるのでなければならない」(Kant: Kritik der reinen Vernunft, B.131)と述べたことに符合するのではないか。
いま、この有名な言葉に、カスタネーダとともに、言語哲学的アレンジを加えてみよう(Hector-Neri Castaňeda: The Phenomeno-Logic of the I, p.188)。

(Ⅰ)  思考を表現する発言はすべて(それが話者によって信じられていようといまいと)、原理的に、潜在的な「私は・・・と思う」に従属している。
(Ⅱ)  あらゆる言明は、潜在的にせよ顕在的にせよ、「間接話法(oratio obliqua)」という形式においてあり、唯一真の「直接話法(oratio recta)」は、語られていない「私は・・・と思う」の部分である。
 
 この洞察が正しいと仮定して、「名前」のことを考えてみることにしよう。すると、「思考」が関与する場において、「名前」は、原理的にいって、それに論理学において通常与えられている役割を果たすことができない、ということになる。だが「「思考」が関与する場」とは、「「私は考える」は、私のあらゆる表象に伴うことができるのでなければならない」のであるならば、われわれの表象の活動が関与する場であり、要するに、われわれの活動のすべてである。われわれが関与する「通常」の場において、「名前」は、論理学が期待する「通常の」役割を果たすことはない。むしろ「特殊」な役割が常態である、ということになる。論理学が期待する「名前」の「通常の」機能とは、「もの」を指し示す機能である。したがって、われわれが関与する「通常の」状況では、「もの」にも「通常の」役割が帰されないということが成り立つ。「名前」として使われているものは、すべて「思考」のオペレーションの一部である。それと相関的に、「もの」も「思考」のオペレーションの一部である。その枠内で「実体論」と「束理論」の対立が生じているのだが、いずれも「思考」のオペレーションの一側面であるにすぎない、ということになる。


(1.44)    このように「思考」と「名前」は折り合いが悪い。「思考」とその「名前」が名指す「もの」とは一層折り合いが悪いだろう。だが通常、このようなことは意識されない。一人で考え事に没頭しているときに、「名前」の使用に躊躇いを覚えるという人がいるだろうか。おそらくここには慣習と錯覚が入り混じっているのである。
このことを説明するために、デカルトの『省察』に戻ろう。「思考」の閉じた世界を描くことにおいて、『省察』が類を見ないほど徹底していたことは言うまでもない。その方法的懐疑では、一切の「もの」が懐疑に付され、それと平行して、すべての文が「わたしは疑う」という懐疑のオペレータに覆われる(はずである)。そこで「名前」のようなものが登場するとしても、それは二重のハンディキャップを背負わされている(はずである)。それが指し示すはずの「もの」は、すでに懐疑の過程ですべて雲散霧消しているわけであるし、それを言い表わすはずの「名前」も思考のオペレーションに統合されている(はずである)。懐疑的な場面で、「名前」と呼ぶにふさわしいものが登場する余地はおそらくないのだから、懐疑が続くかぎり、デカルトが「もの」について語ることのできる条件は根本的に欠落しているように見える。
だが例外があって、それは「私」と「この蜜蝋」という二つの「名前」である(「私」については後に触れる)。デカルトが「たとえば、この蜜蝋をとってみよう」と書いたとき、彼の眼前には蜜蝋があったのかもしれないし、なかったかもしれない。いずれにせよ、デカルトは、読み手に、「この蜜蝋を見たまえ」と名指しの身振りをしているのである。読み手はこの身振りに応えて、「この蜜蝋」を「名前」として受けとり、それが指し示す「もの」をデカルトとともに見ているような振りをする。
だが当然ながら、デカルトが「この蜜蝋」によって指し示そうとした「もの」は、読み手には伝わらない。読み手に伝わるのは、『省察』で記述されているとおり、「固くて、冷たく、たやすく触れることができる…」という属性の集合であり、(熱せられた後は)「液状となり、熱くなり、ほとんど触れることができず…」という別の属性の集合である。その箇所を読む読み手の理解を厳密に捉えるならば、それが「この蜜蝋」「について」、つまりいわば‘de re’な仕方で行われている、ということは原理的に排除されている。読み手ができるのは、‘de dicto’な仕方でデカルトの言葉をたどることだけである。そして読み手は、両立しない属性の集合を融合させ、眼前に蜜蝋の変化を描きだそうする。そしてこのような変化が「この蜜蝋」という「個体」に生じているかのような振りをする。読み手がそのように想像力を行使することを、デカルトは疑うことはない。そもそもそれは懐疑以前の事柄、思考以前の事柄、要するに慣習の事柄である。懐疑論を、文字を通して、展開するということには少なからぬ滑稽さがある。なぜなら、慣習を根こそぎ覆すかのような振りをしながら、その実、慣習に対する深い信頼を寄せているのであるから。慣習のもっとも深いレヴェルには、ある語が何かを指し示すということが自他にとって成り立っているはずだというアプリオリな感覚がある。それは意思疎通が成り立つための原始契約のようなものであって、それを覆す懐疑「論」は原理的に存在しないのである。
「名前」を用いてある「もの」について語るとき、ひとは、他者がその「もの」に対して自己と同じ観点に立つことができることを暗黙のうちに認めている。つまり、自己と同じ観点を共有できる他者の存在を暗黙のうちに認めている。だがこのような承認が行われる場所は、デカルトが描き出した「思考」の世界ではない。その世界は「私」だけの世界であるのだから。したがって「この蜜蝋」を「名前」として機能させるためにはその「思考」の世界から離れて、思考のオペレーションを一時的に停止しなくてはならない。「名前」を使用するためには(‘de re’な仕方で)、思考のオペレーションの外側に立たなくてはならないからである。その外側に立つ他者と、「名前」が指し示す「もの」を何らかの仕方で共有できるのでなければならないからである。デカルトが「この蜜蝋」と言うとき、彼は計らずも他者に呼びかけている。呼びかけられた他者の視線を一点に向かわせ、そこに蜜蝋という「もの」を措定するように求めている。だがそれは、「思考」のなすことというよりは、「名前」の本性が要求することなのである。

たしかにそれは『省察』の例外的な一瞬である。「この蜜蝋」に言及するやいなや、『省察』はふたたび「思考」の世界にもどって、「実体」概念を導き出そうとするのだから。だが、それは既述のとおり異論の余地のない論証ではなかった。「実体」に至るためにはまず「属性の集合」に訴えるほかはない。『省察』も、読み手に「この蜜蝋」をその都度「属性の集合」として表象させるしかなかった。そしてその集合を「この蜜蝋」へと個体化させるとき、『省察』は密かな仕方で、自他が眼前に同じ「もの」を所有しているという「思考」以前の場に戻るのである。
おそらく「実体論」と「束理論」との間には一見するほどの対立は存在しない。いずれも、「もの」を「思考」においていかに解消するか、についての理論である。ただし「思考」は、実体論的な観点から「名前」を用いて「もの」を言い表そうとするとき、「思考」の営為のはるか手前のところに戻っているように見える。われわれは、ある名前を聞いてある方向におのずと視線を向ける。それは「思考」の営為というよりは、慣習の一環であり、‘thing’の語源が示唆しているように、「公共の集いの場」ですでに共有された身振りである。デカルトの「思考」はそのような場から離れることで成り立つのであるが、しかしデカルトの例が示しているように、ある「もの」に言及するためには、その場から完全に離れ去ることはできないのである。


神的な神とその末裔  [最近の論文]

神的な神とその末裔 -  プラトン・ディオニューソス・チャタルホユックの神
                     

  晩年のある論文でハイデガーは、哲学者が語ってきた神、つまり「自己原因」としての神に言及して次のように述べている。

  「この神に対して人間は祈ることもできないし、犠牲を捧げることもできない。自己原因を前にして人間は恐れからくず折れることもできないし、この神を前に歌い踊ることもできない。したがって、哲学の神、自己原因としての神を放棄せざるをえない神なき思考(gott-lose Denken)のほうが、神的な神(g?ttliche Gott)に対して、おそらくいっそう近いのである」(1)。

  これは、ありそうもないノスタルジーを述べているように見える。晩年のハイデガーは、「哲学者の神」(あるいはこの表現がシンボライズしているもの)に対する根本的違和感から、再びそれに対して祈り犠牲を捧げることのできる神、それを前にして歌い踊ることのできる神に退避し、「神的な神」を復興することを欲したのだろうか。しかし言うまでもなく、神に犠牲を捧げ、神を前に歌い踊ることが、アルカイックな時代と同様の強度と支配力をもって、われわれの間で再び行なわれるだろうなどと考える者はいないだろうし、ハイデガー自身もそのように考えたとは思われない。
 それとも、奇妙な時代錯誤と逆行によって今日の世界に跳梁跋扈しつつある各種宗教の「…原理主義」が、「神に犠牲を捧げ、神を前に歌い踊ること」の再現だとするならば、ハイデガーの言葉は、彼自身まったく予期していなかった仕方で、現在進行形的に進んでいる歴史の根本動向を言い当てている、ということになるのだろうか。かりにそうだとしても、このことは哲学者にいかなる名誉ももたらさないだろう。今日における各種原理主義の対立は、これまでの歴史で繰り返されてきた陳腐な現実の再生産にすぎず、そこに見られる宗教的熱狂に何か哲学的に意味のあることを探ろうとするとしたら、それは歴史的無知を暴露するようなものだろう。

 そもそも「神的な神」とは、哲学の到来以前にあった(おそらくはプリミティヴな)神のことであると単純に考えていいのだろうか。たとえば、プラトンが中期以降の自説を展開するにあたって、ディオニューソス・エレウシス祭祀や秘儀を導きの糸としたことはよく知られている。もちろん、プラトンがどの程度ディオニューソス・エレウシス祭祀を真摯に受けとったかについては、意見の分かれるところではあるだろうし、プラトン哲学を純粋に見ようとする解釈者にとって、ディオニューソス・エレウシス祭祀に対する言及はたんなるエピソード以上のものではないだろう。しかし逆のように考えることもできるかもしれない。エウリピデスの『バッカスの信女』がディオニューソス祭祀の具体的手順を念頭に書かれていたことをたどることによって、シーフォートはギリシア悲劇の起源とディオニューソス祭祀との関連に新たな光を投じたが(2)、それに類似した解釈をプラトニズムに対して施してみることも可能かもしれない。この点については後に立ち返ることにする。いずれにせよ「哲学者の神」の生成に先立って、すでに神々は存在していたわけであるし、その中でもディオニューソスはひときわ異彩を放ちながらその存在感を周囲に伝播させていた。その存在を敏感に感じ取りその息吹をまっ先に受けとったのは女達であった。女達はこの神に犠牲をささげ祈り、この神を前に歌い踊った。この神は、女達の中で、歌と踊りの陶酔として顕現し、彼女達のアイデンティティ―を超え出て、彼女達を人間性の根底に残るプリミティヴで野蛮な次元へと連れ戻した。ディオニューソス祭祀において、女達は獲物を素手で捕まえそれを生のまま貪り食ったという。明かに、狩猟時代からの遺風である。供儀のアルカイックな形式でもあるだろう。この野蛮な行為は、エウリピデスの『バッカスの信女』のクライマックスでもある。ディオニューソスを追い求める陶酔と熱狂の果てに、バッカスの信女の一人アガウエは、最愛の息子ペンテウスを(もちろんそれとは知らずに)捕らえ引き裂いた。狩りの成果としてアガウエが自宅に持ち帰ったのは、息子の首だったのである。
 
 もう一度先に掲げた問いをくりかえそう。そもそも「神的な神」とは、哲学の到来以前にあった(おそらくはプリミティヴな)神のことであると単純に考えていいのか。つまり、たとえば、ディオニューソス神に「神的な神」の一つのモデルを求めていいのか、ということである。
 ハイデガーの意図を尊重するならば、答えは「ノー」となるかもしれない。そもそも「神的な神」とは、歴史的に存在した特定の神を拒絶するための表現かもしれないからである。ハイデガー自身は「神なき思考」を宣言している。ちょうどヘルダーリンが「神の不在がわれわれを助ける」と語ったように、既存の神から離れ去ることが「神的な神」を求めるのに相応しい態度であるとするならば、「神的な神」を既存の神に定位することはそれとはまったく逆の態度、ということになる。「神的な神」とは実在した神のことではない。それは「思考」の可能性の一つのあり方を指し示しているにすぎないのである。
 しかしながら、この試論は、いま述べた「まったく逆の態度」をとることにする。それには複数の理由がある。その一つは、この試論がハイデガーの意図を探ることを第一義の目的としていない、という単純な理由である。それにもかかわらず、ハイデガーの引用で始めたのは、やはり「哲学者の神」と「神的な神」という対比が、「神」の観念について歴史的に考える上で決定的に重要な示唆を与えてくれると思われたからである(ハイデガーの考え方については、この連作の最後で立ち戻る予定である)。ハイデガーの言葉のもっとも明瞭で具体的な例を提供するのがプラトンであろう。プラトンの「神」の考え方は単一ではない。『法律』においては典型的な「哲学者の神」が称揚されている(無神論者に対する最大の論拠は、「自らを動かすもの」という「魂」の本質を全宇宙が分有しているという事実である(『法律』892c.f)。この点については後のアリストテレスも同じ着想を繰り返す以外なく、「不動の動者」としての神を措定するにとどまった)。しかし中期の作品群においてはディオニューソス・エレウシス祭祀へ言及がしばしばなされるのである。しかもそれはたんなる言及ではない。魂の不死性という決定的な主題を開始する文脈における言及なのである(「知恵そのものはこの浄化を遂行するある種の秘儀ではないだろうか。…僕の考えでは、バッコスの徒とはほかでもない正しく哲学をした人々のことである」(『パイドン』69b-d))。ソクラテスは、秘儀への参加者が死と再生の儀式に参加するかのように、死の議論に入っていく。周知のようにプラトンは哲学の議論を死の練習に喩えたが、それは秘儀が死のリハーサル(3)というモデルをすでに提供していたからこそではなかったか。もしそうであるならば、プラトニズムはその核心部分においてディオニューソス祭祀の反復である、と言って構わないのではないだろうか。おそらくプラトン自身のなかで二つの神の像がせめぎあっていたのではないだろうか。「哲学者の神」と「神的な神」との対立に類する何かが葛藤しているのではないだろうか。これらの想定にはいずれ立ち戻るつもりでいるが、こうした想定によってプラトニズムを貶めるという意図はまったくないことは予め明示しておきたい。それとともに、ディオニューソス祭祀を称揚しようとする意図があることも付記しておく。そもそもディオニューソス祭祀は肥沃な土壌のようなものだった。それは、プラトン哲学が開花するための一つの条件を提供した。そして後に、まったく類似した仕方で、新約聖書の作者達にも益することとなったのである(その影響はとくに『ヨハネ福音書』で顕著である)。
 しかし以上述べられたことはこの試論の重要な動因ではない。仮にハイデガーの意図に忠実にとどまりながら「神的な神」を求めようとして、それをディオニューソス神に見出したとする。確かにそれはハイデガーの意図に適うものではなく、はなはだしい矛盾として映る。ハイデガーのいう「神的な神」とは特定の神ではない。それは名をもたない。それは実在した既製の神ではなく、神を「思考」するための可能性の一つを指し示そうとした表現である。さてここで、「思考」を非常にプリミティヴな様相において考えてみよう。「犠牲・祈り・歌・踊り」という行為に含まれる「思考」、それらの行為そのものと一体にな利、そこで消尽する「思考」のことを考えてみよう。「神的な神」とは、それに対して犠牲や祈りが捧げられ、その周りで歌や踊りが繰り広げられる(おそらくは空虚な)中心、と考えるべきものかもしれない。確かに存在するのは、人々の犠牲や祈りの行為、歌や踊りの行為だけであり、そのために人々が一つの場所に集まる集団的行為(religio)だけであるかもしれない。これらの行為が輪舞となって空虚な中心を形作りその空虚を充たすかぎりにおいて、その中心は中心として維持され、その中心は存在させられる、というだけであるかもしれない。この中心は時として名前をもつだろうが、おそらくそれは本質的なことではない。なぜなら、その名前の指し示すものは、つねに、人々の供犠・祈り・歌・踊りの行為の総体なのだから。もちろん、それらの行為の総体から何かあるものが立ち現れはしても、それが明瞭な文節をもったメッセージとなることはない。重要なのは行為のメッセージ内容ではなく、集団で共有される行為である。冒頭で引用されたハイデガーの言葉を、とりあえず私は次のように解する。「神的な神」に近づくためには、既成の神々を放棄して、さしあたり、人々の供犠・祈り・歌・踊りの行為のただなかに身をおいてみよ。そしてそれらの行為において言語化されることなく志向されているものに自らの思考を沈下させ、それに同調させよ。そうすれば、「神的な神」のような何かの閃きを垣間見ることができるかもしれない、と。ただし、そのためには手引きとなる具体的な例がいくつか必要である。この試論がディオニューソスを引き合いに出すのは、ある意味で、あくまでその手引きを得たいがためのことである。とは言え、手引きとして見るだけであっても、ディオニューソスは計り知れない歴史の奥底にわれわれを誘わずにはおかないのであるけれど。
 
 ディオニューソスの起源をたどっていくと、「神的な神」についていま粗描されたイメージの断片が自ずと浮かんでくる。ディオニューソス神に対して、アテナイでは複数の祭祀が開催され、そのそれぞれが決まったスケジュール・場所・形式にしたがって厳かに行なわれていたわけだが、その祭祀の中心をなす秘儀に関しても、それが秘中の秘とされていたにもかかわらず、その断片的な証言が少なからず残されており、そこから秘儀の概要を再構成することはもはや困難ではない(4)。その再構成の試みを読むと、その儀式の内容そのものに特段の意義があるわけではないことが判る。またそこには後世の大幅な改変や洗練化が見られもする。ディオニューソスで興味深いのはそこにはなく、むしろその起源の方にある。この試論で取り上げようとする「ディオニューソス」の三つの側面を挙げてみよう。
 
 ⅰ)ディオニューソスは放浪する神であった。「黄金満つるリュディア、プリュギアを後に、陽に曝されたペルシアの高原、また城壁をめぐらしたバクトリア、さてはまた霜凍るメディア、豊かに富むアラビアの国々を訪ね、つづいては、海に沿い、ギリシア人と夷人とが混ざり住み、美しく築かれたアジアの国々をくまなく遍歴した」(5)という『バッカスの信女』の前口上で語られるように、地中海東部沿岸の諸国からアラビア半島・小アジアという広大な地域にディオニューソスはその足跡を残した。おそらくそれらの土地で別様の名前で呼ばれたことだろう。今日文献や碑文で確認できるだけで優に100を超える別称があるし、中には‘Poly?nomos’(多くの名をもつ神)として呼ばれてさえいたことから(Orphic Hymn to Triet?rikos)、ディオニューソスのの多面性や越境性は当時からよく知られていたことであった。カール・ケレーニーは、『バッカスの信女』の「クレタなる清き洞」(6)という言葉に導かれて、ディオニューソスの起源をミノア期のクレタに求めたが、時代の闇に下っていくにつれて彼に見えてきたのは、ゼウスともディオニューソスとも判別できない「無名の神」(7)であった。この神は具象的な姿をしていた。それは蛇と雄牛であった。ケレーニーによると、蛇は「もっとも低次元の生」を、雄牛は「より高次の動物界の生」を表わしていた。しかしそれらは別個の生ではなかった。多分ある種の秘儀で歌われていたと推定される言葉によると、「雄牛は蛇の父、蛇は雄牛の父」(8)。雄牛は蛇を生み、蛇は雄牛を生んだ。それらは同じ円環の一断面であった。この円環そのものであるあの「無名の神」は、最低次の生命から雄牛を経て人間にいたるまで途切れることなく連続している「生の同一性」、「生の破壊不可能性」を表わしていた。こうして、ケレーニーがディオニューソスの根底に聞いたメッセージは、「生(ギリシア語のゾーエーζωη)」という破壊し得ないもの、生という不壊なるもの、であった。もちろん、不壊なる「生」とは、一つの観念として考えるならば、可能なかぎり多義的であって内容的にはほとんど空虚に近いものであるだろう。しかし、この空虚を、人々は供犠・祈り・歌・踊りの行為によって充たそうとしたのである(先ほど「「神的な神」を求めようとして、それをディオニューソス神に見出そうとするのははなはだしい矛盾として映る」と述べたが、ディオニューソス神をこの「無名の神」まで引き戻すならば、おそらく「矛盾」という印象はもはや生じないのではないかと思われる。それは特定の神ではない。生を讃えて人が供犠・祈り・歌・踊りの行為を捧げる際に顕現する何かなのであるから)。
 
 ⅱ)ディオニューソス神の来歴をその同一性が消え去るまで追い求めるならば、そこに見出されるのは、他の多くの農耕神、豊饒・多産の神々とさほど変わることのない生の連続性に対する祈念のような何か、が残るだけのように見えるかもしれない。ケレーニー自身も、「不壊なる生」を見出すことで、解釈の作業を打ち切ってしまったように思われる。しかしながら、ディオニューソス祭祀の本質をプリミティヴな「生の讃歌」のように捉えそれを他の豊饒・多産の神々との共通性に還元しようとするならば、それはまだ「不壊なる生」を一つの観念としてしか捉えていないことになるだろう。とりわけ、ペンテウスの末路が示唆するようなディオニューソスの破壊的側面を等閑にすることになるだろう。
 もっとも、「不壊なる生」がなぜ破壊性に結びつくのかということの説明はそれほど困難ではない。「不壊なる生」に対する信仰は自然の近くにとどまることを求める。蛇や雄牛は自然のありふれた風光の一部であった。ディオニューソスを求めて女達が向かった場所は、決まって、欝蒼とした木立の茂る山であった。その行動形態から察するに、ディオニューソス崇拝は都市共同体における生活のあり方の(一時的な)拒絶を含意していた。だから、都市共同体での生活や既成の宗教(つまりは既成の秩序)によって主に抑圧されていた女達に支持されたのである(し、特定の共同体を超え出て支持されたのである)。女達は獲物を狩り出しそれを生肉のまま貪り食うことで、日常隠蔽されている「不壊なる生」を自らのうちに復活させようとした。これは既成の秩序をあえて転倒させ、それ自体不壊なる自然に一時的に戻ろうとする欲求を含んでいるからこそ意味のある破壊的熱狂なのであって、さもなければ無意味な錯乱にすぎないだろう。この熱狂は、文化・民族の境界線を越えて、小アジア一帯から東部地中海沿岸に広がっていった。ディオニューソスは自然が存在するかぎり存在することができたし、文明の成熟が抑圧の度合いを高めるにつれて、支持者の輪が広がっていった。ギリシアは鷹揚にこの秩序破壊的・越境的運動を受け入れた(既成の権威との衝突はあったにせよ)。後に、男たちも参加できるように神話の内容を作り変えて、ポリス公認の祭祀に仕立て上げさえした。これは、ギリシア文明がかなりの程度多様な民族の混交の上に成り立っていたからであろうか、異質なものに対する寛容のなせるわざである。それとは対照的に、ディオニューソスの破壊的性格を敏感に察知し、それを徹底的に弾圧した民族もいた。イスラエルの民である。
 旧約聖書学者の一部でここ20数年来熱い議論の対象となったトピックの一つに、「アシェラとは何か」という問題があった。アシェラとは偶像の一種なのか、神なのかという論争である(ある意味で奇妙な論争だった。なぜなら、神抜きの偶像とはいったい何だろか、という素朴な疑問によって一挙に解決される論争だからである)。思うに大勢はアシェラを神と捉える解釈に傾いていて、今後はアシェラ神の起源の探求に重きが置かれることだろう。おそらくまだ萌芽的な段階にすぎないにせよ、若干の鋭敏な研究者は、アシェラ神(あるいはバアル神)の起源をディオニューソスに求めようとしている(9)。具体的な手がかりは、生肉を食うという行為や蛇や葡萄酒や木立の象徴、歌や踊りを含む祭祀のあり方に限定されるが、しかし最大の手がかりはイスラエルの宗教エリートの主流がアシェラ神(あるいはバアル神)に示した激しい敵意に求められるのではないかと思われる。ヤハウェ神に対する一神教的イデオロギーは、いく度かの国家的危機によって段階的に強化されていったものだが、当然その過程は異質なものを排除するということによって成し遂げられた。そして最大の攻撃目標の一つが、カナーンの土着民に広範な支持を得ていたアシェラ神(あるいはバアル神)であった。それは、上で述べたようなディオニューソス崇拝の秩序破壊的・越境的性格が、イスラエルの宗教エリートの推進する一神教化・中央集権化の運動(申命記主義の運動と呼ばれる)と根本的に相容れないためであったからだろう。激しく糾弾され徹底的に弾圧されることが、消極的な仕方ではあれ、この神の性格を雄弁に物語っているのである。
 しかし、このように、ヤハウェとアシェラの二神の対立は(少なくとも旧約聖書の字面の上では)明瞭ではあるが、以前ディオニューソスに関連して見たのと類似した事態がここでも指摘できる。つまり、歴史に遡及していくと、ディオニューソスの同一性が希薄になり、ディオニューソスとゼウスの区別が不分明となって「無名の神」に転化していったように、ヤハウェとアシェラの対立も次第に曖昧なものになっていかざるを得ない、という事態である。というよりそもそもヤハウェの歴史的起源が不明であることが最大の問題なのだが、今日の旧約聖書学者の大半は、かつてヤハウェとアシェラがカナーンの土着的信仰のなかで不可分の関係にあったという見解に傾いている。最大の証拠とされるのは、シナイ半島北部のクンティレト・アジュルドで1972-5年に出土したヘブライ語碑文である。碑文の解釈はいまだ定まっているわけではないが、それは「サマリアのヤハウェと彼のアシェラの前で私はあなた方を祝福する」と訳せる文言を含んでいる(10)。「彼のアシェラ」という表現は、アシェラがヤハウェの配偶女神であったことを示唆する。神が配偶神をもつことはオリエントの宗教ではごく普通のことであって、むしろ神々は人間の家族の形態をモデルにして捉えられていた。この家族モデルが有意味と見なされるのは、過去から受けつがれ未来にわたって存続するはずの共同体の連続性に対する信念があればこそである。しかしまさにこの連続性に対する信念が王国の滅亡と捕囚とによって打ち砕かれたために、イスラエルの民は彼らの神を家族モデルから引き離さざるをえなかった。こうしてヤハウェ神は親や配偶者から切り離されて、孤高で単独の神に絶対化されるようになる。今日見られる旧約聖書における一神教的表現は、こうした歴史的要因の結果作為的に創作(付加・削除・改変)されたものであって、その「創作」が集中的になされたのはバビロン捕囚以後の紀元前2-4世紀だったろうとマーク・スミスは推測している(11)。もしこの推測が大きく的を外していないのであれば、旧約聖書という作品は(基になった素材がきわめて古いものであるにせよ)、プラトンの作品とせいぜい同時代のものであるか、それより新しい作品ということになる。同時代の精神的風土という言い方はあまりにも安直かもしれないが、プラトニズムの運動とイスラエルの一神教への純粋化の運動は、その内実のまったくの違いにもかかわらず、何か共通する方向性を持っているように見えるのだが、この点はいま措いておくとしよう。
 クンティレト・アジュルドで出土した碑文には絵が描かれていた。そのスケッチを下に掲げておこう。この描画についても定まった解釈は存在していない。ただし、クンティレト・アジュルドは巡礼者が立ち寄る砂漠の礼拝所であり、祭祀に関わる何かがここで描かれていると想定して構わないだろうし、そのことに異論は出されていないようである。
 いま異論の余地を招くことを極力排除して素朴な直観に限ってみよう。前面に描かれている二柱の神は、碑文と関連づけるならば、「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」となるだろう。こうした関連づけを否定する解釈もあるが(12)、広い支持は得られていない。二柱の神は、美術史的な知識を持ち出すならば、「べス型の神(Bes-type god)」と分類される特徴をもっていると言うべきなのだろうが(べス型の神とはエジプト起源の神で、ときには音楽と踊りの神、ときには戦争と殺戮の神として描かれた)、素朴な直観を信用すれば、二柱の神は、頭部は牛(角がないので子牛)、その下は人間の姿であるように見える。上半身は動物、下半身は人間という造形は決して珍しいものではないし(石器時代に描かれた壁画には、豹人間や鳥人間がよく登場する)、また不可解な心理のメカニズムによるものでもない。その起源は狩猟時代であり、それを生み出すメカニズムは狩猟者の獲物に対する(畏怖の念からの、あるいは親密さの表現としての)同一化である(ちなみにウィルソンによれば、最前面の神の右肩の上に描かれているのは「角の生えた蛇」であるそうだ(13)。詳細はここでは述べないが、ここでも「蛇と牛」の混交としての神というイメージを得るのである。あの「無名の神」がシナイ半島で顕現した姿をここに認めるべきであろうか)。
 
 
 
 この絵は「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」を描いているのか。それを否定する理由は何もない。あるとすれば不快感・嫌悪感であろうか。申命記主義運動の担い手達ならば、ここに唾棄すべきプリミティヴな(あるいは、不純で汚らわしい)要素、神に対する冒涜や偶像崇拝の破戒的行為しか見ないだろう。旧約聖書が描くヤハウェ像とのあまりの隔たりのために、ここで描かれている事柄について研究者の歯切れが悪くなるのも当然といえば当然である。牛の姿をした神。牛としての神。牛という神。旧約聖書にはこのようなプリミティヴな神観念に対する激しい非難の言葉がいくつか見られる。たとえば『ホセア書』 8:5~6(訳文は新共同訳による)。
 「サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなりえないのか。それはイスラエルのしたことだ。職人が造ったもので、神ではない。サマリアの子牛は必ず粉々に砕かれる」。
 また『列王記上』12:28~30は、ヤロブアムについてこう記している。
 「彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上がったあなたの神である」。彼は一体をべテルに、もう一体をダンに置いた。このことは罪の源になった。民はその一体の子牛を礼拝するためにダンに行った」。
 後者の言葉からは、イスラエルの破局の原因をヤロブアムに帰するという後代の作為が明瞭に読み取れるが(同様の作為は、『出エジプト記』の有名な「金の子牛」のくだりにもある)、しかし他方で「イスラエルをエジプトから救い出した」神が元来いかなるものであったかが暴露されている、という読み方も可能である。この「救い手」は、後に絶対化されるヤハウェというより、それ以前に、子牛によってシンボライズされる何か、おそらく「サマリアの子牛」であり、そしておそらくは「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」だったという推測は充分成り立つのである。
  以上の粗描からもちろん妥協の余地のない対立がおのずと導かれるのだが、しかしその対立を妥協の余地のないものとしたのは一神教的イデオロギーの不自然さ、イスラエルの民の多分に歴史的偶然に左右されて形成されたイデオロギーの不自然さであって、元来の「サマリアのヤハウェと彼のアシェラ」にはそうした妥協の余地のない対立などなかった。そしてクンティレト・アジュルドの絵が推測させてくれることは、後にヤハウェに対する一神教的運動になった原動力も、徹底して弾圧されるアシェラ崇拝(豊饒・多産性に対する信仰)も、同じ神の一族から分岐した末裔にすぎないだろう、ということである。一方には暴力的なまでの共同体中心主義的なイデオロギーがあり、他方には自然の源泉に戻ろうとする越境的喜びがある。後にそうした方向に分岐していくにせよ、その根源にはクンティレト・アジュルドの描画に見られる祭祀の行為、「供犠・祈り・歌・踊りの行為」がある。実際、この絵には歌や踊りが満ちあふれているように感じ取れる。手前に描かれている牛の母子は、神話的背景がそこに込められているにせよ、やはり最終的には供儀のための牛であり、供犠という形式をとる祈りがこの描画全体に浸透している。ただし、供儀は供犠である以上、それは暴力性の発露以外のものではありえない。そしてこの暴力性がもっとも純粋な形で発現したのが、あの一神教の運動の暴力性なのではないだろうか。
 
 ⅲ)今ここで追及しようとしていることをもういちど確認してみると、それは狭い意味では、ディオニューソス祭祀の起源である。しかし、このテーマは「神的な神」とは何かというテーマのサブテーマの一つである。さて、この試論の全体的分節を明瞭にするための区切りをつける段階に至ったようだ。ディオニューソス祭祀の起源を遡っていくと、やがては無名の神に消え去り、雄牛を生み出す蛇を生み出す雄牛…という終わりのない生殖運動の円環に行き着く。それは終わることのない生そのものである。他方で、ディオニューソスは越境する神であり、多くの文化・民族の中に分け入って多様な姿で顕現した。アシェラ・ヤハウェはその一例のように思われる。さらには、エジプトのオシリス、クレタの両手に蛇を握って掲げる無名の女神や小アジアのキュベレ、さらにはウガリットの神々(とくに最高神エール、「雄牛の神」であるエール神。アシェラは、ウガリット神話において、元来エールの配偶女神であった。最近の研究が徐々に明らかにしていることだが、エール神は、秘匿されながら、旧約聖書の随所に姿を現している)…。こうした歴史的詮索は多種多様な神話の比較作業(ほとんど尽きることはない作業)を必要とするだろうが、とりあえずそのような作業にとっての歴史的座標軸の原点となるものを見定めなくてはならない。
 歴史をさらに遡ってみよう。これまでディオニューソスやヤハウェで見てきたように、雄牛(等の比較的大型の動物)は神が顕現するための非常にアルカイックな形態の一つであった。その理由は狩猟時代の生活形式に求められる他ないだろう。具体例にそくして考えてみよう。以下の画像は、紀元前6000年ごろのものと見られるチャタルホユックの壁画の一つであり、豹に扮した男たちが雄牛や鹿を狩っている様を描いたものである(14)。
 
 
 チャタルホユック(?atalh?y?k)は、現在までに発掘された新石器時代の集落としては最大規模であり(平均の人口は5000人から8000人と推定されている)、その出土品の内容から判断して最も洗練度が高いと評されている遺構である。その最古の地層は7500年ごろと推定されているが、その上層の出土品からは、すでに農耕(大麦・小麦などの穀物や豆類)が行われ牧畜(羊や牛)が開始されつつあったことが判明している。狩猟はいぜんとして生活の糧を得る主要な手段であっただろうが、徐々に農耕を主体とした生活様式に移行しつつあったということであろう。興味深いことに、壷や黒曜石の道具といった製作物に混ざって地中海産の貝殻やシリア産の火打石が出土することから、当時すでに交易と、交易目的の製作活動が行なわれていたらしい。しかし何より人目を惹くのは、宗教的活動を示唆する様々な痕跡、たとえば、念の入った埋葬、石膏で固められた雄牛の頭蓋骨や規則的に並べられた牛骨、数多くの女神像などである。
 とくに女神像は、その数の多さと独特の存在感でもって発掘者に感銘を与えた。チャタルホユックの最初の発掘者メラートの報告によると、男性像もないではなかったが、「女性神の立像は男性神のそれをはるかに凌駕している」(15)。そして男性像は、ある時期以降、まったく造られなくなったようである。原初の宗教において、男性という性は二次的だったのであろう。さて、女神像についての具体的な記述を見てみよう。あえて、メラ―トの記述からブルケルトが要約・整理したものを引用する。「一柱の女神、ときには二柱の女神の大きな石膏像が、家の神棚で、死者の骨の上に立てられている。女神は、子を生み落とすように足を大きく開いた姿で造形されている。その隣で、雄牛の角と豚の頭蓋骨が部屋を睨んでいる。いくつかの例では、雄牛の頭蓋骨、ある例では雄羊の頭蓋骨が、女神の両の太腿の間から現われている。女神は、狩られ供犠に付される獣たちの母、死者を支配し生を与える権威である。壁画では、豹皮を着た男達が鹿や雄牛に群がっている。立像になると、女神は両側を豹にはさまれた姿で現われる。つまり、女神に付き添っているのは、肉食獣に同化した狩猟の共同体、ホモ・ネカンス(homo necans(引用者註:殺戮するヒトの意))なのである。この像はただちに、二頭のライオンにはさまれて玉座に座っているキュベレの像を想起させる」(16)。
 
 「キュベレ」はその起源を小アジアのプリュギア(チャタルホユックと同様、現在のトルコにあった)にもつ大地の女神であるが、ギリシア神話に取り入れられて後にしばしばレアと同一視された。レアは、またしばしばデメテルと混同された。レアの娘のペルセポネ、またはしばしばデメテル本人がディオニューソスの母とされるのだが、ディオニューソスの同一性が安定していない以上、その母親の素性が安定を欠くのは当然である。しかしその起源にチャタルホユックの女神を思い描いたとしても大きく的を外したことにはならないように思われる。ところで、この女神は、上の引用文の言葉を額面どおり受けとるならば、死者や動物界の「支配者」となる。そうだとすれば、チャタルホユックはバハオーフェンが夢想したような母権制の社会だったのだろうか。しかしそれはたんなる夢想というものだろう。現実のチャタル・ホユックは、階層化や性差別のない非常に平等な社会であったと考えられる反面、基本的に狩猟社会であった。そして狩猟の場面では、先ほどの壁画を見るまでもなく、もっぱら男達だけが参加するわけであるし、男たちだけがイニシアチヴをもちうる。そのような生活形態を度外視するような支配形態はありえない。たしかに、狩猟が生活の糧を得るほとんど唯一の手段であった共同体においてはそうであっただろう。ただし、チャタルホユックは農耕社会に移行しつつある段階に差しかかっていたのだから、絶対的な男性優位の構造の中で、共同体全体が女性という性の方へと関心の比重を移しつつあったと考えることは可能であり、その軌跡の一断面をかの女神像は物語っていると解釈することも可能であろう。
 ただし、それ以前に確認しなければならないことがある。先の壁画をもう一度見てみよう。これは、そもそも狩猟の様子を描いているのだろうか。そうには違いないだろうが、ここにはたんに生活の糧を得る様を描くというリアリズムとはまったく異質の何かが存在している。たとえて言えば、モンドリアンの絵のような軽快なリズム感を感じないわけにはいかない。男達は、狩りをしているというより、歌いながら踊っているかのようである。もしこの直観が正しければ、これは狩猟というよりは供犠であると言うべきである。あるいは、供犠としての狩猟であり、狩猟にその起源をもつものとしての供犠である。この供犠の踊りの輪のなかに、動物達も参加しているようにさえ見える。
 
 宗教的行為の最古の形態を供犠に、さらには狩猟時代における儀式行為に求める考え方がある。考え方としては以前からあったといえばいえるだろうが、考古学上の発見を踏まえた学問的価値のあるものとしては、古代ギリシアの供犠の詳細と(旧石器時代中期の)狩猟民の風習の類似性に心を捉われたカール・ムーリの研究あたりから本格的に追求されるにいたったと言えるだろう(17)。ムーリは最初、熊の頭蓋骨と大腿骨を洞穴の中に丁寧に並べたネアンデルタール人の熊の埋葬と、聖なる場所に獲物の骨や頭蓋骨を納めたシベリアの狩猟民の風習との類似性に注目し、そこから古代ギリシア人が獣の骨(とくに大腿骨)を神に捧げた儀式との関連に思いを馳せたのであった。ムーリの知見はシベリアの狩猟民の風習に限られていたが、今日では、骨の扱いに関する狩猟民の風習が地域的にも時代的にも広範囲にわたって存在していることが確認されており、ムーリの洞察の基本的な正しさが実証されることとなった。チャタル・ホユックで発見された多くの牛の角(一列に並べられるか石膏の頭に刺された)は、その実証の過程の一こまをなすものであったし、あの壁画も、儀式としての狩猟あるいは狩猟としての儀式を描いていたに違いなかった。
  こうした発見から、宗教の起源を狩猟行為そのものに求めることに注目が向かうには時間がかからなかったし、ムーリ自身がそのことを充分詳細に述べていた。文献で確かめうる古代ギリシアの供犠の内容、浄化と禁欲を含む準備作業から始めて、骨、頭蓋骨、皮の処理を含む儀式の終結部分にいたるまでの供犠の内容は、そのまま狩猟民の狩猟行為の一部始終に対応していた。供犠は狩猟行為の反復であった。ここから宗教的行為の起源を人間の殺戮行為に求める解釈が浮上してくる。この殺戮行為は様々な代償行為(歌、踊り、饗宴)を伴うにせよ、殺戮は殺戮にかわりがない。殺戮は人間の暴力性の発露であり、その行為を共有するため集合する(religio)共同体は、「ホモ・ネカンス=殺戮するヒト(Home necans)」の共同体である。ギリシア古典学徒であったヴァルター・ブルケルトがアルカイックな宗教行為の根底に見たのはまさにその事態であった。彼は、同名の書物のなかで、ムーリの洞察を補って、次のように述べている。
 「民族学的研究が近づきうる狩猟社会では、狩猟民は、殺される動物に対してはっきりと罪悪感を表明したと言われている。儀式は、許しと再生を提供する。もっとも、しばしば下卑た性格を帯びるので、ムーリは「罪のない茶番」という造語をひねり出しているが。儀式は、死に直面しながら生を継続することへの根本的な不安を露わにしている。血なまぐさい「行為」は、生を継続するために必要なのであるが、しかしそれは、新たな生が再び開まることのできるためにも、必要なのである。だから、骨を集め、頭蓋骨を掲げ、皮を延ばすことは、再生の試み、もっとも具体的な意味での復活として理解すべきである。自分たちの栄養源が引き続き存在してくれるようにという希望と、そうはならないかもしれないという恐れが、狩猟民の行為、生きるために殺すという狩猟民の行動を規定している。
 こうした風習には単なる物珍しさ以上のものがある。なぜなら旧石器時代の狩猟民の狩猟は、単に多くの活動のうちの一つなどではないからである。狩猟への移行は、むしろ、人間と他の霊長類の間のもっとも決定的な生態的変化の一つである。人間はほとんど「狩猟するサル」と定義することができるだろう(「裸のサル」の方がもっと人目を惹くタイトルではあろうが)。こう定義すれば、人は自ずと異論の余地のない事実に向き合うことになるからである。つまり、狩猟民の時代、旧石器時代が、人類の歴史の圧倒的大部分を占めているという事実がそれである。その推定値が95%から99%の間のどこに落ち着くにせよ、人間の生物としての進化がこの時期に成し遂げられたのは明らかである。比較するならば、農業の発明以降の時期―多く見積もっても、せいぜい10000年―は、バケツの中の一滴の水にすぎない。この観点から見れば、われわれは、人間の残忍な暴力が、捕食性の動物の行動に由来するものとして理解することができる。人間は、捕食性の動物の特質を、人間になる過程で獲得するにいたったのである」(18)。
  もう一度チャタルホユックの壁画に戻ろう。これが狩猟の場面を描いたものなのか供犠を描いたものなのかは、実質的な差異をもたらさない問いである。だがかりにこれは狩猟の場面を描いたものであるとしよう。根底にあるのは、人間が捕食性の動物から受け継いだ暴力性である。それに加えてあの壁画にはある種の和やかさや一体性が感じられる。実際ムーリも述べていたが、狩猟民はその獲物となる動物に対して友愛や親密の情を、ときには畏怖の念を、いずれにせよ人間が同類に対して抱く感情を抱かずにはいられない。獲物は自己と同類であり、自己と同じ魂をもつものと見なされる。「生にとっての最大の危険は、人間の食料がすべて魂から成り立っていることである」とあるエスキモーのシャーマンは述べたそうである(19)。あの壁画に描かれたのは同じ魂をもったもの同士の輪舞であった。狩猟とは魂の殺害であり、一種の殺人である。同胞がひざを屈してその体から鮮血をほとばしらせている様を見るのは、つねに、身の毛もよだつ戦慄であっただろう。しかし狩猟者はこうした感情を抑制し克服しなければならないし、集団的な規律にしたがって所定の作業を続けなくてはならない。生物学的な意味での男が社会的な意味での男になるには、こうしたメンタリティ―が何よりもまず求められた。男という性はもっぱら殺戮に向けられ、殺戮のうちに消費される性であった。
 人間が捕食性動物から受けついだ暴力性は、共同体外部での狩猟行為の場面では不可欠な動因であったが、共同体の内部で発揮される場合は深刻な危機をもたらした。ごく初期の段階から人間は絶えず共食いの危機に陥ったようである。ブルケルトによれば、供犠という儀式の存在理由の一つは、こうした暴力性のコントロールにあった。供犠は、共同体のメンバー全員の注視の中、殺戮の行為を、それにわざわざスポットライトを当てるような形で、再現する。それは、共同体の存立基盤である行為を全員に共有させ、なおかつ殺戮という行為が共同体の指揮下で行なわれ、共同体の利益のために行なわれることを、身をもって知らしめることに本来の目的があった(身をもってと言えるのは、動物の殺害がつねに総毛立つような戦慄を見ている者に喚起せずにはおかないからであり、その儀式のメッセージは記憶のうちに消え去ることのない痕跡を残すからである)。殺戮は、共同体全体の意志として行なわれ、共同体の将来の存続のために行なわれる。殺戮と鮮血は、それが不可逆的な過程であるゆえになおさら、人間を恐怖という原始的で動物的ですらある次元に転落させるが、それは一瞬にすぎない。儀式の進行そのものが共同体の秩序を、以前にも増して重々しい形で、参加者に意識させる。その後の再生・復活の儀式は人々の不安と罪悪感を和らげ、そして饗宴と歌・踊りが平穏で楽しい時の再来を告げる。後には、連綿として続いていくはずの共同体の日常生活が残るだけである。チャタルホユックの壁画が描いているのは、やはり、狩猟行為そのものというより、狩猟あるいは供犠がもたらす平穏無事な共同生活のありようであるだろう。

 聖なるものあるいは神が、こうした供犠という儀式に緊密に結びつけられていたのは確かであり、古典期の古代においては自明のことであった(それは、ιερον/ ιερειον、sacer/sacrificareという言葉に刻印されている)。神は供犠の獣にしばしば姿を変えた。ゼウスやディオニューソスは雄牛や山羊に変身した。このことを単純に反転すれば、供犠において屠られる獣そのものが神、ということになる。チャタルホユックの壁画の動物は狩猟者とともに踊っているように見えるが、そこには、すでに述べた同朋意識の親密さ以上のものがある。ひときわ大きく描かれた牛(あるいは鹿か)は、生殖器から、雄であることが判る。この動物は、それ自身が男達の狩猟集団のメンバーなのである。ひときわ大きく、男という性をもち、集団のメンバーであり、死という運命がすぐに待ち受けているこの動物は、「一種の父、父のシンボル、父の身代わり」(20)と見なすことができる。アルカイックなギリシアの壷に描かれた狩猟の場面において、獲物となる動物はほとんど決まって雄であった。『申命記』は(15:19)、「初子の奉献」を「すべての雄の初子を、あなたはあなたの神ヤハウェに聖別しなければならない」という形で伝えている。たぶん、元来、供犠の対象は雄でなければならなかったはずである。それは、既述のとおり、供犠とは、元来、共同体によって是認された形式における暴力性の発露であり、それが女性(雌)や子供に向けられることは、共同体の秩序にとって望ましいことではないはずであったから。それは、大きくて、雄であるものに向けられるべきであった。こうして共同体の是認を経たうえで、父なる神の原初の姿が、供犠の動物と二重写しになって顕現する。チャタルホユックの壁画が描いているのは、まさにその顕現の様子であるだろう。そしてまさに「犠牲・祈り・歌・踊り」という行為の原初のあり方であるだろう。神の顕現については、この壁画が伝えること以上に言うべきことは何もないように思われる。それはちょうど、神の顕現について例外的な(したがって、後の潤色を一切免れた、最古層の伝承に由来すると考えられている)仕方で語っている『出エジプト記』の箇所が、「彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(24:9-12)という実に簡潔なものであったのと同様である。これは供犠の後の饗宴であったのだろうが、供犠とは、つまるところ、屠り、祈り、食べ、踊るという人間の単純な共同行為に尽きるものだからである。

 だがこの神をめぐる「犠牲・祈り・歌・踊り」の行為は、決して永続的な表象とはなりえなかった。それは、供犠の根底にある暴力性が共同体に一時的安定をもたらしはするが、同時に、絶えざる葛藤と不和の種ともなったからである。殺戮という行為に消費される男性という性は血に汚れ、早晩死に行き着くほかはない破壊的性である。この「ホモ・ネカンス=殺戮するヒト」の共同体とその雄牛の姿をした父なる神は、ほとばしる鮮血と死から救い出してくれる者がなければ、殺戮行為の瞬間と罪深さに固着したまま、およそ生を継続することはできなかった。こうして、チャタルホユックの共同体は、あの壁画が伝える行為を補完してくれるものとして、「キュベレを想起させる」数多くの女性神の立像を生み出したのである。古代ギリシアの多くの女神、たとえばヘラやデメテルは「供犠の女神」、「獣たちの女主人」であった。それらは、狩猟者である男達が、元来、殺戮の責任を転嫁するための仮構であっただろう。狩猟者は、女と子供のために狩猟をする。女と子供たちのために、長い期間性的禁欲を強いられ、死の不安や殺戮の罪悪感と戦わなければならない。この労苦と重圧は、一切が偉大な女神の意志のもとで行なわれ、偉大な女神のためになされたものであるという仮構のもとで、耐え忍びうるものとなる。
 「古代人は、誕生の神秘的な過程、子宮を通して新たな生を解き放つ女性が、死地をふさぐことができることを見てとった。だから、死を超えて生を継続することを請け負ってくれるのは女性であった。血の供犠と死はそのなくてはならない引き立て役だった。女神の隣には死にゆくパートナー、供犠の動物がいた。チャタルホユックやミノア期のクレタにおける人間の姿をした女神の側らには、男性性を表わす雄牛が、死ななければならない雄牛がいた。女神イシスは玉座の永続性を表わす一方、ファラオはホルスとして職務に当たるが、つねにオシリスとして死ぬ。男性社会において人類のパラダイムである男は、若者として永続的な秩序に参入し、ファラオの碑文の一つから判るように、儀式的・象徴的に「母親の雄牛」に姿を変えられ、供犠の動物とまったく同じように、早晩死ななければならない。こうして、神話は、偉大なる女神に、息子でもあり恋人でもある選ばれた伴侶を与える。彼は、女神が愛し、去勢し、殺す「父なる」アッティスとして知られる」(21)。
 地域や時代で多少の変動はあるものの、男性はつねに死ぬ運命にあるものとして供犠の雄牛に擬せられ、女性の神格がその死を超えて永続的に玉座に君臨するという筋立ては、小アジアからエジプト・地中海東部の沿岸地帯にまで及ぶ広い範囲にわたって確認できる、それこそルーチン化された神話素であった。男性性は短命で死の運命にさらされる性であるのに、女性性は永続的な生を与える性であった(もっとも、女神像が表わす女性性はほとんどつねに狩猟者に祭り上げられたものであって、男性による仮構にすぎないのであるが)。これらは、言うまでもなく狩猟時代からの伝承された記憶であり、農耕社会への移行を果たし終えた時期になっても依然として共同体の底に保持された記憶であった。この保持された記憶は、言葉で伝承されたというよりも、供犠の儀式によってその都度反復されることで、覚醒させられたはずである。したがって、供犠は、やはり、人々に過去との連続性を再確認させ、未来に続く共同体の永続性を祈願させるための、一言でいって、共同体存続のための核心的行為であり続けた。こうして、古代の共同体は、その基礎に、「ホモ・ネカンス=殺戮するヒト」の血なまぐさい行為を通して、どこまでも自己自身の存立を目指そうとしたのであった。


 アルカイックな宗教祭祀のすべては共同体存続という一点に集約される営為の集合であった。ディオニューソス祭祀で興味深いのは、内容面ではいぜんとして血なまぐさい行為を核心にもっていることからしてアルカイックな性格を引きずっていると言えるものの、遍歴・放浪する神の経歴を反映して、この祭祀で目指されるものがもはや特定の共同体の存続ではなくなった、ということである。ディオニューソス祭祀は「秘儀」であり、秘儀は公共の祭祀に対して「私秘的な(private)」な性格をもつ。しかも、秘儀への参加は、個人の自由な選択に任された。ディオニューソスに限らず各種の秘儀の隆盛は、紀元前六世紀ごろにはすでに顕在化していた個人の「人格性の発見」あるいは「精神の発見」という出来事に関係していたのであろう(22)。そこから、プラトンのように共同体からの離脱を企てる者の「魂」の浄化という、かつての基準からすればまったく考えられない宗教的祭祀の解釈が登場することになる。「神的な神」から「哲学者の神」への移行の背景には、こうした共同体からの個人の離脱という要因が強く働いていることは確かであろう。「精神の発見」は同時に「犠牲・祈り・歌・踊り」という行為を捨て去ることでもある。こうして「神的な神」は次第に姿を消していくのである。
 他方で、かりにアシェラ神・バアル神がカナーンにおけるディオニューソスの降臨の姿だとして、申命記主義の宗教エリートがそれを弾劾したのも、アシェラ神・バアル神が人々を共同体の埒外に連れ出すからであった。それらの神を奉じるのは、一言でいってエゴイズムなのであった。少なくとも、共同体の存続を何よりもまず優先する申命記主義の担い手達からは、エゴイズムに見えたに違いないし、もっと言うならば亡国的なエゴイズなのであった。しかし、申命記主義は、エゴイズムの蔓延に逆らって、単に伝統的な宗教観を復興しようとする復古主義ではなかった。彼らの奉じる共同体は「祭司の王国」(『出エジプト記』 19:6)でなければならない。イスラエルの民はすべて祭司にならなければならない、というのである。これはおよそありえない理想、二重にありえない理想である。プラトンが構想した国家像、哲学者を王にいただく国家像がよく嘲笑の的とされたが、そのプラトンでさえ国民すべてが哲学者にならなければならない、などと主張することはなかった。申命記主義の理想は、プラトンの国家像以上に理想的であり、現実から遠くかけ離れている。しかも、おそらく申命記主義的な文書が最終的に編纂された頃、イスラエルの民は国家を喪失していた。現実が深刻になればなるほど、申命記主義の掲げる共同体は精神主義的なものに純化(あるいは希薄化)せざるをえなくなった。だから申命記主義は、単なる伝統的な宗教観の復古運動ではありえない。それは、復古運動の姿を借りた純粋化、精神主義的化の運動なのであり、おそらくディオニューソス祭祀からプラトニズムが生じた文脈で語るのが相応しい。いずれも、狩猟時代からもちこされた供犠的暴力性からの離脱という点では軌を一にしているのである(もっともそれは別の暴力性に移行した、と言えるかもしれないが)。
 
 さて、以上は素描にすぎない。そこには多様な神、チャタルホユックの神、ディオニューソス、カナーンの神々、プラトニズム、その世俗化としてのキリスト教の神が含まれている。しばらく、これらの神々の相貌をより子細にたどり相互に関連づける作業をしてみたい。それによって、神的な神から哲学者の神への移行がいかになされたのか、その移行はどう意味づけられるのか、(ある意味でハイデガーが望んだ)そこからの逆行は意味あることなのか、いまだ「神的な神」というものを引き合いに出すことにどういう意味があるのか、といった諸問題を順次考えていくことにする。
 


(1) Martin Heidegger: Identitat und Differenz, Pfullingen:G.
Neske,1975,70-71.
(2) Richard Seafort:Dionysos, Routledg,2006,Ch.7.
(3) Ibid.,81,108.
(4) この点については、ブルケルトの著作がもっとも信頼できる記述を与えてくれる。Walter Burkert HOMO NECANS, Ch.Ⅳ.
(5) エウリピデス:バッコスの信女、松平千秋訳、筑摩書房『世界文学大系02:ギリシア・ローマ古典劇集』1983、240。
(6) 同書、242
(7) Carl Kerenyi: Dionysos, 113.
(8) Ibid., 117.
(9) Leslie S.Wilson: The Serpent Symbol in the Ancient Near East,38ff.
Dany Nocquet: Le Livret Noir de Baal,14f.
(10) Leslie S.Wilson, op.cit., 113f. なお画像は、(12)の213ページより。
(11) Mark S.Smith: The Memoirs of God,120-122.
(12) Othmar Keel and Chritoph Uelinger: Gotter,Gottinen und
Gottessymbole.Questiones Disputatae No.134.
(13) Leslie S.Wilson, op.cit., 116.
(14) Burker:HOMO NECANS, Figure3.
(15) James Mellaart: Catal Huyuk: A Neolithic Town in Anatolia.1967, ?181.
(16) Burkert, op.cit., 79
(17) Karl Meuli: Griechische Opferbrauche, 1946, in Phyllobolia
(Festschrift Peter Von der M?hll ).
(18)Burkert, op.cit.,17
(19) Karl Meuli, op.cit.,226.
(20) Burkert, op.cit., 75
(21) Burkert, Ibid.,81
(22) Burkert:Antike Mysterien,4.Auflage,2003,17f.

『ダーウィンのカテドラル』を読んで [最近の論文]

『ダーウィンのカテドラル』を読んで

――宗教と集団選択についての雑感風メモ―― 

 理論的生物学の先端を行く研究者の一人が宗教を論ずるとどうなるか? 宗教についての新たな知見を発見できるだろうか? 門外漢の筆者が、そういう好奇心からD.S.ウィルソンの『ダーウィンのカテドラル』を読み始めたのは、まだ遠くない最近のことであった。その好奇心は章を追うごとに急速に色褪せて行ったのだが、好奇心の糸が途切れることはなかった。むしろ、何か釈然としないものが、たえず浮かんでは沈殿していくように感じられた。もちろん、この釈然としないものの多くが、筆者の理論生物学に関する無知に起因していることは疑い得なかった。しかしその後(若干ではあるが)この無知を払拭する努力をしてはみたものの、やはり何か釈然としないものは残ったし、むしろ釈然としない部分は増大していったように思われる。

 筆者の好奇心が急速に色褪せて行ったのは、ウィルソンの見解が間違った方向に進んでいるように見えたからではなく、むしろあまりに正しすぎて、その意味で刺激に欠けるように思えたからである。宗教なるものを、人間の集団が適応的単位として持続し繁栄することを可能にする進化論的機能という点から説明しようとする考え方は、少なくとも筆者には目新しいものとは映らなかった。特に、古代ユダヤ教の成立過程に最近興味を寄せている筆者にとっては、である。今日『旧約聖書』という名で知られている文書群(とくに、いわゆる「モーセ五書」)は、捕囚状態にあったイスラエルの民が民族間のサバイバル競争の中でいかに四散状態を防ぎ民族のアイデンティティーを守るかという切実きわまりない問題意識のもとで編纂・創作されたものであるから、その文書を支えとして成り立つ信仰が「サバイバルのための」宗教という戦略的意味合いを帯びるのは至極当然であった。ユダヤ教の末裔であるキリスト教にも、同じ戦略性が受け継がれていることは疑いえない。『ダーウィンのカテドラル』は、宗教の進化論的機能を一般的に説明した後で、具体的各論という形で「カルヴィニズム」、「古代ユダヤ教」、「原始キリスト教」にほとんどの紙数を割いているのだが、その構成は、筆者にとっては、言ってみればトートロジカルなものにしか見えなかったのである。
 
 しかし、好奇心の糸が途切れることはなかった。一つには、「集団選択(group selection)」を取りまいている今日の(生物学内部での)状況が面白く見えたからである(「集団選択」というよりは「「複数レベル選択理論(multi-level selection theory)」というべきかもしれない。ウィルソンは、この学説の代表的理論家である)。この状況は、筆者のような門外漢にとっても十分興味深いものであり、『ダーウィンのカテドラル』の第1章だけは再読できたし、関連の文献を読んでみようという気にもさせたのである。思い返してみれば、進化生物学はつねに話題を提供してきた。たとえば社会生物学の論争やドーキンスの「利己的な遺伝子」に幾重もの尾ひれがついて、各種の社会問題を巻き込みながら、ジャーナリスティックなレベルでの話題を提供したことは良く知られているが、「集団選択」に関する議論には、ジャーナリスティックな面白さはないだろうが、それとは質的にまったく異なる次元の知的好奇心をかきたてるものがあるように思われた。そして、昨今の「集団選択」が帯びる問題意識から人間や宗教の起源のことを再考することもきわめて意義深いように思われるようになった。ただし、以上のことを学問的にきちんと吟味して伝えることは、現在の筆者には難しいことであり、他日の課題とする他はないのであるが、その課題のための準備として、以下で自分の興味を引いた点を「雑感」風に記しておきたいのである。

Ⅰ.『ダーウィンのカテドラル』の序文の導入部を、エピグラフを含めて、紹介してみよう。
「  真の愛は、その成員がすべて独立していながら互いに奉仕しあうような生命組織(organism)全体にとっての成長を意味します。これは、「聖霊」の内なる働きが外に現われた形であり、キリストが統べる「肉体=教会」という生命組織なのです。私たちは、同様のことを蜜蜂の内に見いだします。蜜蜂は皆、等しい熱意をもって働き、蜜を集めます。                 
                  エーレンプライス[1630]
 宗教を信奉する者は、しばしば、自分の属する共同体を、単一の生物や、それどころか、社会性昆虫のコロニーになぞらえる。上に引用した一節は、ヒュッテル派の文書からのものである。ヒュッテル派とは、500年前ヨーロッパで誕生し現在でも北米の北西部一帯のあちこちに共同の入植地で立派に日々を送っているキリスト教の一宗派である。モルモン教の影響力の濃いユタ州の道路標識には蜂の巣が描かれている。…
 この本の目的は、宗教集団を一つの生物として見る有機体論的(organismic)概念を一つのまじめな科学的仮説として扱うことである。生物は自然選択の産物である。数え切れないほどの世代にわたり変異と選択を繰り返すことによって、生物は、環境の中で生存し生殖を行うことを可能にする性質を獲得する。私の目的は、人間の集団一般が、特殊には宗教集団が、この意味での生物としての資格があるかどうかを見ることである」(1)。
 
 おそらくこういう書き出しは、今日の読み手には複雑な感情を喚起するだろう。蜂のコロニーを理想とする集団。そこには、利他的行動、自己犠牲、利己主義の排除、高度に組織化された連携、比類のない秩序等の特徴、それらに基づいた集団全体の成功や繁栄が見られるだろう。しかし、集団内部での緊密な連帯が外部に対する容赦ない攻撃性に転化する様を、連日のように、報道は伝えている。ヒュッテル派の人々には迷惑だろうが、今日の多くの人にとって、蜂のコロニーとの類比は、好ましくない連想を幾重にも喚起する。宗教集団と聞けば、その独善的正義感や狂信的行為を思い起こさない人がいるだろうか? 自己犠牲的行為と聞けば、自爆テロの勇気を連想しない人がいるだろうか? この自己犠牲の勇気は、殺人への倫理的バリアーを破壊しながら、今日世界各地にその感染地域を広げている。無神論者で宗教を「ウィルス」としてしか見ないドーキンスのような人ならば、上掲のような書き出しで始まる書物に対して、嫌悪感のようなものしか覚えないのではないだろうか? 
 ウィルソンは、ドーキンスよりはるかに穏健な人である。「私は、率直に、宗教の多くの特徴に賞賛の念を抱いている…私が宗教のいくつかの側面に賞賛の念を抱く理由の一つは、私がその価値のいくつかを共有しているからである。私はこの事実を隠そうと努めたことはないが、このことが私の科学者としての活動を侵害しないことを私は望んでいる」(2)。つまり、科学の名のもとに宗教を弾劾しようとする戦略性とも、逆に、昨今のアメリカでよく見かけるように、科学者の仮面をつけて宗教的価値観を科学の領域にこっそり持ちこもうとする戦略性とも無縁のようである。要するに、学問にとって外的な要因を持ちこもうとする意図は皆無なのだから、ここでは、その姿勢を尊重して話を進めることにする(3)。
 さて、序文の冒頭からも判るように、ウィルソンの関心は、宗教そのものというより、その集団の方にある(しかし、こうした区別は可能なのか?)。内部的に統制のとれた集団は、そうでない集団に比べて高い適応度を示す。これは直感的に自明のことではないのか? 確かにそうだが、適応度とは、あくまでこの地上での基準であり、生物においては生殖・繁殖の確率によって量的に決定できる尺度である。この尺度に基づいて「宗教」集団を論ずることに違和感を覚える人はさぞ多いことだろう。そのような人にとって、宗教とはこの世の秩序を超えたものに対する信念によって特徴づけられるものであり、宗教集団とはその信念を共有する人々の集まりである。このような集団を、この地上での生存と繁栄というまことに「現世的な」尺度を以って量ろうとすることは本末転倒に見える。そう思う人は、ドーキンスとはまったく違う理由で、この本に早々と見切りをつけるに違いないし、そういう趣旨の書評がいくつかあったのも事実である。
 確かに、宗教といえば何か超越的なものを連想するのは当然といえば当然かもしれない。手近かにある『大辞泉』の「宗教」の項目には「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み」とある。他の辞書にあたっても、結果は大同小異であるだろう。こうした「超越的」なものとの関連で宗教を定義する試みに対して、ウィルソンは次のように述べている(先ほどの引用文の直後の箇所である)。
 「宗教は、時として、超自然の存在に対する信念として定義される。しかし、この定義を浅薄で不完全なものと見なす者もいる。仏陀は、いかなる神とも結びつけられることを拒んだ。仏陀は、覚醒し悟りへの道を見つけたと主張したにすぎなかった。現行の仏教がしばしば神々であふれかえっていることを私は知っているが、創始者の見解の方がやはり大事である」。
 これは一つの見識というものであろう(仏陀と同じ趣旨の言葉をイエスも発した。しかし、洋の東西を問わず、創始者の真意は後世には伝わらないものである)。「超自然的なもの」を持ちだすことを、彼の自然科学者としての良心が禁じたのであろうか? しかし、ここには厄介な問題が含まれているかもしれないし、少なくも上述のような定義を「浅薄で不完全」とあっさり片付けることは難しいように思われる。神に対する言及抜きで宗教を論ずることは可能であろうか? かつて宗教学・人類学の世界で「原一神教(Urmonotheismus)」論争なるものがあった。「神は宗教の歴史における新参者である」(4)という言葉が簡潔に語っているように、神々に対する信仰の前段階にはアニミズムが、アニミズムの前段階には「マナ」のような形状もない観念や単純な魔術的儀式が先行していたという発展段階説の当否を問う論争であった。このような論争に決定的な決着はありえないかもしれない。しかし、どれほど原始的な狩猟民の間でもそうであるように、人類の進化の始まりから、単一の「父のような」神に対する信仰があったのではないかとする見解が大勢を占め、論争は収束した(5)。もちろんこの経緯が何か決定的なことを証明したわけではないし、かの発展段階説なるものが、その発展の頂点に一神教を想定するという、結局は西欧人の自己中心性の裏返しにすぎなかったことを考えれば、始めから実りのない論争であったことは確かである。しかしこの論争は、狩猟行為が人類の歴史の中で果たした役割の大きさを改めて人々に印象づけ、この分野での研究を刺激したことも確かであった。そこから、たとえば、狩猟の対象であり狩猟民の生命の糧であるものに対して、人間が特別な感情を育んだのではないかという推測のもとに、多くの実証的な証拠が積み上げられていった。たとえば、すでに中期旧石器時代には熊や鹿の骨が丁寧に洞窟に置かれている事例があったことが報告されているが、これが獲物の骨や頭蓋骨を「聖なる場所」に保管するシベリアの狩猟民の供犠の儀式(さらには、現在、世界各地で暮らしている狩猟採集民の儀式)に呼応していることを人類学者や宗教学者は見逃さなかった。狩猟行為は、たんに血なまぐさい殺戮行為に終わるような行為ではない。生きていくことを継続するには、殺戮の対象が途絶えてはならないし、殺戮の対象の再来が、自分達の生存のためにも、生じなければならないのである。「血なまぐさい殺戮行為は生活の継続のために必要であったが、新たな生命が再び始まることも同様に必要であった。かくして、骨を集め、頭蓋骨を高い所に掲げ、皮を伸ばすことは、最も具体的な意味での再生や復活の試みとして理解されなければならない。生命の糧が存在し続けるようにという願いと、そうはならないかもしれないという恐れが、生きるために殺す狩猟民の行動を規定している」(6)。こう記す宗教学者ブルケルトにとって、宗教的行為の起源は狩猟行為の内にあり、「原一神教」の信仰の神は、狩猟において殺戮され「復活」の祈念が向けられる動物であった。
 いずれにせよ、宗教を定義することは難しく、ウィルソンが宗教についての確固とした定義から始めることを回避したのは賢明であったかもしれない(宗教の捉えがたさは、「宗教(religion)」という言葉にも反映されている。すでに古代ローマの知識人にとっても「宗教」という言葉の起源は不明であった。また、日本人は幕末まで「宗教」にあたる言葉をもっていなかった)。ウィルソンに確固たる指針を与えているものがあるとすれば、序文の冒頭が示唆するように、社会性昆虫のコロニーであっただろう。これはこれで一つの見識であり、ある意味でとても興味深い(たとえば、マレーシアのチェウォン族のような狩猟社会では、成員間の平等が厳格に規則化され、そこから逸脱した者に対しては厳しい罰が下される。その分析は、『ダーウィンのカテドラル』の文脈に置かれるならば、人間社会において倫理や宗教が果たしている生物学的意義が何であるかを端的に示してくれる(7)。つまりそれは、ミツバチの監視活動(policing)のようなもの、であるだろう)。したがって、ウィルソンが「超自然的なもの」に対する言及なしで話を進めることも一つの見識である。しかし、遺憾ながら、ウィルソンが持ちだす宗教集団の実例のほとんどは、古代ユダヤ教に端を発する一神教的体系というかなり特殊な(と筆者は思うのだが)伝統から取られている。その結果、すでに指摘したように、書物の全体的構成が、筆者にとっては、ほぼトートロジカルなものに映ってしまった。そしてより遺憾なことは、生物学者が進化を考える際の遠大なタイム・スケールに比するならば、ウィルソンの持ちだす宗教の例がいずれもきわめて微小な時間内での事例なので、「集団選択」の仮説そのものが矮小化されたものとして見えてしまう危険があることである。この仮説と宗教の関連はもっと広い射程のもとで検討されるべきではなかっただろうか? しかも、ウィルソンは宗教集団の分析をかなり静態的な観点から扱っているのだが、これは進化論を専門とする者に相応しい姿勢とは言えないだろう。少なくとも、宗教を中~後期旧石器時代にまで遡って、ホモ・サピエンスの集団選択的適応戦略の一環(おそらくはその中枢)として扱うことを可能にするような人類学的視座を探るべきではなかったろうか? 「集団選択」の仮説と宗教の関連は、そのようなスケールと観点を要求しているように思われる。この点は後でまた触れることにして、次に「集団選択」の話題に移ることにしよう。

Ⅱ.  捕食者の襲来を集団内の他の鳥に鳴き声で知らせるという鳥の形質を考えてみよう。この形質をもつ個体は、絶えず警戒して周囲を見渡している分だけ、警戒せず餌の獲得にだけ関心をもつ他の個体に対して、集団内での適応に関しては不利な立場におかれる。しかし集団レベルで考えるならば、警戒する個体を多く含む集団のほうが、そうでない集団に比べて、高い適応度を持つ。要するに、利己的個体は集団内では利他的個体に打ち勝つが、利他的集団は利己的集団に打ち勝つのである。ダーウィンは、集団レベルでの選択がありうることを認めていた。
 「高い水準の道徳が、各個人やその子供に、同じ部族の他の人々に比べてわずかな利点しか与えない、またはまったく利点を与えないとしても、立派な人の数の増加や道徳水準の進歩が、ある部族に他部族に対する大きな利点を与えることは忘れてはならない」(8)。
 集団内の個体に注目しているだけではこういう現象は説明できないので、個体レベルでの選択とは違う、集団間での選択が存在していなければならないことは直感的に自明であるように見える。実際、「集団選択」は、1960年代まで長らく自明なものとして前提されてきたようだ。しかし、G.C.ウィリアムズや W.D.ハミルトン、J.M.スミス等の革新的な業績(「血縁選択」理論、「包括適応度」理論、進化ゲーム理論)を境に、生物学者の大勢は集団選択から離反して、個体レベルでの選択に関心を集中させるようになった。ウィルソンが研究者としてのキャリアを開始したのは1970年前後であったはずが、その頃すでに「集団選択」は過去のものになりつつあった。ウィルソンは、あえてマイノリティーの立場を選び、その孤塁を守るかのように研究を続けてきたのだろう。最近になってようやく潮目が変わりつつあるとはいえ、2007年E.O.ウィルソンと連名で著わした論文でも、「集団選択」を取り巻く冷たい状況を憂慮することから書き始めているのを見ると、状況はあまり変わっていないのかもしれない(9)。「選択」のレベルをめぐる議論で何が起き、そして何が起こりつつあるのかを、筆者の関心をひく範囲内で、素描してみることにする。
  「集団選択の拒絶は進化生物学者によって大きな出来事として歓迎された。アレクサンダーはそのことを20世紀における最も偉大な知的革命とさえ呼んだ。集団選択を扱った初期の文献が批判の的になりやすいものであったのは確かである。生物学者がある行動を集団や種のためであるかのように説明するとき、それはたいてい、原理を踏まえた議論というよりも、集団レベルでの機能的現象を素朴に言い表したものであった」(10)。
 思うに、ウィルソンのこの回顧的発言で留意すべきことは後半の部分である。この点についてジョン・メイナード・スミスが面白いエピソードを書き残している。コンラット・ローレンツの「儀式化された闘争」に関連して「私は今でも覚えているが、ジュリアン・ハクスレーは、闘争がエスカレートすると「種の存続に支障を及ぼすから」この儀式は進化したと述べてこの行動を説明していた。当時私は学部学生であったが、その私でもこれが誤りにちがいないことを知っていた」(11)。ここにあるのは、生物学者の間で広く共有されていた便宜的説明と、それに対する直感的違和感である(アリーとエマーソンの「超個体」説に初めて遭遇したときのG.C.ウィリアムズのリアクションも同様のものであったようだ(12))。こうした違和感を出発点として、彼らの内に新たな理論の構想が芽生えたのだろう。しかし、たとえばハクスレーが「種の存続に支障を及ぼすから」という説明を文字通りの意味で行っていたかどうかは疑わしい(典拠が不明なので確かめようがないのだが)。儀式的な闘争を行う個体が、種の存続に配慮していると真面目に考える学者が果たしていたのだろうか? おそらく、あくまで便宜的説明にすぎなかっただろうし、その説明を数学的にモデル化しようという発想もなかったに違いない。ここにあるのは、原理的な一つのパラダイムから別のパラダイムへの移行という「革命」などというものではなかっただろう。曖昧に(おそらく無意識的に、と言っていい)共有された便宜上の説明スタイルが、数学的理論を駆使した別種のスタイルに取って代わられた、ということにすぎないのではないか? 新たなスタイルの代表的理論家たちが「拒絶」したのは、「集団選択」の理論ではなく(ましてや「集団選択」という現象ではなく)、その理論が述べられる際の因習的な説明スタイルだったのではないか? もちろん、それらの理論家たちは「集団選択」の現実性にはきわめて懐疑的であったが、「拒絶」という硬直した姿勢を示すことはなかったし、充分な根拠があれば「集団選択」を考え直すだけの柔軟さは持ちあわせていたのである。
 たとえば、ハミルトンは、ジョージ・プライスの業績を知るに及んで「集団選択」に対する態度を変えるにいたった(13)。プライスの等式は、平均的な特性の世代にまたがる変化を、選択の効果(その特性に対する自然選択の効果)を捉える項と、遺伝の効果(その特性が次世代へと伝達される正確さ)を捉える項の和として書き表すことができることを示したもので、それ自体は数学的なトートロジーにすぎないものだが、ハミルトンにとっては、個体レベルの選択と集団レベルの選択の関連を考え直すきっかけを与えるものと映った。ハミルトンは、早速プライスの等式の一般化に取りかかったのだが、その成果は今日の「複数レベル選択」理論の土台となっている。手段にすぎないものが原理を正当化するということは本末転倒のように見えるかもしれないが、このような例は科学の歴史でも決して珍しいことではない。かつての素朴な「集団選択」の理論家に欠けていたのは、原理そのものに関する何かではなく、それに相応しい知的手段にすぎなかったことをハミルトンの例は示しているように見える。
 反-集団選択の立役者の中で原理的に最も一貫していたのはジョン・メイナード・スミスであった(ウィリアムズは、晩年、若い頃のネオ・ダーウィニズムの考え方からはかなり離れてしまった)。しかしその一貫性は彼の生物学に関する洞察のせいというよりは、彼の科学に対する基本的信念に求められるかもしれない。彼は、ハミルトンとは対照的に、プライスの等式に理解を示すことを拒んだ。それは理解の埒外にあったからではなく、彼の「還元主義」的考え方とは合わないからであった。「私には、遺伝子中心の(gene-
centered)アプローチの方が数学的に単純で、因果的にも適切だと思えるのだが、これは、私が全体論的(holistic)モデルよりも微視的なモデルの方を好むという事実の反映にすぎないのかもしれない。私は古典的な熱力学よりもマックスウェル-ボルツマンの方を好むし、プライスの等式よりもドーキンスの方を好む」(14)。
 「還元主義」とは、高次のものを低次のものへと還元することであり、低次のものとは当該領域で通常「個体」として扱われているものであるから、「還元主義」はつねに「個体主義」である。個体とは何かという問いは、しばしばきわめて難しい意味合いを帯びるのだが、もちろん難しく考えなければならない理由はない。考えてみれば、「集団選択」に対して1960年代に提起された新たな理論はいずれも還元主義的であり、「集団」に帰されていたものを「個体」のレベルで説明しようとする理論であった。これらが支持された理由の一つは、理論内部に「不必要にものを増やしてはならない」とするオッカムの原則(英米系の学者がとりわけ好む原則)に合致していたという方法論的側面もあったに違いない。しかしこの方法論はつねに実質的に解釈されうる。つまり、個体のレベルにあるもの以外のものはすべて理論において場をもたない、一種のフィクションとして扱われる危険がある。たとえばドーキンスのウィン・エドワーズの説に対する態度の内には、そうした傾向がまぎれもなく潜んでいたように思われる(もっともドーキンスはこの点では自説を撤回したが)。
 上で引用した一文でジョン・メイナード・スミスは、還元主義的な立場とそれに対立する立場の違いを、ほとんど趣味の問題として鷹揚に扱っているが、これはあくまで最晩年の発言であったし、「集団選択」に対する懐疑的姿勢を崩すことはなかった。それが明瞭に現われるのが、ジョン・メイナード・スミスがD.S.ウィルソンの「形質集団」に対して示した拒絶的態度であった。彼にとって、「集団」が「選択」の単位になりうるためには、集団は「変異、繁殖および遺伝」という現象を示さなければならなかった(15)。「変異、繁殖および遺伝」という現象を示す個体がモデルとしてまず置かれ、それと類比的な「個体群」だけが「集団」という名に値するという考え方である。それによれば、凝集性が高く他の集団から空間的に独立している個体群でなければ「集団」とは言えない。それに対してウィルソンの「形質集団」は、ある形質を共有している個体間の間に相互作用が生じ、その結果適応度に影響があるならば、その相互作用がきわめて一時的であっても成り立つのである(哲学的に見れば、「実体論」と「束理論」の対立を想起させる)。ジョン・メイナード・スミスとウィルソン(とソーバー)の間に反論・再反論が交わされたが、いずれの言い分にもそれなりの説得力があった。しかし、そもそも、この論争全体には、「集団」という概念の定義の問題にすぎないと言える側面があった。定義とは、所詮、便宜上のものであるし、正しい結果を導く限りで正しいという便宜的な側面をもつ。そして、実は、その意味での便宜性が証明という形で公然のものとなったのである。つまり、個体主義的な立場に立とうと集団主義的な立場に立とうと結果的には等しく正しい記述が得られるということが、はじめは限られた現象にそくして、ついでより一般的な形で、証明されたのである(16)。この点は、今日、より一般的に「多元主義(pluralism)」の標題のもとで扱われている。どちらかの立場に固執する者にとって、この事態は由々しい問題かもしれないが、「集団選択」をめぐる論争は、「多元主義」という意外な形に収まることで、肝心の論争点を失ってしまったかに見えるのも確かである。この論争は、そもそも論争としては終息を迎えた、と言うべきなのであろうか?
 しかし「多元主義」が話題になりつつある頃、それとはまったく別の領域での動向が「集団選択」に新たな生気を与えようとしていた。一般に‘major transitions’(「主要な移行」)という標題で扱われる問題群である。この標題はジョン・メイナード・スミスがサトマリーとともに1995年に著わした書物‘The Major Tran‐sitions in Evolution ’(邦題は『進化する階層』)に由来する。そこでの焦点は、進化の歴史においてエポックをなした八つの「主要な移行」(「複製する分子」→「コンパートメントに囲われた分子の集団」、「独立の複製体」→「染色体」、「遺伝子および酵素としてのRNA」→「DNAとタンパク質」、「原核細胞」→「真核細胞」、「無性的なクローン」→「有性生物の集団」、「原生生物」→「動物、植物、菌類」、「孤独性の個体」→「コロニー」、「霊長類の社会」→「人類の社会と言語の起源」)を可能な限り統一的なロジックで解明しようとすることにあった。ジョン・メイナード・スミスは、当然ながら、「遺伝子中心のアプローチ」をここでも採用している。「移行は、個々の複製体に対する直接的な選択の利益によって説明されなければならない。われわれが依拠するのは、ウィリアムズ(1966)が輪郭を描きドーキンス(1976)がさらに明瞭にした遺伝子中心のアプローチである」(17)。しかしながら、この「主要な移行」は、事柄の性質上、従来の還元主義・個体主義には都合の悪い問題である。なぜなら、安定した個体のレベルとその秩序を前提して済ますわけにはいかないからである。むしろそうした個体のレベルとその秩序がいかにして成立したのかを絶えず問わなければならないのであるから、従来の観点からの転換が求められる。この転換をオカシャは「共時的な方向性」から「通時的な方向性」への転換として捉えている(18)。すでにレオ・バス(Buss, L.: The Evolution of Individuality,1987)やリチャード・ミコッド(Michod,R.E.: A Darwinian Dynamics: Evolutionary Tran-
sitions in Fitness and Individuality,1999)がこの新たな方向性を切り開くような著作を発表していたが(もちろんリン・マーギュリスの先駆的業績を忘れるわけにはいかない)、彼らは「主要な移行」を、スミス/サトマリーのように「情報伝達」という観点からではなく、「個体性(Individuality)の新たなレベルの進化」というまったく違った観点から捉えようとしていたのである(バスの革新的なアイディアに多大な刺激を受けながら、スミス/サトマリーはそれを「遺伝子中心」の「古い皮袋」に入れ直してしまったという意味で、彼らの試みはきわめて中途半端だった)。とくにミコッドがこの進化のプロセスの解明を「集団選択」を軸として推し進めていることが、「集団選択」の議論そのものを新たなステージへと押し上げる要因の一つとなった。次のオカシャの言葉は、E.O.ウィルソンとD.S.ウィルソンの2007年の論文でもそのまま引用されていることから見ても、「集団選択」の現在を端的に伝える言葉なのであろう。
 「ミコッド(1999)が強調しているように、多細胞生物は協働する細胞の集団であり、(真核)細胞は核染色体と細胞小器官を含む集団である。細胞や多細胞生物は明らかに進化したものであり、適応の単位としても機能しているのだから、集団選択の実効性は否定できない。生物個体が選択の唯一の単位であるという包括的な前提が通時的観点から見て受け入れがたいのとまったく同様に、集団選択がごくわずかな影響しか及ぼさないという前提も受け入れがたい。なぜなら、われわれの観点を下方にシフトすることによって、生物個体が協働的な集団であり、したがって集団選択の産物であるということが明らかになるからである」(19)。
 この言葉が正しいならば、「集団選択」をめぐる論争で初期の頃から繰り返されてきた批判に対して意外なほど簡単な答えを与えることができる。ウィリアムズは「集団選択」の仮説に有利となるような経験的実例の乏しさを指摘したのであるが(「集団に関係する適応の実例は、実は、存在しない」(20))、どうやら、実例は乏しいどころではない、ということになりそうな気配である。
 
Ⅲ.  筆者が『ダーウィンのカテドラル』で興味を覚えたのは、「集団選択」の仮説がいま突入しつつあるこの新たなステージに興味をそそられたからである。しかし考えてみれば、「細胞は進化の産物である」とか「個体が協働的な集団である」といったことは、門外漢にとってはむしろ当たり前なことに見えるし、こうしたことが今更ながらに強調されなければならないこと自体、きわめて不可思議に見えてしまう。この不可思議は、これまでの進化論の主流があまりに静態的なモデルと還元主義的な思考様式に囚われてきたことに由来するのだろうか? その結果、当然見えるはずのことが見えなくなっていた、ということなのだろうか? 
 いずれにせよ「主要な移行」というトピックスは「集団選択」に関する議論を狭い世界から解放して、生物の世界をまた始めから見つめ直すという課題に直面させるような効果をもつ(何しろ「細胞は進化の産物である」ということが強調されなければならないくらいだから、ある意味で誰もが初学者の位置にいるようなものではないだろうか?)。『ダーウィンのカテドラル』第1章の「主要な移行」に割かれた箇所には、新たな始まりを予感し告知するような表現がいくつも踊っている。「リン・マーギュリスは、真核細胞‐バクテリアを除くあらゆる生物の有核細胞‐が、実は、バクテリアの共生的共同体であり、そのメンバーは遠い昔にはより自立的な生活を送っていたと主張した。それに類似した、生物個体の集団(groups of organisms)から生物個体としての集団(groups as organisms)への移行が、生命の歴史を貫いて生じてきたことは確からしい」。「社会集団を生物に似たものとして考えることは、この35年間、流行遅れであったのだが、いまや、生物個体そのものが社会集団であることが判明したのだ」。「単一の生物個体を高度に統合された社会集団として見なすことは、複数レベル選択理論の射程と意義を大きく広げた。ロバート・トリヴァースがかつて講義で述べたことだが、社会的行動の進化に興味をもつ者は遺伝学を理解する必要性をつねにわきまえてきたが、遺伝学者が社会的行動の進化を理解する必要があるなどということを、30年前の誰が思っただろうか?」。
 生物個体それ自体を一つの社会集団と見なす考え方は、複数レベル選択に関する従来の理解に対して幾重もの変更を要求するのだが、『ダーウィンのカテドラル』でウィルソンは三つのことに注意を喚起している。第一に、高次のレベルでの選択は低次のレベルでの選択に比べるならばつねに弱い、とはもはや言えなくなってしまったこと。「あなたや私のような単独の生物個体が、そうした言明の輝かしい反証である」。第二に、もはや「利己的‐利他的」というお馴染みの対概念に過度に振り回される必要がなくなったこと。「主要な移行は、集団内の選択が抑止され、集団間の選択が進化上の変化の最終的ベクトルを支配するとき、生ずる」(21)ことが正しいとするならば、社会生物学が説明しなければならないのは、利他的行動の発現のメカニズムというよりは、利己性の抑止のシステムであり、「社会統制(social control)」にも似たメカニズムの成立過程である(この点は、宗教の社会生物学的意義とも大いに関係する)。第三に、高次のレベルでの選択を生物個体のレベルで止めてしまってはならないこと。したがって、緊急の課題の一つとして、社会性昆虫のコロニーで集団選択がいかに機能しているのかをもう一度洗い直す必要が出てくる。ホウィーラーが提唱した「超個体(superorganism)」の概念が再評価されるべきなのである。「こうしたことを背景として、人間集団の有機体論的概念は新たな生命を受け取る。30年前だったら、ヒュッテル派の人々が自分の共同体を・・・蜂の巣になぞらえたことを、進化生物学者は、素朴な集団選択説の内でも最悪のものとして退けただろう。それがいまや、科学のレーダー画面上にくっきりとしたドットとなって現われているのである」。
 この最後の発言を文字通りの意味で受け取るならば、人間の社会性や宗教システムの解明のためにも社会性昆虫のコロニー発生という「主要な移行」のメカニズムの研究が不可欠な前提の一つとならなければならない、ということになる。この課題は『ダーウィンのカテドラル』の冒頭から示唆されていたことではあるが、残念ながら示唆されただけで終わってしまったように思われる(同書が社会性昆虫に関する議論に立ち入らなかったのはなぜだろう?)。しかし筆者としては、ここに、集団選択説が「主要な移行」という新たな刺激を得て私たちに提示しようとしている新たな次元の一つを感じとるのである。
  もっとも、2007年に発表されたE.O.ウィルソンとD.S.ウィルソンの論文「社会生物学の基礎を再考する」は、「真社会性」への言及を豊富に含んでいるのだが、結果的には、この分野での研究にそれほどドラスティックな変化が生じていないことを強く印象づけただけにとどまっている。この論文を読んで判ることは、その著者、とくにE.O.ウィルソンが、血縁選択の意義を可能な限り低減させようと躍起になっているということであるが、それが確たる論拠に基づいた主張なのか、たんなるアジテーションなのかは俄かには決めがたい。「昆虫のコロニーが複雑な決定をすることを可能にする社会的相互作用は、生物個体が決定を下すことを可能にするニューロンの相互作用にすら比較することができる。このような相互作用が進化したのは、コロニー内部での選択によってではなく、もっとも機能的な相互作用をおこなうコロニーが他のコロニーに対して勝利を収めることによってであった。高い血縁度は必要ではなかったし、個体が成功を収めた集団のメンバーとして利益を得るということに注目しても、ほとんど何の洞察も得られない。問題は、ずっと以前にホウィーラーが想像したように、あるコロニーが単一の生物個体として機能することを可能にする複雑なメカニズムを理解することである」(22)。
 E.O.ウィルソンの「血縁選択」説批判は、最新の研究による援護射撃が少なからずあるように見える。たとえば、ラトニークス等の研究は、ミツバチのコロニーの安定性を維持するのが血縁度ではなく、むしろワーカーの卵を次々とつぶしていったり無用な女王蜂を殺すことで、集団にとって撹乱的な要因を抑止する「監視(policing)」行動の方であるということを実証した(23)。しかしE.O.ウィルソンの「血縁選択」批判にはすぐさま反論が出されるなど(24)、まだ決定的な方向性が示されるにはいたっていないのが現状であるようだ。激しい論争や画期的な業績があったにもかかわらず、自然においてなぜ社会性という現象が成立したのかというシンプルな問いに対しても、まだ決定的な答えは出ていないようであり、まだ何も知られていないブランクな状況が広がっているかのようである。こうした状況がどうなっていくのか、筆者は筆者なりの関心をもって注視していきたいと思っている。
 
 註
1.Wilson, David Sloan: Darwin’s Cathedral : Evolution, Religion, and the Nature of Society, Chicago: University of Chicago Press,2002、p.1.
2.Ibid.,p.3. 
3.ドーキンスとウィルソンの間に歩み寄りの余地はあるだろうか? ドーキンスの主張は極端かもしれないが、今日の状況のもとでは強い説得力を感じとれる一面もある。2001年9月11日のテロ攻撃から一ヶ月後、『ガーディアン』誌が「世界は変わったか」というテーマのもとで企画したインタビューに対して、ドーキンスはシンプルだが力強い言葉でこう答えた。
 「われわれの多くは宗教を害のないナンセンスと見ていた。信仰には裏づけとなる証拠がまったくないだろうが、もし人々が心の支えとなるより所を求めているなら、害なんてどこにもないではないか、とわれわれは考えていた。9月11日はそんな考えを一変させてしまった。啓示された信仰は害のないナンセンスなどではない、致命的なまでに危険なナンセンスになりうるのだ。それは、人々に自分自身の正しさに対する揺るぎない自信を与えるがゆえに危険である。それは、人々に自殺する間違った勇気を与え、それによって、他者を殺すことに対して通常あるバリアーが自動的に取り除かれてしまうがゆえに危険である。それは、受け継がれてきた伝統の違いだけでレッテルを貼られた他者に対して憎悪を教えるがゆえに危険である。そして、われわれはみな不可思議な敬意の念に陥り、それがために宗教に対して通常の批判的精神を発揮できなくなるがゆえに危険である。そろそろ宗教に大きな敬意を払うのは止めようではないか(Many of us saw religion as harmless nonsense. Beliefs might lack all supporting evidence but, we thought, if people needed a crutch for consolation, where's the harm? September 11th changed all that. Revealed faith is not harmless nonsense, it can be lethally dangerous nonsense. Dangerous because it gives people unshakeable confidence in their own righteousness. Dangerous because it gives them false courage to kill themselves, which automatically removes normal barriers to killing others. Dangerous because it teaches enmity to others labelled only by a difference of inherited tradition. And dangerous because we have all bought into into a weird respect, which uniquely protects religion from normal criticism. Let's now stop being so damned respectful! )」(http://books.guardian.co.uk /writersreflections/story/0,1367,567546,00.html)。

 生物学者として「宗教」をテーマにする以上、ウィルソンはドーキンスとの対話を避けてとおることはできないし、実際、「悪魔的なミームを超えて―ドーキンスが宗教について思い違いをしている理由」という一文を書いているが、ウィルソンとしては話題を主に「集団選択」の専門的な方面に限定しているし、それ以外のことについて言い合う気はないようであるから、両者の間の溝がそれほど簡単に埋まらないだけは確かである。
Cf., http://www.skeptic.com/eskeptic/07-07-04.html.
4. G.van der Leuve:Phanomenologie der Religion,p.87.
5. Burkert,Walter: Homo Necans,p.73f.
6. Ibid.,p.16.
7.Darwin’s Cathedral , p.23f.
8.Darwin,Charles:The Descent of Man and selection in relation to sex, New York,p.166.
9. Wilson, Edward O. and Wilson, David Sloan:”Rethinking the theoretical foundation of sociobiology”, in The Quaterly Review of Biology,2007,vol.62.No.4,p.327-348. 
10. Darwin’s Cathedral,p.12.
11. Meynard Smith,J.:” Commentary on Kerr and Godfrey-
Smith” , in Biology and Philosophy,2002,17(4),p.524.
12.Sober, E and Wilson, D.S.:Unto Others,1998,p.36.
13. Okasha,Samir:” Maynard Smith on the levels of selection question” , in Biology and Philosophy,2005, 20(5),p.999ff.
14. Meynard Smith,J. :” Commentary on Kerr and Godfrey-
Smith”, p.523.
15. Meynard Smith,J. : “How to model evolution”. In: Dupre J.(ed),The Latest on the Best:Essays on Evolution and Optimality,MIT Press, P.121.
16.Dugatkin L.A. and Reeve H.K. :”Behavioural ecology and levels of selection:dissolving the group selction controversy”, in Advanced Study in the Behavioral Sciences, 1994,23,p.101~123
Kerr,B and Godfrey-Smith,P :” Individualist and multi-level
perspectives on selection in structured populations”, in Biology and Philosophy,2002,17,p.477~517.
17.Maynard Smith,J.and Szathmary,E.: The Major Transitions in Evolution,1995, Oxford, p.8.
18. Okasha, Samir:” Multilevel Slection and the Major Tran-
sitions in Evolution“, in Philosophy of Science,2005, 72,p.1014ff.
19. Okasha,Samir:” Maynard Smith on the levels of selection question “, p.1008.
20.Williams, G.C.: Adaptations and Natural Selection:
A Critique of Some Current Evolutionary Thought.Princeton,1966, p.92~93.
21. Wilson, Edward O. and Wilson, David Sloan: ”Rethinking the theoretical foundation of sociobiology”, p.330.
22. ibid, p.342.
23. Ratnieks,F.L.W. and Wenseleers,T.:”Policing Insect Societies”, in Science ,2005,307, p.54~56.
24. Foster, K.R,, Wenseleers, T. and Ratnieks,F.L.W.:" Kin selection is the key to altruism", in Trends in Ecology and Evolution, 2006, 21, p.57~60.

メタファーとしての情動   [最近の論文]

メタファーとしての情動  近年の情動論の一動向

1. 情動についての古典的な見解
2. 「世界の魔術的変容」
3. ソロモン:情動の合理性から情動のポリティクスへ
4. 情動の社会性
5. メタファーとしての情動

 “Emotion”―― ここでは「情動」と訳しておく――とは何か。
 「情動」の定義の試みを以下でいくつか紹介することにしよう。最終的に得られる答えを先取りして言えば、「情動は定義できない」。それは、情動があまりに多くの要因と重なり合っているからなのだが、ここには消極的な意味合いはいささかも込められてはいない。つまり、「できない」という点に強調が置かれているわけではない。むしろ「情動とは何か」という問いかけが成り立つための前提を崩すことが目的である。その問いかけが成り立つためには、情動という定義可能な「もの」がなければならないだろうが、その前提を否定することが以下の狙いの一つである。
 まずウィリアム・ジェームズから始めてみよう。ジェームズは情動の源泉を、身体内に生ずる生理的変化に求めた。ジェームズは、デカルト以降の伝統に忠実であったし、その後多くの反駁を受けたにもかかわらず、その外観を変えながら命脈を保ちつづけており、自然科学的な構えをとる今日の情動論にとっても一つの基本的前提をなしている、と言えるだろう。
 しかし、1970年代以降、その前提を根本的に見直そうとする動きが活発となった(すでにサルトルが先鞭をつけていたのだが)。それは、情動を伝統の縛りから解き放して人間固有な現象として捉える試みであり、日常的な社会生活の中で与えられるがままの情動のあり方を記述することから始める試みであり、従来の伝統とはまったく違った所に、情動を把握するためのモデルを求める試みである。そこから、「情動とは判断である」、「情動とは一種の戦略である」、「情動とはコミュニケイションである」、「情動とはシナリオあるいはストーリーである」等の多様な定義が提起されることになった。これらは一見無関係に見えるが、じつは相互に深く関係している。それらは、いずれも、デカルト-ジェームズ的な生理学的伝統から情動を解放しようとする試みのヴァリエイションだからである。この対立関係の由来と経緯を概観し、新たな方向性を持った見解に何がしかの意味づけをしてみたい。

1. 情動についての古典的な見解

 情動(emotion)とは何か。その問いに対して、ウィリアム・ジェームズが与えた答えは非常に単純なものだった。ジェームズは、なんらかの身体的変化を伴うような情動を「標準的情動(standard emotion)」と呼び、そのような変化を伴わない情動をこの論文では扱わないと断った上で、次のように記す。
 「これらの標準的情動についてわれわれが抱く普通の考え方は、ある事実についての心的な知覚が、情動と呼ばれる心的作用を引き起こし、この後者の心的状態が身体的表出を産み出す、というものである。これに反して私の主張は、身体的変化が、[情動を引き起こす]事実の知覚の直後に起こるということであり、[身体に]生ずるのと同じ変化を感じることが情動なのである」(1)。
つまり、通常の考えでは、心的な知覚→情動→身体的反応となるのだが、これは間違いで、なんらかの知覚から間をおかず、無媒介的に身体がそれに反応し、その反応を感じ取ることで情動が生ずる(知覚→身体的反応→情動)、というわけである。さらに引用を続けよう。
  「常識的な言い方によると、われわれは財産を失い、悲しくなって泣く。われわれは熊に出くわし、びっくりして逃げ去る。われわれはライヴァルに侮辱され、怒り殴りかかる。ここで擁護されている仮説によると、この順序は不正確であって、一つの心的状態[情動]は、もう一つの状態[知覚]によって即座に引き起こされるいるのではないのであって、身体的表出がまず間に挿入されなければならないのである。より合理的な言い方をすれば、われわれは泣くから悲しく感じるのであり、殴るから怒るのであり、震えるから怖いのであって、悲しいから泣く、怒っているから殴る、怖いから震えるわけではない。知覚に次いで生ずる身体的状態がなければ、その知覚は実質上たんなる認識とかわらないことになってしまい、生気がなく、無色で、情動の暖かさをかいたものとなるだろう。もしそうならば、われわれは熊を見て、逃げ去るのが最上だと判断したり、侮辱を受けて殴りかかるのが正しいと考えることはあっても、実際に怖しとか腹立たしいと感じることはできなくなるだろう」。
 ここで述べられていることの不合理さというか、実感との乖離を指摘することはたやすい。泣いたり、殴りかかったり、震えたりといった「身体的表出(bodily manifestation)」を伴わない情動の実例を挙げることは、誰にでもすぐできることだろう。そのような反論を先取りして、あらかじめジェームズは、ここで問題にしているのはあくまで「標準的情動」なのだという条件をつけていたのだが、それは見かけだけのことである。論文の後半部分で、一見「情動の暖かさをかいて」いるように見える「知的感情(intellectual feeling)」であっても、必ずやなんらかの「身体への反響(bodily reverberation)」を伴っているのだと述べているのだから(2)、ジェームズにとって、すべての情動は「標準的情動」なのである、つまりはなんらかの「身体的変化」を含んでいなければならないのである。しかし、財産を失うことがなぜ「泣く」ことに直結するのか。悲しいからなのではないか。たしかに熊に遭遇したなら、全身総毛だって逃げようとするだろう。だが大型の熊のぬいぐるみを見ても、身体は自動的にそのような反応を示すのか。やはり「本物の熊だ。怖いぞ」という判断が、知覚と身体変化の間に介在しているからこそ、そのような違いが生ずるのではないか。また熊との遭遇といった生命の危機を含意する出来事ならいざ知らず、侮辱といった高度に文化的な観念に対してまでも身体は即座に反応するものなのか。たぶんジェームズは、侮辱されてカッとなり頭に血が上るというような経験を念頭においていたのだろう。熊との遭遇にせよカッとなる経験にせよ、そうじてジェームズの念頭にあるのは短期的な(あるいは瞬間的な)出来事なのだろう。だが情動がすべて短期的だということはなんら証明されてはいない。悔恨は? 不安は? 復讐心は? 自尊心は? またそれらに特有の身体的表出なるものを、何か挙げることができるだろうか。
 このような一見して判る不合理な点にもかかわらず、ジェームズの考え方には、そう簡単に否定し去ることのできない要因が含まれている。二点だけ取り上げてみよう。
ⅰ) 情動vs 知性 
 ジェームズは情動を知性との対立関係において把握しているように見える。情動から身体の関与を取り去ってしまえば、「知性的な知覚という冷たい中立的な状態が後に残るだけ」だろう(3)。それは、鼓動が早まり、息遣いが荒くなり、唇が震え、足がガクガクし、鳥肌がたち、内臓が液状化することもなく、「熊がきた、逃げるのが得策だ」と冷静な判断を下す「感情のない認識(feelingless cognition)」のことであるが、このような「まったく身体から切り離された(disembodied)人間の情動なるもの」は考えられないだろうというのである。たしかにそのようなものは考えられない。身体の関与がなければ、すべては冷血な認識に平板化されてしまうだろう。身体の関与があって初めて、認識の冷血さに暖かさと熱が加わる。そしてそれを感じることによって情動が生ずるとされるわけだが、 見られる通り、ここには、つぎのような二組の対立関係が前提されている。
         認識(知性)  ⇔  身体
         認識(知性)  ⇔  情動
そこに、「情動とは身体的変化を感じることである」というあの定義を重ね合わせるならば、この二組の対立関係はほとんど同じことに帰着する。つまり
         認識(知性)  ⇔  情動(身体的変化を感じること)
だが、ここには一種の混同があるように思われる。「認識(知性)  ⇔  身体」は、デカルト以降お馴染みの心身二元論の対立図式であるのに対して、「認識 (知性)  ⇔  情動」の方は、「心」の内部での対立関係である。情動から身体の寄与部分を取り去るならば冷血な認識が残るだけというジェームズの想定を額面通り受け取って裏返してみれば、情動とは認識に何かが付け加わった結果だ、ということになるだろう。つまり、情動は認識を前提にしていることになる。ただし「身体からの反響」が加わるために、「冷血な認識」は「熱い認識」にならざるを得ない。それが情動なのである、と考えることはできないだろうか。もしそう考えるならば、情動はあくまで一種の認識である、ということになる。
 しかしジェームズは、このようには考えなかった。彼にとって、「認識(知性)  ⇔  情動(身体的変化を感じること)」という単一の対立関係がすべてなのである。おそらくジェームズは、この単一の対立関係に収斂させるために、あの定義を操作的に案出したのだろうと思われる。だが、それによって、「認識(知性)  ⇔  情動」の対立は、「認識(知性)  ⇔  身体」の対立に逆戻りしてしまうのである。情動は、一種の認識という身分を剥奪されて、身体の(あるいは物質)の側へと追いやられてしまう。情動には、いかなる意味での認識(知性)の要素も認められない、ということになる。そこから当然ながら、情動とはまったく認識を欠いたもの、したがって、まったく不合理なものということが帰結する。しかしはたして、情動はそれほど不合理なものであろうか。
  後のジェームズ批判は、情動の不合理性という問題に集中する。ソロモンのジェームズ批判はこの一点に集中していたし、また心理学内部では、シャクターが「情動のニ要因説」(つまり、身体的変化+認識=情動という修正ジェームズ主義)を提唱したり、「情動は認識を含むか否か」をめぐるザイアンスとラザラスの論争が生じたのも、同じ主題のヴァリエーションであった。
 ところが、ジェームズの情動論には不思議な曖昧さがあって、ジェームズ自身は情動が不合理だとも、認識を含んでいないとも言っていないのである。彼の関心は、あくまで情動を「身体的変化を感じること」として定義し、その定義の妥当性を説得的にすることにあった。だが、肝心の「身体」についてジェームズはどのように捉えていtたのか。この点が、ジェームズにおいて曖昧なのである。
ⅱ) 身体の(非)合理性 
 身体はその内奥においてわれわれの意思的コントロールの及ばないものであるから、情動が身体に根差すとされる以上は、情動もわれわれのコントロールの及ばないもの、ということになる。身体には身体独自の論理があり、情動はそれを受動的に反映するほかはないだろう。ソロモンは、ジェームズの用いる術語に、フロイトと共通する「水力学(hydraulic)」的な意味合いを嗅ぎ取っている(4)。「怒りに水門を開く(vent)」、「情念が表明されるさいの爆発的なエネルギー」、「感情の噴出(gushing)」、「それに栓をする(put a stopper)」ことは不機嫌をもたらす、「通常の出口がふさがれると、[神経の]流れが別の経路に侵入する」等々。水力学的メタファーは、一九世紀末の生理学にとって欠かせない小道具の一つだった。それは元来エネルギーの転位・移動を物理学的に記述するためのものであったから、それを「心的装置」の記述に転用することは、「意識」の意義を極小化するように作用する。これはフロイトの「無意識」の構想にはすこぶる有益であっただろう。しかし同じことを情動に当てはめることは、情動を、意識とは無関係な物理的過程に解消するように作用するのだから、ジェームズおいて、情動は、身体の水力学的論理を受動的に反映する(前意識的な)現象になってしまう。ジェームズの批判者たちが警戒するのもまさにこの点である。
 ところが、それとは別の側面もジェームズのうちに指摘できるのである。すべての生物の神経系は、特定の対象に遭遇して特定の反応をする生得的傾向の束のようなものである。猟犬の嗅覚は、鹿や狐の四肢の存在と緊密に結びついている。めん鳥は白い球形のものを見るや、それを暖める態勢をとらずにはいられない。雛が孵ると、めん鳥はまた新たな行動パターンで対処する。異性間の愛情、母親の赤ん坊に対する愛情、蛇に対する怒り、断崖に対する恐怖も同様に記述できるだろう。これらは神経系に生得的に備わっている環境適応力の所産であるが、そのさい重要な役割を果たすのが「予知=先取り」の機能である。ジェームズは‘nervous anticipation’という面白い表現を使っている(5)。すべての生物は、その環境において自らの生存を確保するために、この‘nervous anticipation’の能力を休ませることはないだろう。それにより自己にとって快・不快の徴候をすばやく感知して、それに見合うような行動の態勢をとる。こうした‘nervous anticipation’の一つが「情動」だというのである。
 もちろん人間においては、こうした生得的な適応反応は問題にならない。身体的な反応を自動的に引き起こすような特定の対象というものもない。身体的変化を引き起こさない対象であっても情動の対象になりうる。しかしこのことは、自説に対する反論にはならない、とジェームズは言う。よく知られた進化論の原理によると、「環境中のある要因に対して有用であったために、ある能力がある動物の中に固定化していったことがかつてあったとしても、その能力が、それを産み出したりそれ保存することと元来何の関係もなかった環境中の別の要因に対して有用であることが判明するということがあるだろう。ある神経系の放出への傾向がいったん確立すると、予測もされなかったありとあらゆるものが、その引き金を引き、結果を引き出すのである…。私の環境の中で最も重要な部分となっているのは、私が遭遇する人間である」(6)。
 つまり、かつて人間が情動という能力を培っていた自然環境はもはやなく、人為的な環境があるだけである。しかし環境の変化にもかかわらず、情動という能力は、その適用対象を変えただけで、いぜんとして有用性を失っていない。それは、対人関係の中で、私にとって快・不快(有用・有害、善・悪等の)の徴候をすばやく感知して、それに見合うような行動の態勢をとらせる‘nervous anticipation’の役割を果たしているのだろう。このような先取りが可能であるためには、ある状況から予想される先行きについての見通しを想像したり、それが私にとって有する意義を判断するという作業が必要であろう。確かに人間はこのような作業を瞬時に行っているだろう。しかし、ジェームズとともに、このことを「情動」という主題のもとで語ることは、少し奇妙なことではないだろうか。この点についてはすぐ後で立ち返ろう。
  それにしても、(神経系の集積としての)身体に対して、ジェームズが込める意味合いはおよそ一義的とは言いかねるものだ。水力学的な原理に従うエネルギーの貯蔵庫としての身体。環境に対して適合的に行動することを可能にするものとしての身体。前者は盲目的な暗闇であるのに対して、後者はまるで智慧の宝庫のようなものだ。おそらく身体にはそのいずれの要素も含まれているのであろう。ジェームズはそれを忠実に記述したにすぎない、と言えるかもしれない。もしそうであれば、「身体的変化を感じること」としての情動という定義も、確固たる一義性を持つものではない、と言わなくてはならない。ジェームズが目指したものは、生理学的解明を最終目標とするような情動論であった。だが1884年の論文は、その意図が命ずる以上のことを語っているのである。
ⅲ) 情動の社会性
 以上見てきたように、ジェームズの情動論は、その表面だけを見るならば、伝統的な(デカルト的)情動論の蒸し返しにすぎないように見えるが、それ以上のものが萌芽的に含まれていた。ジェームズによれば、情動の元来の機能の一つに「先取り」があった。侮辱されて殴り返すという例がすでに出てきたが、それは通常相手を殴ることがその場では許されることをあらかじめ見越した上での行為である。それは、先の状況の青写真ができて初めて可能なことだろう。軟弱だという評価だけは避けたいという判断が先行しているかもしれないし、あるいは「粗暴だ」というレッテルを貼られることを意に介さない人間だということを宣言したいがための行為であるかもしれないし、断乎たる示威行為であるかもしれない。ある人にじっと見つめられていることに気づきドギマギする。それは、その人の意図を察知した上での困惑であるかもしれないし、かすかな喜びであるかもしれないし、逆にその人の意図が読み取れず、したがって「先取り」できないことのもどかしさであるかもしれない。そのどれが正しいかはそのときの状況次第だろう。このような状況で「先取り」の能力を発揮するということは、きわめて複雑な(あるいは複雑になりうる)対人関係についての把握と、きわめて高度な知的能力(あるいは想像力)の行使を前提としているはずである。ジェームズはそのような点を視野に入れていたはずなのだが、しかし、なぜか彼がそこから引き出したのは、「身体的変化を感じること(the feeling of the bodily changes)」といういわば皮相な現象だけだったのである。
 情動の現象は、それ単独で生ずるということはほとんどない。つねにある種の文脈とその文脈についての理解を伴っている。つまり、自他の関係の把握、ある行為の是非についての判断、ある行為がもたらす帰結についての先取り等のことが絡み合ってある情動が生ずるのである。したがって「情動は認識を含むか」という問いには、当然「イエス」と答えなくてはならない。それに対して否定的に答える人は、情動が生ずる文脈を度外視して、個人の感情(the feeling)が発生する瞬間的状態に視点を集中しているのである。あるいは「熊に遭遇する」といったデカルト以降お馴染みの、文脈というものを考慮にいれる必要のない突発的で瞬間的な出来事だけを選び出しているからである。そうした稀な出来事をまるで典型であるかのように見なし、それに接したときの「身体的変化の感情」をもって情動の一般的定義を下そうとすることは、特殊性と一般性を混同することだ、と言えるであろう。
 ジェームズは、情動の社会的側面をたぶん視野に入れていたはずなのに、それをなぜ情動の定義に反映しようとはしかったのだろうか。それは、情動とは個人的な(個人の内部で生ずる)現象であるということが、あまりにも自明だったからであろう。実際、そのことを否定する人がいるだろうか。私の怒りは、誰とも共有されることはない私だけの経験である。だが同時に私の怒りは、つねに誰かに対する怒りであり、何かについての怒りであるはずである。私は怒りを外に向けて表わさなくとも、たった一人でいようと、私の怒りは私の内部に滞留してはいない。それは私の外部に向けられているのである。この点をもっとも強調した哲学者に、すでに何度か引き合いにだしたロバート・ソロモンがいる。ただしソロモンは、サルトルの情動論から出発してそれに改良を加えていくという仕方で自説を展開したのだから、サルトルの見解をまず見ていくことにする。

2. 「世界の魔術的変容」

 サルトルの『情動論素描』は、ジェームズから視線を移行する人に対して、まるで風景が一変したかのような印象を与えるにちがいない。それは、生理・心理学的な非人称の世界から、人称的世界の直中に連れ戻すからである。残念ながら、そこで提起された定義の大仰さのためか、いまやあまり取り上げられることもなくなったが、その着想はいまだ古くはなっていない。ジェームズとの際立った違いを簡単に列挙してみよう。
・ 生理学への還元という意図はまったくない。したがって、情動を個人の内面の瞬間的状態に切り詰めて見ようとすることもしない。
・ 生理学的還元主義が、既述の通り、意識の意義を極小化する方向に向かうのに対して、サルトルは情動を意識の作用として捉える。
・ 情動が意識の作用であり、作用にはつねになんらかの目的(finalit?)が内在している以上、情動の目的とは何かが問われなければならない。サルトルはこの点を精神病理学者ジャネの著作『妄想と精神衰弱』から学んだようだ。
・ サルトルは、「意識とは何かについての意識である」という現象学の格率を情動にも当てはめる。「情動的意識はまず世界についての意識である」、「情動は、世界を把握するある種の仕方である」(7)。サルトルにとって、その格率は、考察のあり方が心理学的抽象化に傾斜することを防ぐために、たえず留意されるべきものであった。心理学者は、たとえば情動を考察するとき、情動を情動の対象から切り離して、情動そのものに埋没してしまうが、それによって「情動はたえず対象に立ち戻り、そこで糧を得ている」ことを忘れてしまう。サルトルにとって、この情動とその対象との相関関係に対する留意は一貫しており、情動そのものの定義にまで反映されるのである。
 さて、サルトルの見解を概略的に述べてみよう。そのために彼がヒントを得たであろうジャネの症例を取り上げるのが好都合である。
ⅰ) ジャネの症例 ― 情動の目的 
 病状の経緯を打ち明け然るべき対処法を授かるためにジャネのところにやって来たのに、最後の最後まで打ち明けることが出来ず、遂にはワっと泣き出してしまう(時には神経的な発作に見舞われる)いく人もの患者を診た経験から、ジャネは情動についてわれわれが持つ意識は、「失敗についての意識であり、失敗した行動についての意識」であるという洞察を得た。神経症周辺の病気については、その原因にまで遡って述べたてることは、しばしば大変困難である。そこには口外したくない個人的事情が秘められていることだろう。「なされるべき行動はあまりに困難である。涙や神経の発作は失敗した行動を表わしているのであり、それは、最初の行動[石に打ち明けるという行動]にとって代わったのである」(8)。
 ジャネはこの洞察を機械論的に解釈してしまうのだが、サルトルは目的論的に解釈しなおす。つまり、患者が泣くのは、打ち明けることが出来ないないからなのではない。打ち明けるという行動を「しないために」、「なにも言わなくてすむために」泣くのである、とサルトルは解釈する。それによって情動の中に目的性を導入するのである。
「もしわれわれがここで目的性をまた導入するならば、情動的行動は決して混乱などではないことが理解できる。それはある目的をめざす諸手段の秩序だったシステムなのだ。そしてこのシステムが呼び出されるのは、することが出来ないもしくはしようとは思わない行動を隠したり、それを[他の行動によって]置き換えたり、脇に追いやったりするためなのだ。同時に、情動の多様性の説明も簡単なものになった。それらは、どれも、困難を回避する違ったやり方であり、特殊な逃げ道、特別なペテンなのである」(9)。
 見られるとおり、ここにはジャネの「失敗した行動」としての情動という定義の大胆な一般化がある。精神科の診療室から得られた見解を情動一般にまで拡大できるのかという疑問がすぐ出てくるだろうが、この点は後回しにしよう。留意すべきなのは、情動とは「ある目的をめざす諸手段の秩序だったシステム」であるという規定であり、そこに発想の根本的転換があるということは容易に見て取れるだろう。デカルト-ジェームズ的な伝統において自明であった「情動=受動的現象」という前提は、きれいさっぱり払拭されている。情動とは、目的をめざす能動的行為なのである。この点を終始一貫して強調したことが、サルトルの情動論の際立った特質なのである。
ⅱ) 世界についてのプラグマティックな直観
 すでに触れたように、「情動的意識はまず世界についての意識である」、「情動は、世界を把握するある種の仕方である」。恐れは、あるものについての恐れであり、喜びもある事柄についての喜びである等々。それは、世界の中のもろもろの事象に関わる行為である。あることを恐れたり、あることを喜ぶことは、一面から見れば、その行為者の内面的な経験にすぎないが、多面から見れば、その人にとって世界(の中の事象)が恐ろしいものとして、あるいは喜ばしいものとしてたち現れるあり方なのである。ここでサルトルが「世界」という言葉をいかなる意味で使っているのか、ということを簡単に見てみよう。
 ある目的をめざしてある行為をするとき、その目的に達するためには一連の手順を通過しなくてはならない。その手順は、われわれの意欲や意図に応じて一様ではないし、複数の道(手段[moyen]) が分岐してそのいずれかを選択しなければならない。複数の道が、実現されることを要求してひしめき合っている。それらをかき分けながら一本の道を拓いて行くことが、行為するということなのだろう。行為者にとって、彼をとりまいている世界は、実現されるべき道(手段)が刻印されている(しかもその都度の行為や欲求におうじてその相貌を変える)地図のようなものである。これをサルトルは、世界の決定論についての「プラグマティックな直観」と述べている(10)。ハイデガーの道具分析がサルトルの念頭にあったことは間違いないが、ただしそれは肝心なことではない。世界を構成している道は平坦なものではなく、「細くて険しい」のである。いたる所に落とし穴や罠が仕掛けられている。したがって「この世界は困難なのである」(11)。ジャネのあの婦人は、病気を治すために病院に行った。診療室、医師、病状説明、過去のエピソードの数々。そのとき彼女にとって、目的に到達するためのこれまでの道が、忌まわしい「落とし穴」に通じるものとして立ち現れていたのだろう。
ⅲ) 世界の魔術的変容
 こうしてサルトルは「情動とは何か」についての一般的な説明に移る。情動とは「世界を変容させること(transformation du monde)」である(12)。通常の行為は、あらかじめ「地図」に刻印された道を選ぶことによって決定されるわけだが、どの道も困難で落とし穴だらけに見えるような場合はどうなるのか。それでも行為しなければならないならば、「そのときわれわれは世界を変えようと試みる」。つまり、世界を、通常のように地図に記されている道によって定められているものとしてではなく、「魔術(magie)」によって決定されるものとして生きるのである。情動とは「世界の魔術的変容」なのである。ジャネの患者について、サルトルは次のように述べている。
 「その患者は、ジャネのうちにある感情を生じさせたいのだ。つまり、彼女は、ジャネのひたすら患者の言うことを聞こうとする冷静な態度を、思いやりに満ちた好意的態度に置き換えたいと思っている。彼女はそうなることを望み、自らの身体を使ってジャネに好意的な態度を取らせたいのだ。同時に、病状の告白が不可能となるような状態に身を置くことによって、彼女は、なすべき行為を自分の手の届かない所に投げ捨てるのである。いまや、彼女が動揺して泣きじゃくっている限り、話すという可能性はまったく無いに等しい。ここで、可能性は抑圧されているわけではない、告白は依然としてなされるべきなのである。しかしそれは彼女の手の届かないところに遠ざかってしまい、その告白をしようと思うことはもはや出来ず、いつか告白出来ればと願うことしかできないのである…。情動の発作は、ここでは責任の放棄である。世界の困難についての魔術的な誇張がある…。世界はあまりに過度なことをわれわれに要求する、つまり、人間として差し出すことの出来ないことを要求するがゆえに、世界は不正で敵対的なものとして現れるのである」(13)。
 サルトルの情動論は、情動とは何かを論じながら、いつのまにか、情動(に囚われる人間)を断罪するかのような方向にそれて行ったようだ。告白できずに泣きじゃくる患者は、倫理的に非難されるようなことしたわけではないだろう。自己を偽っているわけではなく、むしろ泣くという行為によって自己のあり方を表明している、とさえ言えるのではないか。それはそれで一つの告白の形式だろう。逡巡して少しだけ先に延ばそうとすることが「責任の放棄」だとしたら、精神科の治療は成り立たない。フロイトがどこかで述べていたように、患者は医師に対して抵抗する権利をもっているのである。
 それにしてもなぜ「魔術」なのか。この「魔術」という語には、サルトル独自の人間観が込められているようである。「魔術というカテゴリーは、社会における人間の相互心理学的関係、より正確に言えばわれわれの他者知覚を支配している…。人間はつねに人間にとって魔術師なのであり、社会的世界はまず魔術的なのである」(14)。通常の「道」を知的廉直さをもって進んだり合理的な話し合いで事を処理するかわりに、感情的な経路に廻りこむことによって他者を動かしコントロールしようとする、そのような欺瞞や策術の総体が「魔術」であり、対人関係はそれに満ちている、というわけであろう。手段‐目的の連鎖からなるプラグマティックな世界を一挙に消し去り、「自らの身体を使って」、つまり涙、怒声、笑い等によって人を支配しようとすることに、サルトルは呪術と大差のない非合理性を見出すのである。そこから情動そのものが、否定的現象として現れてくるのである。情動は、世界の圧力から逃れるために意識が自発的に堕落して行く(se d?grader)現象である、というのである(15)。
 
3. ソロモン:情動の合理性から情動のポリティクスへ

 サルトルの見解のうちで、捨てるべきものと残しておくべきものを峻別しなければならない。サルトルは、従来の情動論を支配してきた生理学的な伝統とは完全に手を切ったつもりだったのだろうが、残念ながらその根底にある「情動=非合理性」という前提を共有している。その点で『情動論素描』は、その革新的な動機にもかかわらず、それが反駁しようとした伝統的見解の呪縛にまだあまりにも囚われていたのである。
 途中で注意を喚起したように、情動とは「ある目的をめざす諸手段の秩序だったシステム」であるというサルトルの考え方にはネガティヴな響きはなかった。また、「情動的意識はまず世界についての意識である」、「情動は、世界を把握するある種の仕方である」という捉え方もとくに問題はない。また「情動は世界を変容させること」という規定にも奇妙な所はない。通常のわれわれの行動は世界に対して「プラグマティックな直観」に導かれているのに対して、情動的な意識は世界を別様に把握する、たとえば「まばゆいものとして」あるいは「陰鬱なものとして」等々の色合いのもので世界を把握すると述べることには、特に奇妙な考えが込められているわけではない。その把握のもとで世界は別様に立ち現れてくるであろうし、その限りで「情動は世界を変容させるのだ」と言うことも許されるであろう。しかし、通常の意識のあり方と情動的意識のあり方の区別が、「理性-情動」の区別と等値され、さらに情動が「魔術」と等値されるやいなや、それまでの貴重な洞察がいびつに歪み始めるのである。
 ロバート・ソロモンは、サルトルの情動論がこのような偏向にもかかわらず「正しい方向に向かう大きな一歩である」であると感じていた(16)。サルトルは自分自身の洞察を『素描』では充分表わしきれていないまま特定の方向に歪めてしまった、と感じていた。まず検討されなければならないのは、「情動=非合理性」という前提である。その前提を正したうえでもう一度サルトルの情動論を見直すとしたら、どのような方向にアレンジし直せばいいのかという問題意識のもとで、彼の論文「情動と選択」(1973年)は書かれた。そこでソロモンは、情動は「志向的」であり、「判断」であり、「合目的的」であり、「選択」であり、「合理的」であるという点を強調するのだが、その骨子を簡単に見てみよう。
  ⅰ) 情動の合理性
 「情動と選択」でもっとも強調点が置かれているのは、「情動は判断である」ということである。しかも「規範的でありしばしば道徳的な判断」である(17)。たとえば、ある日私の車が忽然と消えた。その事実は、私を困惑させるかもしれないし、悲しませるかもしれない。逆に私は嬉しくなるかもしれない(「どうせ廃車同然だったので、手間が省けた」)。そこに「盗まれたにちがいない」という判断、言いかえれば「私に対して不正が行われた」という判断が加わるならば、怒りが込み上げてくるだろう。事実であるのは車の消滅ということだけである。その事実に対して、不正である、大きな損失を蒙った、どう対処すべきかわからない、それはかえって私を楽にするだろう等々の、事実から直接引き出されるわけではない判断が加わることで、初めて情動が湧き出てくるのである。「もし私がなんらかの不正がなされたと信じなければ、私は怒ることは出来ない。…同様に、もし私が私の恋人を称賛できなければ、私は愛することは出来ない。…もし私が私の置かれた状況をばつの悪いものと思わなければ、私は恥じたり困惑したり出来ない。もし私が損失をこうむったと判断しなければ、私は悲しくなったり嫉妬を感じたり出来ない。すべての情動がこのような判断を含意しているかどうかは確信がもてない。たしかに気分(憂鬱や幸福感)は特別の問題を差し出すだろう。しかし情動は概してこの特徴を要求しているように思われる。情動を持つことは、自分の置かれた状況について規範的な判断を持つことなのである」。
 情動とは判断である。そして判断が合理的であるのと同じ意味で、情動は合理的である。もちろん不合理な情動というものもある。だがそれは不合理な判断があるのと同じである。情動が「理性」に対立的に扱われるさいに、「一面的で、偏っていて…」といった類のネガティヴな述語が情動の弁別特徴として挙げられるが、厳密に考えれば、「理性」に基づいた判断であっても、「一面的で偏っている」ことを避けることは出来ないはずである。情動と理性の違いは、まったく別のところに求めなければならないのであるが、この点については後述する。
 また、情動とは判断であり、判断は広い意味での行為である。「あらゆる行為と同様、判断は世界を変えることをめざす」(18)ならば、情動も行為であり、世界を変えることをめざす。言いかえれば情動は「合目的的」である(「…するために」という説明が可能である)。この点はすでにサルトルが強調していた。だが、「自分の言い分を通すために怒る」、「重荷から逃れるために泣く」、「歓心を得るために笑う」等はありふれた行為であるから、「世界の魔術的変容」という大仰な言葉を持ち出す必要はない。それは、一種の「戦略」、他者を上手く操る(manipulate)ことによって、自分に勝利をもたらしてくれる戦略(winning strategy)(19)なのである。後にソロモンは、「あらゆる情動は、個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略である」と一般化するのだが(20)、この点についても後述する。
 以上のように、情動の合理性と合目的性を前提にすれば、逆に、情動が一見非合理に見える理由も簡単に説明がつくだろう。
 第一に、情動が合理的な判断ではなく、非合理的であるように感じられるのは、情動の生じる状況が概して非合理であるからである。あるいは尋常ではないからである。尋常ではない状況が出現して、しかもそれに反応しなければならない場合、人はその状況をそれとして察知し、まずそれに相応しい反応をする。それが情動である。それは尋常ではない状況に対する合理的な反応である。
 第二に、情動が非合理であるように見えるのは、情動がしばしば短期的目的のために動員されることによる。それが長期的な目的と衝突すること多々あるだろう。ジャネの患者の「泣く」行為(そこに込められた悲しみ)が不合理であると言えるとしたら、それは治癒するという最終的目標に対して阻害的に働くからである。治療する立場から見れば、彼女の行為と情動はおろかな一時しのぎかもしれない。自己の言い分を通すために怒り出す人は、その場では安っぽい勝利を得られるかもしれないが、永続的な信頼関係を得るにはいたらないだろう。一時の感情で結婚や経歴を台無しにする人は珍しくないだろう。そうした感情は、その場では正当な理由を持ち、その場で設定された目的に適合しているだろう。長期的な視点との整合性を省みず、便利な道具として使用されることから、情動そのものが非合理であるように見なされるのだが、非合理であるのは情動をそのように利用する人間の方であって、情動そのものが不合理であるとは言えないのである(21)。  
 ⅱ) シナリオとポリティクス
 情動は判断であり、しばしば規範性を含む判断である。またそれは合目的的であり、その限りで通常の行為と異質なわけではない。情動は、他者との関係の中で、尋常ではない状況に対する正当な反応であり、自尊心を最大限に保つような戦略的な機能を果たしている。このようにして「情動と選択」(および3年後の大著『パッションズ』)は情動の合理的性格を最大限強調して行くのであるが、そこには検討なり再考の余地がある論点がいくつか含まれていた。とくに表題が暗示しているように、ソロモンは情動を一つの選択として(つまり選び取られたものであり、したがってそれに対して責任を負うべきものとして)見なしていたのだが、これは激しい批判に見まわれたようである。しかし残念ながら、この点についてソロモンは自己弁明の機会をいまだ見出していないようであるし、この点については触れないでおこう。その他の点についてもソロモンはいくつかの軌道修正を行っているが、そのうち二つの修正点に言及しておこう。
 一つの修正点は、「判断」に関わる。判断と言うだけでは、単独の行為というニュアンスが付きまとうが、ある判断が下される場合その前後の脈絡についての多くの判断が付随していることが通例である。したがって単独の「判断」というよりは、一連の判断が緊密に結びついて一つの有意味な全体を形成するような事態を言い表す言葉の方が望ましい。ソロモンは「シナリオ」という言葉を用いるようになる。「われわれの経験やわれわれの行為に個人的な意味が与えられるようなシナリオ」を情動は設定する。情動とは「ある特定のシナリオを構成する判断の集合」である(22)。たとえば、怒りを覚える人は、周囲の状況に対して、法廷のシナリオにしたがった意味づけをするだろう。怒りの対象は被告であり、それに対して直ちに裁きが加えられなければならない、という仕方で状況を捉えるのが怒りの機能である。怒りは独善的になりがちだが、それは、怒りが描くシナリオにおいて、怒りを覚える当人が原告と検事と裁判官(と、場合によっては死刑執行官)になるからであり、法廷での最高規範が社会正義というよりは、その当人の自尊心だからである。その自尊心の極大化を充足するような判決が即座に下されるからである。これはたしかに安っぽい(復讐劇の)シナリオの一つだろうが、こうしたお馴染みのシナリオ(不正には懲罰を下すべし、という社会的に是認された思想・行動のパターン)を習得していなければ、人はそもそも怒ることすら出来ないだろう。「愛という言葉がなかったならば、誰も愛することはなかっただろう」(ラ・ロシュフコー)というよりも、愛についてのシナリオがすでに豊富にあるからこそ、われわれ自身もそのドラマを演じようとするのである。また概して人はハッピーエンドのドラマを愛好するものだが、それは、日常生活においてわれわれの描く「情動のシナリオ」がほとんどつねにハッピーエンドで終わることの反映であろう(23)。こうした多様なシナリオの集積の上に、人間特有の喜怒哀楽は成り立っている。自分の置かれた状況とそれが含意する帰結をすばやく一つの有意味な「まとまり」として把握し、それに相応しい反応をすること。それは、おそらくジェームズが「神経系による先取り」に注目したときに念頭にあったことかもしれない。だがこの「先取り」は、人間において、神経回路を経由して直ちにある身体的変化と直結するというよりは、(当然ながら)言語的あるいは文化的なパターンへの翻訳という回路を経由せざるを得ない。その翻訳のプロセスが経由する標準化された回路が,
「シナリオ」という言葉で言い表されているのである。
 このソロモンの着想は、後に「パラダイム・シナリオ」という概念で情動を発生的に説明しようとしたロナルド・ディソウザや、ジェームズ・エイヴリルのような社会構成主義的情動分析の先駆である。しかしこの点に進む前に、もう一つの修正点に言及しなければならない。ソロモンは、1998年に発表された「情動のポリティクス」という論文において、「情動と選択」(および『パッションズ』)執筆当時を振り返って、当時の見解はいまだ「デカルト的伝統にとどまって」いたと記している(24)。「情動とは判断である」であるというテーゼを説得的にする過程で、ソロモンは、判断の道徳的・戦略的性格に何度も言及していたし、その限りでその社会的意味合いも視野に入れていたのだが、やはり情動を「個人的な経験として扱いつづけていた」。したがって、デカルト-ジェームズ的な伝統に対する仮借ない批判にもかかわらず、「内的な経験」という特権的な空間は温存されていた。他方で、アリストテレスがすでに暗示していたように、「情動に対するポリティカルなアプローチ」というものがあって、それは「情動を記述する枠組みとして、心も身体も用いることなく、社会的状況、そのありとあらゆる微細な倫理的対人的な複雑さにおける社会的状況を用いるのである」(25)。
 ここでソロモンが用いる「ポリティカル(あるいはポリティクス)」という語を単一の日本語に移し変えることは非常に難しい。もちろんそれは、すでに何度も触れた情動の戦略的(操作的)側面を指してはいるのだが、「ポリス、つまりある共同体の中での公共的な場面にかかわる」という意味合いも含んでいる。だから「心も身体も」情動を記述する枠組みにならない、と言のである。
 情動を記述するときに、参照枠として「心」にも「身体」にも頼るな。なぜならそれは「公共の空間」における出来事なのだから。こうした発想の方向性は、まったく別のテーマのもとで、後期ヴィットゲンシュタインやライルが述べていたことにある程度符合するかもしれない。個人主義的な発想から脱却して、すべてを社会的文脈に置きなおそうという発想は、20世紀の後半以降哲学では珍しくもないものとなった。しかし「情動」はそうした潮流にもっとも抗う現象の一つであろう。それはなんと言っても、個々人の内面、主観性の内奥に位置しているものと通常考えられているからである。「情動のポリティクス」はそのことをどれほどまで否定できるだろうか。
 もちろん情動がまったく主観的な側面を持たない、ということではない(それは明らかに偽であろう)。内的なものとして通常記述されることが、外的なこととして記述しなおすことが出来る、ということであるかもしれない。たとえば「恥辱」と「困惑」の違いを、個人の内面に限定していかに記述できるか。内面の感情に訴えることで、その違いが記述できるだろうか。なにか違う感覚が内面に生じているのか。それよりも「恥辱」には非難あるいは告発という意味合いがあるのに対して、「困惑」には差し当たり明確な方向性が得られず、非難の矛先をどこに向けていいか見当がつかない状態、と見るほうが的を射ているのではないだろうか。非難あるいは告発は、誰かに(自己自身を含めて)向けられるものである。人間は生まれてまもなく、泣くことが他者の注意をひきつけ、他者の行動を方向づけることを学ぶ。女性は、従順さの効果をやがて体得するだろう。粗野な人間は怒りを早い時期から武器とするだろう。情動は、対人関係の多様性を反映して、「説得から操作、威嚇」(26)までの多様な形式をとる。ただしそれはあくまで他者に対する働きかけ・関わり方に関連しているのではないか、という疑問が当然出てくる。実はこの点が「情動と選択」執筆当時のソロモンをひどく苦しめた疑問であったのだが、誰とも関わらない純粋に自分だけに関係するように見える情動の現象でもやはりポリティカルな意味合いは指摘できる。「情動の内的ポリティクス」と呼びうるもので、それは「われわれが、世界との関連において自分自身を位置づけ(あえて言えば)自分自身を操作する仕方である…。私が最初に情動の戦略の重要性に気づき始めたとき、当時私は(自分では認めていなかったが)デカルト的スタンスを取っていたのだから、真っ先に私を苦しめたのがそうした内的ポリティクスであった。ここでもまた怒ることが、典型的な例となるだろう。人が怒るのは、「体面を保つ」ためなのであり、それは他者の面前で体面を保つだけでなく、自分自身の面前でも体面を保つためなのだ」(27)。
 自尊心のポリティクス、良心のポリティクスというべきものかもしれないが、このようなことはすでに『パッションズ』でも度々触れられていたのである。そのことは、「あらゆる情動は、個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略である」という『パッションズ』の定義から容易に窺うことが出来るだろう。しかし同時に、この定義からは、情動の在り処は個人の内部に求める他はないという考え方も窺えるのである。当時のソロモンとしては、情動のポリティカルな性格を把握してはいたが、それに相応しい枠組みを鮮明にできないまま、結局はデカルト的枠組みに留まるしか選択肢はなかったのだろう(サルトルもそうだった)。たしかに、情動はほとんど常に他者に関わり(あるいは他者としての自己に関わり)、その限りで対人的な現象であり、個人内部の空間というよりは、社会的空間で展開されるものかもしれない。かりにその考え方が正しい方向を目指しているにしても、そこに危険がないわけでもない。情動を個人の経験に限定しようとする人にとって、それは、情動というただでさえ捉えどころのない現象を、社会性というより捉えどころのない場面に定位させようという無益な試みに見えたであろう。

4. 情動の社会性

 しかしながらソロモンの着想は無益には終わらず、すぐさま賛同者を得た。その中には、ディソウザのような哲学者もいたが、ソロモン自身が『パッションズ』以降精力的に学際的研究に乗り出したことも手伝って、その多くは社会科学系の人たちであった。とくに社会心理学者ジェイムズ・エイヴリルの研究は、情動の社会的側面を浮き彫りにする点で傑出していた。「情動のポリティクス」がいかに具体化されうるのかという問題に対して、エイヴリル(とその周辺の人々)がいかなる構想で応えたのかということに少しだけ触れておきたい。
  ソロモンは「情動を記述する枠組みとして、心も身体も用いることなく、社会的状況、そのありとあらゆる微細な倫理的・対人的な複雑さにおける社会的状況を用いる」ようにしてみよう、と述べた。一方で、他者と関わり合い、一時的な (あるいは持続的な)関係を結ぶにいたる複雑な対人的プロセスがあり、他方では、そのプロセスがある様相を帯びるときに生ずる波紋が情動として立ち現れる。その両者の現象は反映しあっているのであろう(もっとも機械的な反映関係というものではないが)。従来の情動論の決定的な抽象性は、そのような反映関係の一方の極にのみ関心を注ぎ、他方の極を度外視したことにある。そこから、情動の在り処が身体や意識に局所化されたのである。その手順を逆転させて、社会的文脈から情動を見直してみるならば、情動も、ⅰ)他者と関わり合り、他者に働きかける行為として立ち現れてくるだろう。そして、ⅱ)他の(社会における)行為が、暗黙の内に、ある種の規則に則っているのと同様に、情動にも規則がある。というより情動は規則によって構成されている、というのが情動の「社会構成主義(social constructionism)」を標榜するエイヴリルの基本的主張である。もしそれが正しいならば、あらゆる情動は「構成されたもの」である。ⅲ)それは、情動を感じる人がその場で構成するという意味で「構成されたもの」であるが、その当人はそれを無から案出するというよりは、既存の「シナリオ」を転用することであるという意味でも「構成されたもの」である。以下これらの点を簡単に見ていこう。
ⅰ) コミュニケイションとしての情動
 情動は他者に対する働きかけであり、訴えでもある。このことを示す実例は、実はジャネが提供していた。ジャネのあの患者は、泣くことで、医師へと働きかけたのであり、医師に訴えたのである、と単純に考えていいのではないか。「許してください。正直に述べることが出来ません」と告白したのではないか。ジャネはそれを「失敗した行為の意識」と解釈したが、「正直に述べることが出来ない(つまり、失敗した)」ということはジャネに伝わったのだから、そのかぎりで患者の行為は、失敗したのではなく成功したのである。ジャネは情動の原因を情動そのものと混同したのである。おそらく、情動がある種の訴えであるということはあまりに自明であったために、言及するまでもないと思ったのだろう。実際そのことは、幼児の振る舞いを少しでも見知っている人にとっては自明のことだろう。サルトルのように、あの患者の振る舞いを「責任の放棄」と評するのはすこし酷のような気もするが、ある意味では的を射ている。ジャネの患者は、一人の大人の言語表現から幼児的な情動表現へと後退していると言えるであろうから。彼女は、いわば「患者-医師」の関係を、「幼児-庇護者」の関係に変容させたのであろう。
 しかしそもそも「情動とはまず「幼児-庇護者」の相互関係の一部として現れるものであり、したがって基本的にはコミュニケイションに関わる現象であって、プライベートな事象になるのは派生的なことである」というパーキンソンの言葉が正しいならば(28)、あの泣きじゃくる患者の振る舞いこそが情動の原初的形態であると言えるだろう。情動は、まず、誰かに対する未分化な訴えであり、分節化されざる意志伝達の試みとして開始されるのである。これは情動についての発生論的な見解であるが、大人においても、なにか強く訴えたいと思うときにこそ、言語的文節に先立って(あるいは同時に)情動が生ずるのではないか。
 ソロモンは「情動とは判断だ」と言ったが、それではまだ中立的すぎるだろう。判断とは、真偽を問える言明を下すことであり、平叙文として記述できるものだが、情動に含まれる言明は、平叙文とは違う構えを要求する。激しい怒りは他者対する非難を含む。それは確かに、「あなたは間違っている」という判断を含むであろうが、「罰してやるぞ」、「俺をなめるなよ」といった命令文に翻訳されるべき場合が多いだろう。罪悪感は自己に対する非難を含み、その根底には、「私は過ちを犯した」ではなく、「私を許してくれ」という訴えにまで先鋭化されなければならない。希望は成功の可能性を含むが、確率的な判断というより、「あきらめてはいけない」という決意の現れである等々(29)。判断があくまで非人称的な観点に立つ言語使用であるとするならば、情動はつねに特定の人間に対する呼びかけ・訴えである。その特定の人間とは、場合によっては、内面化された他者であったり、また対象化された自分自身であるかもしれない。内的な対話がなければ、どうして一人でいる時に怒ったり悲しんだりすることが可能であろうか。また自分自身を他者と見立てて、それに訴えかけることがなければ、どうして後悔という情動は可能であろうか(「どうしてお前はあの時あんなことをしたのか。恥を知れ」)。他者に対する訴えとしての情動は内面化されて、われわれが自分自身と(あるいは想像的な他者と)交わす無言の対話のなかで繰り広げられるようになる。それはまったくプライベートな事柄となる。だがそれは、パーキンソンが述べたように、あくまで「派生的な」現象であって、もとをただせば、特定の他者とのコミュニケイションという行為に情動は帰着するのである。
ⅱ) 情動の規範性・怒りのルール
 「情動を持つことは、自分の置かれた状況について規範的な判断を持つことである」とソロモンは述べたが、この規範性という点をもっとも詳しく追求したのはジェームズ・エイヴリルであった。
 怒りは、他者に対する非難を含む。非難されるべき不正が行われたのだ。その内容は状況次第で千差万別だろうし、怒りのあり方も無限に多様になりうるが、理不尽な怒りあるいは病的な怒りでもない限り、怒りが一方的な断罪(や処罰)という様相を帯びることはない。非難とはまず不正の指摘であり、その是正を求めることである。他者に対して、正・不正についての社会的な基準を思い知らせることである。理不尽なあるいは病的な怒りでもない限り、怒りはつぎのようなルールに従っている(というより、怒りはつぎのようなルールによって構成されている)、とエイヴリルは述べる(30)。以下は怒りのルールのごく一部を選び出したものである。
1. 人は故意になされた不法行為に対しては怒る権利(義務)をもつ。故意ではない悪事に対しても、もしそれが訂正可能であるならば(怠慢、不注意、見逃しによるものであるなら)、その悪事に対して怒る権利(義務)を持つ。
2. 怒りは人にのみ向けられるべきものである。
3. 怒りは罪のない第三者に転嫁されるべきではないし、怒りのターゲットに対して、怒りを誘発した理由以外の理由で、向けられるべきでもない。
4. 怒りの目的は、状況を改善し、公正を回復し、再発を予防することであって、怒りのターゲットに対して危害や苦痛を与えたり、恫喝によって利己的な目的を遂げることではない。
5. 怒りの反応は、怒りを誘発した原因に見合うべきである。つまりそれは、状況を改善するために必要とされるものを超えてはならない。
6. 怒りは、状況をただすのに必要な時間以上続いてはならない。
7. 怒りは、状況をただそうとする誓約や決意を含むべきである。つまり、適切な実行を意図しているのでないならば、怒るべきではない。無目的な怒りというものはあってはならない。 
 まず、怒りは、正・不正についての社会的な基準が共有されていなければ成り立たない。同じ基準が共有されていなければ、それを侵害したという意識が双方どちらにも生ずるとは限らないし、相手に不正の是正を求めることも意味をなさなくなる場合も出てくるだろう。よそ者(あるいは文化的背景が異なる人)が何らかのルールを破ったとしても、それにすぐ怒りを感ずるわけにはいかない場合が多い。むしろその場のローカル・ルールを説明してやることが先決問題となる。
 怒りには、上述のような運用上のルールにのっとった上での振る舞いである。しかしそのルールそのものに違反があった場合には、怒りは不当なものになるといいうるだろうし、その違反がはなはだしい場合には、もはや怒りとは呼べなくなるだろう。2・3・5・6の違反者は、その八当たり気味の執念深さのために、嘲笑の的になるだろう。4・5・6・7は、情動も結局は社会生活の一コマであることを示している。だれにとっても、社会での生活を円滑に営むことが最大の関心事なのであって、情動もそのために是認され、そのために抑制されるべきものなのである。そこからの逸脱は、怒りを犯罪行為あるいは病理学的現象に変質させる。 
 このようなことはほとんど誰もが知っていることであり、あえて「ルール」などという必要もないことであろう。それはちょうどコミュニケーションが文法というルールに従っていることを誰も意識しないのと同様である。もし既述の通り、情動が一種のコミュニケイションであるならば、情動も他者に向けて伝えようとする行為である。そのためには他者に理解され共有されうる形式を取らなければならない。私がいま抱いている感情が曰く言いがたいものであっても、それはすぐさま喜怒哀楽等のチャンネルに導き入れられて、特定の方向性を与えられなければならない。さもなければ私の感情は、誰にも理解されはしないだろうし、そもそも私自身にすら理解されることはないだろう。私自身が最初の他者であるかもしれないし、そうでなくてはならない。ジェームズが言うように、情動には身体的変化が伴うだろう。しかしその身体的変化によって生ずる漠たる混沌が、私自身によって理解され他者に共有されうるようになるためには、一定の規範的な形式が必要である。それらによって明確な形姿を得て初めて情動は情動となる。したがって純粋に個人的情動というものはない。情動は、たとえ表立って言い表わされなくとも、また私一人しか居らずそれを伝えるべき他者が間近にいなくとも、それが喜怒哀楽の限定された相のもとに立ち現れるとき、他者に向けられているのである。誰もが共有しうるこのような規範に従ってわれわれの情動は構成されているのだから、この意味での情動は、個人的なものではなく、「個人を超越した、したがって客観的な存在を持つ」とエイヴリルは述べるのである(31)。
 情動のこうした超-個人な側面を、エイヴリルは当初「一時的な社会的役割」という観点のもとで追及していたのだが、次第に彼はその術語の使用を控えるようになった。情動はつねに一時的なものであるというわけではないし、長期にわたって持続する情動もある。また瞬間的な情動にしても、そこには、情動を起こした原因の把握から、それに対する対処の仕方に関する顧慮に至るまでの複雑な要因が凝縮されているものである。それを展開するならば、そこにはおのずと「ストーリー」のような広がりが指摘できるはずである。ここでエイヴリルは、ソロモンが「判断」から「シナリオ」に移行したのと類似した理由によって、「一時的な社会的役割」から「ストーリー」に移行する。怒りの場合「中心的テーマは「俺を非難するな。悪いのは向こうだ。それに俺はどうすることも出来なかったのだ」ということである。怒りを感じることは、自分自身に対してそのようなストーリーを語ることである」(32)。
 ⅲ)  シナリオ/ストーリーとしての情動
 情動は、他者に向けられたコミュニケイションの行為であり、したがって他者に理解され共有される形式を要求する。しかも前後の文脈や時間的な広がりを考慮するならば、ストーリーを物語ることに喩えられる。この点について具体例を二つ見てみよう。
 情動は、それが産み出された文脈のなかに位置づけられている限り、その文脈における適切な反応として理解することが容易にできるが、いったん文脈から切り離されるやいなや理解困難になるものである。言いかえれば、単独で生ずる情動なるものは理解困難である。このことは、ケネス・ゲーゲンとメアリー・ゲーゲンの実証的な研究がよく示している。彼らは、20名の学生を対象にして、同学年の学生が部屋にやって来て、たとえば「私はあなたに怒りを感じている」と述べている挿絵を提示して、被験者がいかなる反応を示すかを調べた。結果は、一人の例外もなく「なぜそう感じているのか」を聞き返すという反応だった。つまり知り合いがやって来て「私は怒っている」等の情動的な発言をした場合、それに対して自由に反応できるわけではなく、その原因を尋ねる以外の選択肢は残されていないのである。それは、「なぜ」と聞き返すことが社会的な基準に適う唯一のあり方であるというばかりではなく、「なぜ」が「私は怒っている」の必須の部分ですらあるからだろう。「情動的表現は、それが物語の文脈の内に位置づけられない限り、意味や定義を欠くのである」(33)。「私は怒っている」で完結する感情はありえない。それは、「なぜならば…」につづく部分、つまり情動の原因となった事情なりストーリーを補充しないうちは、完結しないのである。言いかえれば、情動は、満たされなければならないストーリーの一部(あるいは表題)にすぎないのである。
 この仮想的な対話は、怒りの原因を尋ねられた友人がその説明を話すことによって続行される。たとえば「あなたが私の学業成績を第三者に漏らした」等の仮想的な説明が与えられ、それに対して被験者がいかなる反応をするかということが繰り返されるのだが、いくつかのステップの後に「悪かった」「いいや大したことじゃなかったんだ」といった具合に相互が歩み寄ってもう対話がそれ以上続かないところでストップする。相手の怒りが不適切に思えるような受け答えをしたり(「君のためを思ってしたんだ」)、怒りをもって怒りに反応する場合は、対話が長引いたり決して終わりを迎えられないこともあったが、やはり双方が歩み寄る場合が最も多かったようである。「情動のシナリオの終わりは、ほとんど決まって幸福な感情の表現を含んでいるように思われる。ネガティヴな情動の状態(怒り、嫉妬、憂鬱)が、シナリオの本当のエンディングとなるケースは、一つも見つけられなかった」(34)。すでに述べたことだが、情動は社会生活の円滑な営みのために是認され、またそのために抑制されるべきものであるからこそ、われわれの情動が描き出すシナリオは概してハッピー・エンドをめざすのである。
 情動は、このようにそれを補完しそれを具体化するシナリオ/ストーリーがなければ「意味や定義を欠く」ものであるならば、情動の核心にあると通常考えられている「感情(feeling)」はどうなるのか。それは、シナリオ/ストーリーの一局面を瞬間的に捉えたときに私の内面を支配している何かあるものかもしれないが、それを記述することはきわめて難しい。怒っているときの「感情」の瞬間に対しては、「かっとする」「ムカムカする」「イライラする」等まったく貧相な表現しか浮かばない。喜びの「感情」はどう記述できるか。優勝の喜びに浸っているスポーツ選手に「いまのお気持ちは」とインタヴューアーが問いただす状況を思い描いてみるといい、とセオドア・サービンは言っている。まずはまったくの紋切り型の答えが返ってくるだけだろう(「すばらしい」、「信じられない」)。これはスポーツ選手のボキャブラリーの貧困のせいではない。「いまの気持ち」を述べるということは誰にとっても難しいのである。その代わりに選手は、「練習の厳しさ、コーチの役割、家族の応援、収入の不安定さ等々についてのストーリー」を語り始める(35)。ストーリーという複合的連続体にとって、その時々の感情はその連続体の一断面であり、その一点にすぎない。だからそこに視線を集中させてそれだけを記述しようとしても、そこには語るべき何ものもないのである。もう一度エイヴリルから引用すると、「情動の感情は、その瞬間の事象だけをとらえるスナップ・ショットのようなものではない。むしろそれは、あるストーリーを描く動画に似ている…。情動の感情とは、われわれが自分自身の行動を導き説明するために自分自身に語るストーリーなのである」(36)。

5.  メタファーとしての情動

 「情動とは何か」。この問いに対して何か進展があったのか。情動とは、判断であり、コミュニケイションであり、シナリオである。これらは定義なのか。このようなメタファーで何か得られるものがあったのか。
 上で紹介した最近の情動論の一動向に共通する根本的な見解を、サービンは簡潔な言葉で要約した。つまり、「情動は一つのメタファーである」というのである(37)。本義的にあるのは、人間をとりまく状況とそれに対する反応だけである。喜怒哀楽とは、その都度の状況に対する反応であり、具体的な行為の一種である。だがそのような行為が社会的文脈から切り離され、「身体」や「心」に局所的に生ずるものと見なされ、まるで視覚や消化作用と同レヴェルのものとして扱われるようになるとき、「情動」なるものが、その抽象的相貌をともなって浮上してくるのである。「情動」は、このような「移し変え(metapherein)」、社会的文脈から「身体」ないし「心」の閉鎖空間に移し変えられることによって、初めて生成するのである。元来の文脈から切り離された情動は、きわめて抽象的なものでしかない。すでに指摘したように、「私は怒っている」等の情動の表現は、それ単独では誰からも理解されない。それは、その原因となった具体的事象によって補完されないかぎり「意味と定義を欠く」ものでありつづける。同じことは情動一般にも言える。だから、「情動とは何か」という問いをその抽象的レヴェルにおいて受け取り、それに対して答えを出そうとする試みははじめから失敗しているのである。情動の一般的定義を下すことは出来ない。なぜなら、情動なるものは存在しないのであるから。存在するのは多種多様な社会的行為だけであって、そこから転義的に抽出されたメタファーという次元においてのみ情動は与えられるのであるから。
 思うに、情動とは戦略である、コミュニケイションである、シナリオである、ストーリーであるといったすでに紹介した見解は、情動の定義を下そうとしているのではないだろう。それは、情動を、いわばその「出生地」に差し戻してみようとする試みなのである。その出生地は人間の多様な行為によって織り成されている。ソロモンからサービンにいたるまでの試みがその出生地を特徴づけるにあたって、「シナリオ」や「ストーリー」といった演劇的な(dramaturgical)概念に訴えかけたのは偶然ではない。演劇(drama)は、ギリシャ語で「行為」を表わす‘dran’に由来する。すでに社会においてドラマが演じられていたのでなければ、舞台芸術としてのドラマもありえない(芸術は模倣(ミメーシス)なのだから)。また、いかなるドラマ=行為も、シナリオやストーリーがなければ開始されることすらないのであるから、ドラマ=行為の一形式としての情動にそれらが欠落するということはありえない。情動とはシナリオでありストーリーであるという言い方における「シナリオ」や「ストーリー」は、けっしてメタファーなのではない。情動の方がそれらのメタファーなのである。
 情動は行為の一形式である。しかも行為の際立った形式である。日常の行為のほとんどは匿名性に埋没しているか、手段-目的の連鎖のもとでただちに消失してゆくものであるが、やはりどんなちょっとした仕草や振る舞いであっても、行為は、その行為者の特質を顕わに示すものである(38)。だが、喜怒哀楽は、その行為者の何たるかを、その「同一性」、その「人となり」をとりわけ顕著に現わすという点で、際立った行為といえるだろう。あのジャネの患者は、泣くことによって何よりも彼女自身のあり方を示していた。あたかもそこで、それまで闇に没していた患者の人となりが突如としてスポットライトに照らし出されて、そのストーリーの核心部分が眼前に立ち現れたかのようである。情動から行為者の伝記の一部が読み取ることができるかのようである。
 情動に含まれるこのような側面を、カルハンは「伝記的主観性(biographical subjectivity)」という言葉で特徴づけようとした(39)。カルハンは、ソロモンと同様、情動の合理的性格を強調しながら、なおも、情動を理性から区別するのは何か、と問うた。情動は、言うまでもなく、主観的な現象である。だがそのさいの主観性とは、客観性の反対語として使われる意味での主観性ではない。それは、現実を歪んだ仕方で伝えるわけではないし、混乱した表象でもない。それは確かに、現実を公平で中立的な仕方で伝えてはいないだろう(だがそれは、情動だけに当てはまることではない)。情動は、行為者の来歴、その「人格的同一性」、その「人となり」(‘who we are’)を暴露するという点で主観的なのである。その主観性は、非合理性であるとか反理性ということと混同される「主観性」とはまったく別次元での主観性である、と述べてカルハンは、情動の合理性を維持しながら、情動の主観性を擁護するのである。
 情動とは、伝記的に主観的なものである。サルトルの「魔術的変容」もソロモンの戦略としての情動という考え方も、おそらく伝記的主観性に根差したものとして考えていいだろう。誰もが自分自身のストーリーをもち、そこでその主人公を演じている。そのストーリーによって要請された戦術なりシナリオを実行に移すとき、人は情動的にならざるをえない。なぜならまさに、その人の「自己自身」がそこに関与しているからだ。それはソロモンが述べたように、「個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略」という色彩をつねに帯びるだろう。そこにその人の伝記的な主観性が凝縮されて現れるのである。
 だが、「ストーリー」にせよ「伝記」にせよ、誰がそれを書いているのか。そのストーリーの主人公自身が書いているのか。誰もが自分自身のストーリーを持ってはいるが、しかし誰もが、自分の望み描いたストーリーを持つに至らない。誰もが「個人の尊厳と自尊心を極大化するための主観的戦略」を持っているとしても、まさにその事実のために、その戦略が同時に満たされることはありえない。無数の主観的戦略が相互に衝突しては相殺される。行為するとは、そのような衝突と相殺のプロセスに巻き込まれることである。アレントが言うように「誰一人として、自分自身のライフ・ストーリーの著者あるいは産みの親であるような者はいない」(40)。行為はしばしばまったく望んでもいなかったストーリーとなって結実することがある。人はそれを演じながら耐え忍ぶしかない。そのとき感じられるのが、言葉の本来の意味での「パッション」なのである。人は、ストーリーを演じ耐え忍ぶが、それを産み出しているわけではない。したがって、情動にはその人自身の伝記的主観性が反映しているとはいえ、その伝記的特質はその人自身に対して秘匿されている。おそらくは、その人自身に対してもっとも秘匿されている、とさえ言えるかもしれない。
 情動は、こうした多様な「ストーリー」の断片を「伝える」ものである。他者に向かって。ときには、対象化された自分自身に向かって。ときには想像化された他者に向かって。ストーリーの登場人物に向かって。すでに述べたように、情動は、他者に伝達するという行為のもっとも原初的な形態である。それはやがて内面化されて、われわれが自分自身と(あるいは想像的な他者と)交わす無言の対話のなかで繰り広げられるようになる。もし、プラトンが言ったように「自己との無言の対話」が「思考」の原型であるならば、情動はその原型のさらなる原型であると言うべきであろう。われわれは一人でいるのに、しばしば怒ったり泣いたり喜んだりするようになる。さらには、一人でいるときにこそ、怒ったり泣いたり喜んだりするようになる。それはたしかに「情動」の経験であるが、同時に「思考」の経験でもある。「何もしないときほど活動的なときはなく、一人でいるときほど孤独でないことはない」というカトーの言葉は、「思考」の空間に集う不在の他者達との交わりの「喜び」を伝えている。あるいは「悲しみ」であるかもしれないし、「怒り」であるかもしれない。ここでは「思考」と「情動」とは一体のものである。あるいは次のように言った方がいいかもしれない。ここには「情動」も「思考」もあるわけではない。たしかなものとして感得できるのは、他者に向かって関わり合おうとする、また他者に向かって何かを伝えようとする行為だけである、と。このことが納得できる人にとっては、情動が理性的か否かという問いはもはや意味をなさないように思われる。
    
 註
1. William James: What Is an Emotion? ,in The Works of William James:Essays in Psychology, p.170. なお強調はジェームズによる。
2. Ibid.,p.182.
3. Ibid.,p.173.
4. Robert C Solomon:Passions.,p.78.
5. William James, op.cit.,p.171.
6. Ibid.,p.175.
7. Jean-Paul Sartre: Esquisse d’une th?orie des ?motions,Hermann (1960) Paris, p.38-9.
8. Ibid.,p.24.
9. Ibid.,p.27.
10. Ibid.,p.42.
11. Ibid.,p.43.
12. Ibid.,p.44.
13. Ibid.,p.48.
14. Ibid.,p.58.
15. Ibid.,p.54.
16. Robert C Solomon:Sartre on Emotions, in Paul Arthur Schilpp(ed),The Philosophy of Jean-Paul Sartre,La Salle(Ⅲ)1981, p.220.
17. Robert C. Solomon: Emotion and Choice,in Amelie Oksenberg Rorty (ed.): Explaining Emotions.Berkeley: University of California Press, 1980. p. 258.
18. Ibid.,p.263.
19. Ibid.,p.265.
20. Robert C Solomon: The Passions, p.222.
21. Robert C. Solomon: Emotion and Choice,p.266.
22. Ibid., p.275.
23. Kenneth J. Gergen and Mary M.Gergen: Narrative and Self as Relationship,in Advances in Experimental Social Psychology,21(1988),p.52.
24. Robert C Solomon: The Politics of Emotion, in Midwest studies in Philosophy, XXⅡ(1998), p.3.
25. Ibid., p.2.
26. Ibid., p.11.
27. Ibid., p.8.
28. Brian Parkinson: Ideas and Realities of Emotion(1995),p.277.
29. Ibid., p.286.
30. James R.Averill: Anger and Aggression(1982), p.324.
31. James R.Averill: Illusions of anger, in J.T. Tedeschi and R.B.Felson(ed),Social interactionist approaches to aggression and violence(1993), p.185.
32. Ibid., p.187.
33. Kenneth J. Gergen and Mary M.Gergen: Narrative and Self as Relationship, in Advances in Experimental Social Psychology,21(1988),p.48.
34. Ibid., p.52.
35. Theodore Sarbin: Emotion and Act, in R. Harre: The social construction of emotions, p.95.
36. James R.Averill: I feel,Therefore I am -I Think, in   Paul Ekman and R.J.Davidson(ed): The Nature of Emotion(1994), p.385.強調はエイヴリルによる。
37. Theodore Sarbin: op.cit.,p.84.
38. Hannah Arendt: The Human Condition,p.179.
39. Cheshire Calhoun: Subjectivity and Emotion, in The Philosophical Rorum(1989),xx, p.195.
40. Hannah Arendt: op.cit.,p.184.

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